主2
何か贈り物しようと思った。
やっとのことで見つけた僕だけの奴隷はとても従順で可愛い。屋敷へ連れてきてすぐ中へ入るのを拒んだものだから、つい強引に引き留めてしまった。彼女が僕の開けたドアを前にして立ち止まったとき、底知れぬ焦燥感が身を焼いた。ようやく膨らんだ期待はこうも呆気なく裏切られるのかと、全身の血の気が引いた。
「僕の言うことが聞けない?」
優しく、柔らかく、大切に、壊さないように。
そんな思いとは裏腹、僕の唇は勝手に動いていて、硬く尖った声を彼女に向けてしまった。ああ、失敗だ。怯えた目で彼女が僕を見上げたものだから、もう何も考えられなくなってしまった。
逃げないで、行かないで、置いていかないで、一人にしないで。全部同じ意味だ。そのことだけがぐるぐると目玉の裏側に貼りついて、気が付けば彼女を壁に押しやっていた。
幸いなことに僕の勘違いだったようだけれど、初めのうちは後ろめたさと猜疑心でいっぱいだった。この一件で、彼女の心が修復できないくらいに離れてしまったらと想像して吐きそうになった。そうした中で、どうしても嫌がるようなら返品するか逃がしてやるかしなければならないと覚悟していたのだ。
しかし彼女は一向に僕の側を離れようとしない。この醜い僕と朝から晩まで一緒に居て、話をして、家の手伝いまでしてくれる。彼女は目が悪いのだと奴隷屋のオーナーが言っていたのを思い出して納得する。きっとそのお陰で僕の顔がよく見えていないから、平気で僕に微笑むことができるのだ。
一人で買い出しに行かせたは良いものの、このまま戻ってこないかもしれないと心配していた時期が懐かしい。今でも不安なことに変わりはないけれど。彼女が戻ってくるまでそわそわと何度も窓の外を確認してしまうのは仕方がないだろう。
情けないことに、不安なのは買い出しに行かせているときだけはなかった。彼女よりも僕の方が早く起きるから、朝彼女が一階に降りてくるまで今までの生活は夢だったのではないかと気が気でない。軽く軋む階段の音を聞いてやっと心臓の痛みが引く。
彼女が寝ている部屋のドアに聞き耳を立てたこともあった。日中も、彼女は掃除をするために屋敷中を歩き回るから、姿が見えなくなる。それだけで置いていかれた気分になる。寂しさに我慢できなくなるとこっそり彼女の姿を探して、遠目で彼女がそこに居るのを確認せずにはいられない。
我ながら、どうしようもないくらいに気持ちの悪い男だ。
彼女を視界に収めるたび、こんな幸せがあって良いのかと自問自答する。この幸せを出来るだけ長く引き伸ばすために僕ができることは少ない。だから彼女の欲しがるものは何だって与えてあげたかった。
「行ってきます」
玄関先で彼女がこちらを振り返る。大きな袋を下げて歩く姿に駆け寄りたくなるが、彼女の仕事を奪うのは忍びない。気を付けて、と短い言葉で見送った。
彼女のいない屋敷はがらんとしている。お互いに騒がしいタイプではないので二人でいれば賑やかだったというわけではないが、それでも彼女がそこにいるだけで周囲が華やぐ。もし今更出ていかれてしまったらと考えてぞっとした。
「大丈夫、大丈夫」
言い聞かせるようにして呟く。大丈夫。彼女がここへきてしばらく経ったが、僕に怯える気配はないし逃げ出す様子もない。大丈夫。僕なりに大切にできている、はずだ。
彼女が帰るまでまだ時間がある。
ソファに身を沈めれば、座った拍子にポケットの紙切れが腿をつついた。そういえば、と折りたたんだ紙切れを取り出す。しなりと頼りない音をたてて広げた。二枚重なっている。一枚には手書きの地図が描かれ、もう一枚は紹介状の文字が躍る。兄から貰ったものだ。
兄は時々僕へ連絡をしてきて、変わったことはないかだとか何をして過ごしているのかと他愛ない話を求めてくる。大方、僕が孤独に死んではいないかという確認のためなのだろう。
普段は生返事くらいしかしないのだが、その時僕は買った奴隷を誰かに自慢したくて仕方がなかったから、うっかり彼女のことを詳しく話してしまったのだ。いや、それが悪いことだとは思っていない。けれど、兄があくまで好意で寄越したこの軽い紙切れが僕の心を重くしている。
眼科医を紹介してやろう、と兄は言った。僕が、彼女の目が悪いという話をしたからだ。紹介状には名医と評判の名が記されていた。
一度、彼女にコンタクトや眼鏡は無いのかと控えめに強請られたことがある。彼女は滅多に何かを欲しがることはなかったので、そう言ってもらえて嬉しかったのを覚えている。けれど、それらが何なのか僕には分からず、がっかりさせてしまった。
彼女に確認したところ、どうやら視力を良くする器具らしい。僕は似たようなものがないか必死で探したのだが、結局は見つけられなかった。あの子が望むものは何だって用意してあげたっかたのに。
なんて、本当は少しだけ嘘だ。視力が戻ったら、彼女は僕の顔をきちんと見ることができてしまう。
今のところ視力を元に戻す方法は確立されていないらしい。元々僕らは遠くを見ることが得意な種だ。だから多少その能力に傷がついても困ることはない。彼女のように著しく視力の弱い人間は圧倒的少数で、需要が低くお金にもなりにくかった。だから積極的に研究しようという有志も少ないのである。
彼女は詳しく語ろうとしないが、きっと生まれつきなのだろう。文字を読むのが未だあまり得意でないのもその影響なのかもしれない。
可哀そうに、何としてでも治さなければ。彼女のために出来ることは何でもしてあげたい。
そんな風に思える人間であれば良かった。僕は、そういう人間でありたかった。
目の悪い彼女は僕と一緒にいてくれる。僕の顔がよく見えていないから、その醜さに気が付いていないから、僕の隣であんなにも可愛らしく笑っていられるのだ。
治してあげたいとは思っている。彼女のために僕が用意するすべてを、もっと鮮明に、もっと鮮やかに見せてあげたい。そう願っているのは嘘ではないのだが、綺麗なものだけを彼女の瞳に映すことはできないのだ。もし彼女の視力が戻ったら、僕を見て悲鳴をあげるかもしれない。それが怖くて僕は兄の申し出を快く受け入れることができなかった。
「ごめんね」
くしゃり。弱弱しく紙が潰れた。そろそろ時間だ。立ち上がって二階の窓からちらりと外を見下ろす。
彼女が帰ってくる前に、急いで贈り物の準備をしなければ。