奴1
たぶんずっと未完です
ばしゃりと水を掛けられて目を覚ました。つめたい。
視界は低く、誰かの靴が見える。どうやら土を踏み固めたような地面に突っ伏していたらしい。起き上がろうとして、手足が拘束されていることに気がついた。水がほたほたと滴るのをそのままに顔を上げれば、がっしりと筋肉質な男が私を見下ろしている。
「目ェ覚めたか、嬢ちゃん」
男はそう言ってニヤリと笑う。鋭い眼光が怖くなって身を震わせれば、その拍子に水滴が睫毛をすり抜けた。目に入って痛い。それどころか、視界がいつもよりぼんやりとする。ぱちぱちと瞬きをして顔をしかめた。プールの中で目を開ける練習をしていた小学生時代が懐かしい。
ああ、しまった。これはコンタクトを落としたな。
少しだけ不明瞭な視界に納得はしたものの改善の余地はない。せめて水を拭おうにも両手の自由がないのでどうしようもなかった。
一体これはどういう状況なのだろうか。
これまでの出来事を思い返してみたが、自宅のお風呂でのんびりしていたのが思い出せる限り一番新しい記憶だ。いつもと違ったことと言えば、貰い物の入浴剤を試してみたくらいである。あまりの気持ちよさに眠ってしまったのだろうか。だとすると、これは夢ということになるわけだけれど。いやにリアルだ。
「さっぱり何もわかりませんって顔だな。気持ちはお察しってとこだが」
男はしゃがみ込んで私をじっと見つめた。しばらくそうしていたかと思えば、顎に手を当ててふっと笑う。それからひとつ頷いて私の頭をぽんと軽く撫でた。ついでに助け起こしてくれたので、どうにか座る形になる。
「世の中難しいモンだなァ。俺みたいなのに売られてなきゃ、もっと良い人生だってあったろうによ」
どうやら私は売られたらしい。言われてから納得する。動くようになった首を動かせば、数歩先に格子が見えていた。格子の向こうに廊下が続いている。
地面の感触からてっきり屋外かと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。小さな、部屋と形容するには粗末だが牢とするには快適な場所だ。道理で暗い。
「おいおい、状況を分かってねェのか? でもまァおまえさん、見るからに箱入りのお嬢さんだもんなァ……無理もねェや」
男はそう言ってどっかりと私の隣に腰を下ろす。私を買ったにしては随分と気さくな対応だ。
目の前の彼は、自らを奴隷商だと名乗った。
商品として私を仕入れ、たった今店舗に到着したところらしい。元々裕福だった私の実家が没落し、一番高く売れそうな年頃の娘である私が弾かれた、なんて事情まで語ってくれる。俗に言う口減らしだろうか。
当然全くもってそんな記憶は無い。覚えていないと首を振ってはみたが、ショックで記憶を無くしてしまったのかと余計な誤解を与えただけだった。多少の哀れみと期待を滲ませながら、彼はこちらを見下ろす。
「俺のことは適当に呼んでくれや。あー……オーナーとかで良い。どうせおまえさんが誰かに買われるまでの付き合いだ。変に仲を深める必要もねェだろ」
きっぱりとそう言い終えると、オーナーは軽快に腰を上げて出ていこうとする。動けないので首から上だけでそれを追った。
心なしか、向こう側の方が明るい気がする。光の届く加減はこちらも向こうも同じようなものなのに。格子の扉に手が掛けられたとき、オーナーは思い出したかのように私を振り返った。
「おまえさん、高かったんだからな。壊しちゃ元も子もねェから酷い扱いはナシだが、奴隷として相応の教育は受けてもらう。ま、衣食住は保証してらやァ。しっかり励んで高値で売れろよ。期待してんぞ」
それだけ言うと、オーナーはキィと軋む音を立てて扉から出ていってしまう。入れ替わりに体格の良く無愛想な男が入ってきたので身構えたが、彼は無言で私の枷をはずしてくれただけだった。その男もオーナーを追うようにして去っていく。従業員だろうか。遠ざかる足音を聞いていると、途端に心細くなってしまった。
じっとその場で蹲る。一人になって少しだけ事態が飲み込めてきた途端、不安と恐怖がじわりと浮いて出る。
ここはどこだろう。
言葉は通じるのに、常識は通じなさそうだ。オーナーの服に貼り付けられていた、ネームプレートのようなものに書いてある文字だって読めない。
そもそもいきなり奴隷だなんて言われても実感がないし、そんな単語に馴染みない程には平穏に生きてきた。考えるほどに気が滅入ってくる。
どうしてこんなところに来てしまったのだろう。ぐずりと鼻をすすった。心当たりがあるはずもなく、本当に気がついたら奴隷だったのだ。パニックで取り乱さない私を誰か褒めてほしい。
なんて弱気になっていたのも最初の数日だけだった。奴隷生活というのは想像に震えていたよりも案外恵まれたもので、私は早くもこの生活に慣れつつある。
我ながら図太いものだ。お父さんお母さん、心身共に丈夫に生んでくれてありがとう。この体が本当に私のものかは分からないけれど。
汚れてしまった服は変えてもらえるし、黙っていても食事は運ばれ、個室すら与えられている。全てにおいて簡素で質があまり良くないというのが難点だが、贅沢は言うまい。オーナーや他の従業員らしき人々も怒鳴ったり叩いたりはしないし、彼らから日々奴隷としてのお勉強さえ真面目に受けていれば最低限の生活が保証されているも同然だ。
ただ、寝具に妥協はしたくないと奮発して買った自室のベッドや、好きなだけ使えて勢い良く出てくる温かいシャワーはこの上なく恋しい。
カタン。出された食事を静かに口へ運んでいると、廊下の奥からドアの開く音が聞こえた。それから間を開けずに足音が近付いてくる。今日はもう何の予定もないはずだ。食器を下げるには早すぎやしないかと音の近づいてくる方を注視していれば、オーナーがぬっと格子の向こうから顔を見せた。
「客だぜ」
なんだか普段よりも少しだけ声の調子に覇気がない。持っていた食器を置いて立ち上がれば、オーナーは緩慢な動きで扉の鍵を開けた。キィ、と油の足りていない蝶番が軋むように滑る。
小部屋の中よりもいくらか開放的な空気を吸い込めば、すかさず両脇に屈強な男たちが並んだ。奴隷が逃亡しないための予防手段である。妙な動きさえしなければ護衛とも言えるのだが、この威圧感には何度経験していても圧されてしまう。
「今日はもう店仕舞だって言ったんだけどなァ。俺だって商人なもんで、大金目の前にぶら下げられちまったらひとたまりもねェや。……でもま、今回はあんまりかねェ」
口を濯いでもらいながらオーナーのぼやきに耳を傾ける。今回の買い手候補はお金持ちらしい。今まで何度かお客さんの前に出されたが、あまり買ってもらいたいとは思えない人ばかりだった。
プライドの高そうな女性、いやらしい顔をした中年男性、平凡な見た目の自称勇者、慈善家気取りの女の子。あの人たちに買われるくらいなら、ずっとここにいた方が幸せだろうと思った。
もっとも、私には主人を選ぶ権利なんてない。高望みなどもっての外である。いくら嫌でも買われてしまえば、それを受け入れる以外にはないのだ。
まあしかし、自分で言うのもなんだが従順な私はオーナーのお気に入りである。
この人は嫌だとこっそりしおらしくせがめば、彼は苦々しく私を睨むだけして、なんだかんだ売らずにいてくれる。元々高値がついているらしい私は欠陥点をわざとらしく強調されればあっさりと売れ残るのだ。
目が悪く、常識にすこぶる疎く、文字が読めない。挙げればまだまだある気もするが主な欠点はこれらだろう。
目が悪いと言っても、今でも生活をするのに支障はない。二十一世紀に生きる日本人であればありふれた程度なのだ。如何せんこの世界の基準が高すぎるだけで、私自身は不便に思っていない。数十メートルほど先にいる人の表情を見分けるなんて、きっと地球人には難しすぎる。
後者二点に関しては勉強中だ。何の準備もないまま馴染みない世界に来てしまったので、しばらくは仕方のないことだと開き直りたい。話し言葉だけは通じるのがせめてもの救いだろう。ちなみにオーナーからは、無知で御しやすいとご好評だ。喜べるかどうかは別として。
「どうしても嫌だったら、いつもみてェに言えよ」
お客さんの待つ部屋へ向かう途中、オーナーがこっそりと耳打ちした。やはり今日のオーナーはどこか様子が違う。私が拒めば融通を利かせてくれるが、自分からこんなことを言うなんて。オーナーにお礼を返して眉を下げる。
金払いが良いとは言っていたが、よほど態度の悪いお客さんなのだろうか。不安だ。今回もオーナーに私の欠点を並べてもらう事になるかもしれないな、と唇を閉ざした。
商談用の部屋で待っていたのは優しそうな好青年だった。なかなか綺麗な顔立ちをしている。私を見てもギラついた目のひとつもしなかった。
正直なところ、年頃の女奴隷を買うような男の人はそういう目的で使いますと言わんばかりの目をしていることが多いので、それだけで内心ほっとしてしまう。顔に出さないだけかもしれないけれど。
教えられたようににこりと愛想よく自己紹介をすれば、オーナーとお客さんが微かに息を呑んだのが分かった。どこかおかしな所があっただろうか。
狼狽えてオーナーの方をちらりと見上げる。厳しい表情を覚悟していたが、反して彼は満足そうに頷いていた。不可解である。ご挨拶がよくできましたね、という驚きだったのか。あり得ないとは思うが、だとすれば遺憾である。いくらこの世界の知識に乏しくとも、私にだって挨拶くらいできる。
「こいつで最後ですよ。どうです、中々見栄えもするでしょう」
オーナーが私の頬を手の甲でつつく。カサついた肌の感触が優しい。お客さんはオーナーの問に同意して、困ったような顔をした。
彼は座った体勢のまま微かに身じろいで、遠慮がちにこちらを見つめている。いや、泳いだ目が時折私に向いていると言ったほうが正しいか。
「買います。いくらですか」
自信の足りていなさそうな頼りない声色だったが、優柔不断ではないらしい。値段も聞いていないというのに即決である。そのことに驚いたのはオーナーの方で、彼らしくもない大きな動揺の声が漏れる。
「えっ、ああ、いや。こいつァ血筋も見た目もそれなりだってんで、結構な良い値段がついてて……まァ、こんなもんですかね」
オーナーが金額の書いた紙を提示した。心なしか前回よりも額が大きくなっている気がする。自分の知らない間に値上りしたのだろうか。お客さんはその紙を一瞥して、迷いなく懐から小切手のようなものを取り出した。えらく気前が良い。
「どうぞ。持てる財産の大半を投げ売ってでも買う覚悟があります」
「い、いいや、待ってくれ……ください。こいつにはちょっと問題がありまして」
今にも小切手に記入しようとするお客さんをオーナーが慌てて止める。それから私が欠陥品であることを殊更強調し始めた。余談だが、これを聞いていると少しだけ落ち込む。
まだそんなことは頼んでいないです、オーナー。むしろ買われるならこういう美青年が良いです。買われたいです。この人に。
じっと念を送ってみたが、一ミリも届いている気配はない。
高値で買ってくれると言うのだから拒む理由などないはずなのだが、何をそんなに渋っているのだろうか。私を手放すのが惜しくなったのかとも考えたが、彼に限ってそれはないと思う。現に、数日前のお客さんにはこんな態度ではなかったのだ。
「あの、オーナー」
服の裾を引っ張り、こっそりとオーナーを呼ぶ。彼はくるりとこちらを向くと、分かっているとでも言いたげに服の裾を掴んでいる私の指をぽんと軽く打った。いやいや、きっと分かっていないですって。音の出ない程度にばしばしとオーナーの背中を叩く。すると彼は不思議そうに私を見下ろした。
「なんだ。気分でも悪いか?」
私を労るようにそう尋ねたオーナーは、お客さんに一言二言離席する旨を告げると私を連れて一度隣の部屋へ移った。
二人きりになった室内で向き合う。彼は私の肩をぐっと掴むと、気の毒そうに目を細める。
「安心しろって。いくら俺だって人の子だ。確かに一旦金に目が眩んだが、あいつにおまえさんは売らねェよ」
「いいえ、そうではなくて。良い人そうでしたし、嫌な感じはしませんでしたよ。私、あの人なら買われたいと思ったんですけど……でも、オーナーがそう言うってことは、何かあるんですか?」
「はァ? 何かあるって、おまえさん、見りゃ分かんだろ。客の素性なんざいちいち知らねェが、あんな見た目の人間が主とあっちゃ、俺なら自害するね」
酷い言いようである。
確かに隣に並ぶのも気後れするほどの美青年ではあるが、だからといって自害する理由にはならない。オーナーが特殊なのか、それともこの世界ではごく普通の感覚なのか。カルチャーショックとでも思うことにしよう。
「そういやァ、おまえさんは目が悪いんだったな。どおりであの客の前でも平気で笑っていられるわけだ。同情するが、羨ましくもあるな」
いまいち腑に落ちない私とは対称的に、オーナーはひとり納得した様子で頷いた。確かにオーナーよりずっと目は悪いが、人の顔が分からないほどではない。
彼はひと唸りしてから組んでいた腕を解くと、今度は良い笑顔で私の肩を叩いた。
「だったらまァ、可哀想だが悪く思うなよ。せっかくおまえさんが高値で売れるチャンスだ。泣いて嫌がらねェなら俺が引き留める道理もねェ」
オーナーへ連れられ部屋へ戻る。先程までとは打って変わって、彼は一切の迷いなくお客さんの前へ私を突き出した。
それからはトントン拍子に商談は進む。会計が終わればあとは梱包した商品を差し出すだけである。忽ち着替えや奴隷証の取り付けなど、出荷の支度が施されていく。
諸々の準備を終えた私は、ついにここから去るときが来たのだった。
「思えばおまえさんは上等だったな。可愛い顔して従順で、何よりものを知らねェお馬鹿さんときたもんだ。誇れよ、奴隷としちゃ最高だぜ」
いよいよオーナーとの別れ際、彼はしみじみと呟いた。
褒められているんだか貶されているんだか微妙なところである。同意できるのが従順その一点しかない。賢くはないかもしれないが、無知なのはこの世界で暮らしてこなかった故であるし、これから克服する予定だったのだ。
「とにかく、おまえさんの事は気に入ってたんだ。幸せになれよ」
悶々と考えていると、オーナーはにやりと不敵に笑って私を送り出す。背にしたあの薄暗い小部屋が、なんだか既に懐かしかった。