お風呂
買い物を終え、帰宅してみればすでに日が沈みかけていた。
あの後、行きの車での元気を取り戻したルフと、一緒に買い物を楽しんだ。
しかしながらルフよ、はしゃぎ過ぎだ。帰りが寂しかったぞ。
そんな俺の思いを露知らず、ルフは気持ち良さそうに寝息を立てている。
俺は起こさないように抱っこすると、助手席からソファーへと移動させた。
「お疲れさん。もうちょっと寝ていいからな」
少し汗ばんだ髪を一撫でし、今朝使った毛布をかけてあげた。
余程良い夢を見ているのだろうか、その顔は幸せそうだ。
このまま一緒に寝たい。腕枕をして添い寝してあげたい。そんな溢れ出る煩悩の衝動を抑え込み、俺は車に積んである荷物を家の中へと運んでいった。
買ってきたものを整理する。
踏み台は洗面所に。下着は洗面所の収納箱に。服はタンスの中で、食器は食器棚に入れて、クッションは……ルフの頭の下に敷いておくか。
ふぅ、こうしてみるといっぱい買ってきたな。そりゃお金も時間もかかる訳だ。
でもルフの喜ぶ顔が見れたからプライスレス。寧ろ、お値段以上。無趣味の自分を今だけは褒めてやりたい。
おじいちゃん、おばあちゃんが孫に何か買ってあげる時って、こんな感じなのだろうか。
いや、どちらかというとキャバ嬢に貢ぐおっさんの感覚に近いのか? どちらにせよ俺の知らない世界だな。
整理が終わると、次に風呂の準備をした。
今日こそはルフをお風呂に入れないといけない。
流石に昨日も今日も入らないなんて嫌だろう。
そして俺も風呂に入らなくては。
体の臭いを嗅いで俺はそう決心する。
うん、臭う。体もベタベタする。こんな気持ち悪い状態を放っておくのは嫌だ。
そうと決まれば、早速お風呂に入れちゃいますか。
俺はルフを起こそうとしたが、そこで重大な事に気が付いた。
そう、風呂に入れるにはルフを起こさなくてはならない。こんな気持ち良さそうに眠っているルフを。この手で。
俺はルフを揺すり起こそうとした手を止めると、どうしたらいいか分からず、そのまま固まってしまった。
誰だって気持ち良く寝ているのを無理矢理叩起こされるのは嫌だろう。例えそれが人だろうと鬼だろうと。
そして起こされた苛立ちから文句の一つでも言われてみろ――
『……お兄ちゃん、臭い……』
『わわっ、お兄ちゃんの手、何かベタベタする』
『わあ! お兄ちゃんの亀さんちっちゃーい』
『お兄ちゃんってロリコンなんだね』
『フミュウ! フシュウ!』
アアアァァァッーーー!!
死ねる。
それを想像するだけでマジで死ねる。
今から体の隅々を亀の子束子で洗い流したい気分だ。いや、それは止めよ。全身血まみれになる。
ならどうする。ルフが眠っている間に、先に俺が風呂に入ってしまうか?
いやいやいや、それはダメだ。
野郎が入った後の風呂に、誰が好き好んで入りたがる。汗でベタベタの野郎が入った後の浴槽に誰が好き好んで浸かりたがる。
そんなのもうお風呂なんて呼べない。そんなのはもうお風呂ならぬ、汚風呂だ。
この手でルフを汚すような真似……俺には出来ないっ!
くそっ! どうすればいいんだ……そういえば。
俺はふと、谷野さんの言葉を思い出した。
『子供に昼寝させるのは大事だが、夜しっかり寝かしつけることの方がもっと重要なんだって。睡眠レベルを高め、成長ホルモンをしっかり分泌させることが発育を促すんだってよ。それでこの間、かみさんにこっぴどく怒られちまったよ。何で今寝かすんだって。あ、そうそう。睡眠レベルを高めるにはメラトニンという――』
あの時、俺にはまだ縁のない話だなって軽く流してたが、なるほど一理ある。
――よし、覚悟を決めろ。これはルフの成長のため……これはルフの成長のため……
そう自分に言い聞かせて、俺は止まっていた手を動かそうとした。
だが、体が言う事を聞いてくれない。何とか動かそうとするが、ルフを前にすると、どうしても止まってしまう。
クッ……なんてことだ。これが鬼の力なのか……。
あの有名な桃太郎も鬼と対峙した時は、こんな気分だったのだろうか。ええいッ、ならばっ!
出でよっ! その心に唱えろ! 俺と共に挑めっ!
居ぬ、去る、きちぃ〜〜っ!!
……おい。
てめーら、何で戦う前から戦意喪失してんだよ! 逃げ腰になってんじゃねーよ!
え、何? 俺の心が逃げ腰だから? じゃあ、仕方ないね――ってなるわけねえだろ! その根性、鬼に叩き直してもらってこい。あれ? これだと逆に退治されてるじゃんか……。
な、ならば、逆の発想だ。俺が鬼側に付けばいい。
そう、念じろ。俺は鬼、心に鬼、心を鬼にしてルフを起こす。ココロに鬼、ルフを起こす――ココロにルフ。クソッ、こんなときに煩悩がっ。
「ふみゅ? お兄ちゃん?」
俺が雑念と闘っていると、いつの間にかルフが起きていた。
今まで動かなかった手が、自由を得る。
その手をどうしていいか分からず、とりあえずひらひらと振ることで役目を与えた。
「お、おはよ。よく眠れたか?」
「うん!」
「そ、そうか。じゃあ、お風呂入っておいで。体ベタベタで気持ち悪いだろ」
俺がそう言うと、ルフは自分の体をすんすんと嗅ぐ。
その後で俺に顔を近づけ、同じように臭いを嗅ぐと、照れたように笑ってからこう言った。
「えへへ、ほんとだ。ルフもお兄ちゃんもくちゃい」
……泣きたい。
寧ろ泣いた、心の中で。これぞまさしく鬼の目にも涙である。
俺は心に溜まった汁が流れないよう我慢してルフに風呂に入ってくるよう促した。
「そ、そうだな。早くキレイキレイになろうな。さ、お風呂行っておいで」
「うん。お兄ちゃんも早く行こ?」
「うん?」
ルフはソファーから立ち上がると、ぐいぐいと俺の手を引っ張る。
まるでいつもそうしていると言わんばかりの行動に俺は戸惑い、疑問を投げ掛けた。
「い、いつも誰かと一緒に入ってるの?」
「ふみゅ? いつもおとーちゃんかおかーちゃんと一緒に入ってるよ」
えっ。親父と一緒に入ってたの? ってことは親父がルフの頭洗ってあげたり、背中流してあげたりしてたっこと?
えっ。何それ。めっちゃ羨ましいんだけど。
俺も頭洗ってあげたいんだけど、背中も流してあげたいんだけど。なんなら添い寝もしたかったんだけど。
「ねえ、お兄ちゃん早くお風呂入ろ?」
「そ、そうだな……よし! お風呂入ろっか」
「うんっ!」
ハッ!? いかんイカン。
ルフの言葉で、煩悩塗れの頭が正気に戻ってゆく。
俺はルフに手を引かれるまま、風呂場へと向かった。
「おおーっ!」
「ど、どうした?」
脱衣所で服を脱ぐと、ルフはきらきらとした目で驚きの声をあげた。
その目は俺を――いや、俺の股間を捉えている。
「お兄ちゃんの可愛い!」
俺の亀さんを見据え、ルフがそう言った。
ル、ルフよ、いくら子供でも言って良いことと悪いことがあるんだぞ。
大人だって――いや、大人だからこそ、そんなことを純粋な目で言われると泣きたくなるんだからな。寧ろ泣いた、心の中で……。
俺は汁(股間からではない)が流れ出るのを堪え、ルフに見栄を張るように言った。
「いいか、ルフ。この子もルフと同じで子供なんだ。大きくなったらゾウさんみたいになるんだぞ」
俺は子供に何を言っているんだ……。
いやしかし、このまま引き下がる訳にはいかない。二十年間苦楽を共にしてきたケーシローに恥をかかせたままでは終われない。ごめんな、まだ役目を与えられなくて……
「ふみゅ? そうなの?」
「ああ、そうだぞ。将来立派になるんだぞー、強くなるんだぞー」
「じゃあ、お兄ちゃんもおとーちゃんみたいに立派になるんだね! リュウさんみたいに強くなるんだね!」
――パキッと。
ルフが言った言葉に、俺の心が割れる音がした。
お、親父……お前は何て物を股間にぶら下げてんだ……。
倒した挙げ句、股間にぶら下げるなんて、人間がやる所業じゃねぇよ……。
しなしなと、俺の心と股間が冷水を被ったように縮こまってゆく。ごめんなケーシロー、結局恥をかかせてしまったな……後で一緒に慰め合おうな。
「そ、そうだな……」
もう見栄を張る気力も元気もない。
俺はそれだけ返して浴室の扉を開け放った。
「さあルフ、ここに座って」
浴室に入ると、シャワーを手に取り、お湯を出す。
丁度良い温度を手で測り終えると、ルフに風呂椅子に座らせた。
「わわっ!」
「大丈夫か? 熱くないか?」
「うん、大丈夫だよ。ふみゅぅ」
シャワーを背中に掛けてあげる。
鏡越しで見るルフは目を細めてリラックスしているように見えた。どうやら気持ち良さそうだ。
「じゃあ、このままシャンプーしちゃおうか」
「うん!」
かけ湯を済ませると、そのままシャンプーをしてあげるため頭を濡らした。
不思議だ。さっきまであれ程活発だった煩悩が今はまるでない。
これからルフの頭を洗おうとするのに何故だろうか――いや、理由は分かってる。股間に元気がないからだ。煩悩が活発になる程、気力も元気もないからだ。
よく男は股間で物事を判断するとは言ったものだが……その通りなのかもしれない。現にケーシローは、まるで亀が甲羅に籠もるように今も縮こまっている。いや、ここで立ち上がってもらっても困るのだが。
それだけルフの言葉は強烈だった。
初めて出来たトラウマだった。多分この先、竜が嫌いなまま、一生を終えると思う……
しかしながら! これだけは言わせて欲しい。
多分、親父の物が規格外なだけで、俺の奴が本来の一般的――日本人の平均レベルの筈なんだ!
だから、元気出せよ……ケーシロー。
「お兄ちゃん?」
「……ああ、ごめん。シャンプーするからな」
ルフに呼ばれて、我に返る。
ルフは目を瞑ったまま、俺を待っていた。
俺はシャンプーを手に馴染ませ、ルフの頭を洗髪していったのだが、ある事に気付き、ルフに訊いてみた。
「なあ、ルフ。角ってどうすればいいんだ?」
とりあえず角を避けながら洗っていたが、やっぱり洗うものだろうか――
俺はふと、昨日の出来事を思い出す。
角を触り過ぎて、ルフは電撃を放ったんだよな確か。それに大事なものとも言っていたし……え、だとしたら、すげえ怖いんだけど。
ルフは目を瞑ったまま俺に振り向くと、体をもじもじさせて言った。
「お兄ちゃん……優しくしてね?」
……まじか。
「だ、大丈夫なのか。そ、その大事なもの何だろ? それに触らせちゃいけないものだって」
「うん、でも……お兄ちゃんは、とくべちゅだよ?」
確認するようにルフに問うとこくりと頷いてそう言った。
マジかぁ……。
だ、大丈夫だよな。また電撃が飛んで来たりしないよな。
もし飛んできたら流石にマズいぞ⁉ 二人して感電してしまう……ルフが感電するかどうかは分からないけど。
「お兄ちゃん?」
ルフが呼ぶ。
首を傾げ、俺の次の行動を待っている。
ふう――覚悟を決めろ。ルフは俺を信じて大事な角を洗わせてくれるんだ。なら、俺もそれに応えなければならない。
なら――共に挑もう、ルフ!
俺は泡だらけの手で、ルフの角を付け根から先端へと滑らせるように洗う。
その手つきがくすぐったかったのか、ルフはビクッと体を震わせると息を漏らした。
「ん……」
「あ、ごめん。痛かったか?」
「ううん、大丈夫、だよ……」
そう言ったルフの体は薄っすらと青白く光っている。ほ、ほんとに大丈夫なんだろうな、ルフ?
「そ、そうか。じゃあ、もうちょっと我慢してな。あともうちょっとだから」
「……うん」
数回同じ様に洗った後、シャワーをかけて洗い流す。
その後、タオルで拭いてから、ルフと見つめ合うように顔を合わせる。
「よしよし、よく耐えたな。偉いぞ」
「うん! すごい気持ち良かった!」
「そっか、良かった。じゃあ、次は体を洗おうな」
ニコッて笑ったルフの頭を、今度は素手でワシャワシャと撫でまわしてそう言った。
でもルフ? 次する時は少し時間置こう? 毎回命掛けのシャンプーなんて俺しんどいぞ。
「お兄ちゃん、早く」
そんなのはお構いなしといったように、ルフは俺を急かす。
ま、まあ、ルフの笑顔が見れるならプライスレス……寧ろ、お値段以上……か。風呂からあがったら、目一杯自分で自分を褒めてやりたい。