奴2
ご主人さまはディノというらしい。
美しい青年に買われた私は、時折その横顔を眺めながらこれからの生活に思いを馳せていた。期待の反面、また知らない場所へ行くのかという不安もある。今でこそ優しそうな新しい主人ではあるが、住処に着いた途端豹変するかもしれないのだ。
けれどまあ、どうにかなるだろう。最初こそ不安だった店での商品生活も、それなり上手に折り合いをつけることができたのだ。自分の適応能力を信じてあげることにしたい。
「ディノさま、ディノさま」
「うん、何かあった?」
教えられたばかりの名前を確認がてら口の中で繰り返せば照れ笑いが返ってきた。呼んだは良いが特に言いたいことがあるわけではない。何でもないと首を振る。子供っぽかっただろうか。オーナーに確認したところ私自身の年齢よりもこの身体は若干幼いようなので、問題はないと思いたい。
ディノさまに連れられ到着したのは大きくはないが立派な洋館だった。
二階分ある家壁には前庭から生えた植物の蔓が這っていて古めかしい。小綺麗ではあるのだが華はなく寂しい雰囲気である。人の気配もない。通って来た街とは打って変わって静かだ。
「ようこそ、僕の屋敷へ」
きょろきょろと落ち着かない私を見てくすりと笑ってから、ディノさまは玄関のドアを開ける。至極上機嫌に中へ入るように促された。
入ろうとして踏みとどまる。
あまりに自然な動作だったのでうっかりしていたが、主人にドアを開けさせるとは何事か。どうにも奴隷としての自覚が足りなくていけない。早くも失敗してしまったな、と心臓の音が大きくなった。
「どうぞ入って」
けれどディノさまはそれを気にした風もなく、ぴたりと足を止めた私を不思議そうに見下ろしている。どうしよう、どうしよう。すぐにでも謝罪してディノさまを先に中へ入れるべきなのだが、焦ってしまった私には難しい対応だった。
結局達成できたのは消え入るような声での詫び言のみである。
途端、ディノさまの顔色が変わった。穏やかだった眼つきもふっと色を失い静止している。軽く息を吸って黙り込んでしまった。余計に失敗の文字が重く圧しかかる。そこから一歩も動くことができず、ただ彼を前に立ち尽くすしかない。
「僕の言うことが聞けない?」
やっと耳に届いたのは固い声だった。微かに含まれた苛立ちに、思わず後退ろうとして半身を引く。しかし私が足の裏を浮かせるよりも早く、ディノさまの手が肩に迫った。強く掴まれる。反射的に短く悲鳴が漏れてしまった。
「だめだよ、嫌がるならもっと早くしておかないと」
悲しそうに眉を下げ、彼は強引に私をドアの内側へ押し込む。外力に耐えきれずぐらりと傾いた体をディノさまの腕が支えた。
バタンと重い音がしてドアが閉まる。ディノさまは私を抱きとめたまま、器用に鍵を閉めた。金属と木のしっかり合わさる音が私を責めたように思えて、増々居心地が悪い。
いつまでも支えられたままではいられないので、自分の足で立とうと身体に周っている腕に手を添えた。ぴくりとディノさまが反応する。私を囲う腕の力が強まったかと思えば、ぐるりと今度は壁に押し付けられた。背骨と後頭部が打たれて鈍く痛む。
「屋敷に着いたから、実感してしまったのかな。僕に買われたこととか、僕と一緒に住むこととか。こんな醜男と生活するのは辛いだろうけど、君はもう僕のものなんだ。今更拒むなんて、許すことはできないな」
長い前髪の隙間から咎めるような視線が飛んでくる。決して逃がすまいといわんばかりに掴まれた肩が悲鳴をあげた。
「すまない」
ディノさまが悲しそうに呟くのを聞き取って、誤解されているのだと思い当たった。彼は私が逃げ出すのではと懸念しているらしい。私が屋敷へ入ることに躊躇したのは確かにその通りなのだが、ディノさまに不満あってのためらいではない。ただ、慣れない状況にどうすれば良いか分からなくなってしまっただけなのだ。
まずは誤解を解こうと、辛うじて自由になっている首と口を必死で動かす。違うんです、と浮気男のような台詞を叫んだ。
ディノさまは一層悲痛な面持ちで私から視線を外す。規則正しく並んだ歯の隙間からシィと息が漏れていた。
「何が、違うのかな?」
ゆっくりと確認するように問うディノさまだが、目を伏せていてこちらを見ようとはしない。明確な答えを期待していない様子である。そのくせ私の肩を掴む両手は次第に冷たくなっているようで、彼が力を入れるたびその重みを増す。
私は恐る恐る息を吸い込んだ。
拒んだつもりはない。屋敷に入ろうとしなかったのは、主人にドアを開けさせて自分が先行するわけにはいかなかったからだ。失敗に気が付いてどうしたらいいか分からなくなってしまっただけで、屋敷に入りたくなかったわけではない。
そんなことを言い訳がましく伝えて、許しを請うように彼を見上げた。覗き込んだ顔は戸惑いの色に塗れる。
心臓が三度脈を打つくらいの間、ディノさまの視線がたっぷりと泳ぐ。それからきゅっと口の端を引き締めたかと思えば、ふっと私の肩から手を離した。
「そうか。僕の思い違いか。すまないね、少し浅慮が過ぎたようだ。その、怖がらせてしまったね。無理に掴みかかったりして、痛かっただろう。本当に申し訳ない」
悔いた表情のディノさまが眉を下げる。大丈夫だと返せばディノさまは少しの笑みを見せてくれた。彼はくるりと背を向けついてくるよう促すと、玄関から奥へと進んでいく。置いて行かれないように私も後を追った。
ディノさまが案内してくれたのは二階の小さな部屋だった。細い骨組みのベッドが窓際に置かれており、中央にはシンプルなローテーブルと二人掛けのソファが置かれている。その他には何もない。油の足りない音を立てた背後のドアとは対照的に、家具はどことなく新しく感じる。
「君の部屋だよ」
ディノさまが控えめにこちらを振り返る。彼は自信なさげに何度か口を開閉させると、部屋の空気を見つめながら私に話しかけた。
「奴隷を買おうと思ったから、それ用に整えたんだ。その時はまだ誰を買うか決めていなかったものだから、なるべく好き嫌いの分かれないようなものを選んだ……つもり。もし気に入らないのならすぐ変えを用意しよう。今は少々殺風景だが、これから増やしていけば良い。君の望むものなら可能な限り与えてあげるからね」
柔らかそうなカーテンが彼の向こう側で揺れた。窓が少し開いているのだろう。暖かな風が遅れてやってくる。ディノさまが奥へ進んで風を止めた。閉める瞬間にふわりと髪が煽られる。栗色がまぶしく透けた。
「だからね、ここから出ていくことだけはしないでほしい。僕を避けないでさえいてくれればそれで良いし、他に何か強要するつもりもない。君は僕の奴隷で、仕事は僕の話し相手だ。触れろとは言わない。ただ、側にいて」
恃む言葉に是非もなく頷いた。とんでもない好待遇だ。ディノさまと私以外に人の気配がないため、てっきり下働き兼あれそれを要求されるのだろうと覚悟していたので拍子抜けしてしまった。
美しい主人に最高の条件、ホワイト企業も白旗をあげるほどの労働環境だ。ここまでくると何か裏があるのではと勘ぐってしまう。今は優しくしておいて、油断したところを狙って何かされるのかもしれない。たとえば人体実験のサンプルにされる可能性だってあるし、たとえば知らないうちに犯罪の片棒を担がされる可能性だってある。
まあしかし、警戒したところで私に回避できる事柄などたかが知れているのだ。与えられる幸福に恭順していることが一番楽だと思う。だいたいの事柄においてはなるようにしかならないのが私の人生だ。未だ窓辺に立って動かないディノさまへと近づいて頭を垂れた。
―――
ディノさまの奴隷になってからしばらくが経った。もうじき季節がひとつ変わる。
ただそこで暮らすだけというのは案外肩身の狭いもので、奴隷らしい仕事をくれと申し出たところ簡単な家事や買い出しを任せてもらえた。怠惰に過ごして堕落するのは簡単だということくらいは知っている。ニートを満喫する選択肢は魅力的だが、それではディノさまに愛想をつかされたときが怖すぎる。それでも居候同然であることに変わりはないのだけれど。
「おかえりなさい」
買い物から帰ってくると、計ったようにディノさまが玄関のドアを開けた。ほっとしたような笑みが眩しい。彼が出迎えてくれるのは毎度のことで、慣れはしたが少し驚く。
初めのころは、なんと庭で私を待っていたのだ。帰宅時に庭で鉢合わせた私が青ざめたのは言うまでもない。ディノさまは、好きで待っていたのだから気にするなと苦笑していた。心配してくれていたらしい。風邪をひいてしまわないか私の方が心配だ。
慣れない土地とはいえ、事前にディノさまから軽く案内をしてもらっているのだ。怪しい裏路地にさえ迂闊に足を踏み入れなければそうそう迷うこともない。治安もそれなり良好で、少なくとも通りを歩けばスリにあうような場所でもなかった。
せめて部屋にいてくださいと懇願し、渋々了承してもらったのはおかしな思い出だ。本当はうたた寝でもしていてもらえた方が私としては気が楽なのだが、心配してもらえるのは嬉しかった。
「いつもありがとう。あとは僕がやるから、君は自分の部屋を見ておいで。きっと驚くよ」
ディノさまは自然な動作で私の手にある荷物を取りさると目を細めた。
何だろう、とちょっとの間首を傾げる。改修でもしたのだろうか。屋敷全体に言えることではあるが、所々老朽化の兆しが見えていた。もしそうであれば嬉しい限りだ。
楽しみだと微笑んでから、荷物を強引に奪い返してしっかりと持つ。するりと指先がふれた。あっとディノさまが声をあげる。気を悪くしただろうかと見上げれば、彼はうっすら頬を染めていて、初心な生娘のような反応にくすりとした。
買ってきたものを自分で片づけてから二階へ上がる。自室の前まで来たが、見たところドアに変化はない。一番古さの目立っていたドアが直っていないとすると、改修したのではないのかもしれない。
微かに甘く青い香りが漂ってきた。振り返るも変わったところは見当たらない。目を閉じて大きく鼻から息を吸う。どうやらドアの向こうからやってくる匂いのようだと気が付いた。
ドアノブを捻る。耳慣れた軋む音がして開けた視界の先には、色とりどりの花が散らばっていた。香りが強くなる。思わず感嘆の息を漏らして部屋へと入った。
壁やテーブルに飾り立てられた花はいじらしくも歩行の邪魔をしない。花々に近づいて触れる。そのほとんどは造花のようで、顔を近づけると華やかな匂いが口に入った。不思議と草花の味がする。
「どうかな。気に入ってもらえると良いんだけど」
いつのまにかディノさまが廊下に佇んでいる。振り返って彼のもとへと駆け寄った。遠慮気味に上から覗き込まれる。
「その、迷惑ならすぐに処分してくれてかまわないよ。ただ、花の日が近いから、贈り物をと思って。君くらいの女の子はこういうのに憧れるって聞いたんだけど、やっぱり僕がやっても気持ち悪いだけだったかな。ええと、大丈夫。全部フラワーショップの人たちに飾ってもらったんだ。僕は一切部屋に入っていないから安心して」
段々と小さくなる声とともに、ディノさまが俯いてゆく。この人は奴隷である私に対して気を使いすぎだと思う。
全くの見知らぬ人間ならいざしらず、主人であるディノさまがここへ自由に出入りできない道理はない。父親を避ける思春期の娘とでも思われているのだろうか。ディノさまのように綺麗で優しい父親であれば大歓迎なのに。きっとファザコンまっしぐらだ。
満面の笑みでディノさまへお礼を言えば、彼は一瞬だけ面食らったように呼吸を止めて、幸せそうに目じりを下げた。