鬼の少女
「わぁ! お兄ちゃんだ!」
俺をお兄ちゃんと呼ぶ少女が、勢いよく抱きついてきた。
いや、どちらかというと抱きつきというよりは突撃という言葉の方が近いかもしれない。股間に少女の頬がめり込んだ。
俺は膝からすとんと崩れ落ちそうになったが、それをなんとか踏ん張り、俺の股間に顔を埋める少女の肩を抱くように引き剥がす。
そして痛みに震えそうになる声を出来るだけ押さえ、問いかけた。
「ちょ、ちょっと待って。え、え? お、お兄ちゃん? お、俺が君のお兄ちゃん?」
ごめん、や、やっぱりむ、無理……。
あまりの激痛に俺は立ってられず、ゆっくりと膝立の状態へと変える。
こうすることで自然な流れで股間に手を持ってゆくことが出来、且つ安否を確認することも可能だ――よし、大丈夫。潰れてない。
「ふみゅ? お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。ね、ケーシローお兄ちゃん?」
そんな俺を、少女はコテッと首を傾げながら見つめている。
何当たり前のこと言ってるの? その純粋無垢な瞳と共にそう言われた気がした。
確かに俺は慶史郎だが。
股間の安否確認を済ませると、心なしか痛みが和らいだ気がした。病は気からとはこういうことをよく言ったものだが……まあ、いずれせよ触診大事。ね、股間のケーシロー?
少し心に余裕が出来た俺はじっくりと少女を観察する。
身長は今の俺の体勢より少し低め。だとすると――ああ、谷野さんのところの愛衣ちゃんくらいか。たしか今年小学生になったって聞いたな。となると、この娘も五歳か六歳くらいか。
見た目は……うん。絶対に日本人じゃない。
その金色の髪と瑠璃色のくりくりとした目は海外のお人形さんのような、という形容が良く似合う。
そして、なんと言ってもやっぱり頭の猫耳が気になる。
いや正確には猫耳ヘアとでも言った方がいいのだろうか。さらさらしてそうな金色の髪からピョコっと突き出した二つのアクセントが、少女の可愛さをより引き立たせている。
そういう髪型があるのは知っていたが、まさかこれ程とは……。
ましてやこんな可愛らしい少女がそれをすると、破壊力は無限大だ。危うく変な扉開きそうになった。
い、いかんイカン。
開きかけたそれに自制心という錠を掛ける。そして、存在を消し去ったことにして思考をはぐらかす。
「と、ところで親父は? 今出払ってるみたいだけど……」
俺の名前を知っているということは、親父が連れてきた娘でまず間違いない。
けれども、どういった経緯でこんな可愛らしい少女が俺をお兄ちゃんと呼ぶことになるのか。
連れ子? 腹違い?
可能性のある言葉を並べるが、そのどれを考えても――
な、何やってんだよ親父ッ⁉
お前ちょっくら世界救いに行ったんじゃねーのかよッ⁉ 何ちょっくら国際交流(意味深)してんだよッ‼ 俺が股間のケーシローを救ってる時に、お前はその手で一体ナニを掬って、ナニをイカセてんだよ⁉ あの言葉はホントに隠語――いや淫語だったの⁉
駄目だ駄目だダメダ、落ち着け。落ち着け、俺。
フゥフゥと上がる息を、深呼吸して整える。
「おとーちゃんが言ってたよ。迎えにくるまでむしゅ、むしゅこ? の言うこと聞いていい子で待っててくれって」
「は? ……ちょ、ちょっと待って。え? 親父またどっか行ったの?」
「うん。おとーちゃんすぐ帰っちゃった……」
おいおいおい、子供を一人、それも鍵が空いた状態の部屋に放置は流石に不用心過ぎないか? 自制心が外れかかった奴に誘拐でもされたらどうすんだ。俺のことか……泣ける……。
いや、俺が泣きそうになってる場合じゃない。
目の前の少女を見てみろ、今にも泣きそうになりながら、寂しそうに俯いているじゃないか。
ど、ど、どうする⁉ 俺は子供をあやすスキルなんか持ち合わせてないぞ。この間も愛衣ちゃんに泣かれたばっかりだ。ほんと、何かもう、泣けてきた……。
俺はおろおろと狼狽していたが、ふと、ある事を思い出す。
それは物心ついた時の遠い記憶だったか。それとも数年前のちょっと大人になった時の記憶だったか。何時ぞやの俺もこうして寂しそうに俯いていたっけか。
目の前の少女の姿と過去の俺の姿が重なる。こうして寂しそうに俯いた姿に、どこか親近感というか懐かしさを感じた。
それはまるで俺の過去を写した鏡でも見ているようだった。
だからだろうか。気付けば、俺は股間に当てていた手を伸ばして少女の後ろに回し、引き寄せるように抱いていた。まるで過去の俺に大丈夫だよとでも言うように。
「わわっ、お兄ちゃん?」
全く――何やってんだよ親父。
俺はともかく、こんな可愛らしい娘まで何置き去りにしてんだよ。
少女は少し戸惑っていたが拒否する様子はなく、すっぽりと俺の腕の中に収まる。
「そういや名前聞いてなかったな」
俺は優しく抱いた後、少女を離し、微笑みかけるようにその目を見つめて名前を聞いた。
すると少女は花が咲いたような笑顔を見せてから、元気いっぱいに手を上げて自己紹介してくれた。
「はいっ! ルフは大鬼種のルフですッ! 五才ですッ‼」
いっぱい練習してくれたのか、それとも普段から言い慣れていたのか、さっきまでのたどたどしさはない。寧ろ、元々海外で生活していたであろうこの娘にとっては上出来じゃないか。仮に俺が英語で自己紹介したら外人さんに微妙な顔されそうだしな。
それにしても、オオオニ州ってどこの国だろうか。響きからしてアメリカっぽいが……ま、それは後でいいか。
「ちゃんと言えたな。おー、よしよし偉いぞ」
「わわっ! お兄ちゃんくしゅぐったいよ」
ルフが言い終わると、俺の中の変な扉が全開に開いた。錠? ああ、あそこで粉々になってるよ?
ルフの頭を撫でる手は、その可愛らしい二つのアクセントの間に丁度収まり、さらさらとした心地良い感触を堪能する。
ルフはくすぐったそうにしており、俺にされるがまま撫でられていた。
「うりうり。良いではないか良いではないか」
片手だけではなく、両手を使い、まるでシャンプーでもするかのように俺はぐしゃぐしゃに撫でまわす。
そうなると当然猫耳ヘアにも触れたのだが、触った感触に違和感があった。
髪の毛と言うには硬すぎる。編み込んであるのかなと思ったが、そんな様子もないし、そもそもこんな手触りもしないだろう。
だとすると、アクセサリー? いやそれにしてはなんというか、本当に頭から生えていて、まるで角のような――
「ん……お兄ちゃん、だ、だめ。そ、そこは、だ、だめ、ん……」
それの真意を確かめるべく、重点的に触っていると、ルフは顔を赤らめビクッと身体を震わせた。
そこで止めれば良かったのだが、粉々になった自制心ではどうすることも出来ず、俺は撫で続けた。
「あ、あ……お兄ちゃん、ダメッ!」
――瞬間。
ルフが大声を上げると同時に、ルフの身体が青白く発光し、電撃のようなものが周囲に拡散するように飛び交った。
――え? 何、今の?
突然の出来事に、俺は後ろに転げるように倒れてしまう。
腰に弁当らしきものが直撃したが、飛び交ったそれに当たるよりは数段マシだろう。それを想像しただけで全身から凄い量の汗が吹き出した。
いや、そんなことよりも。
俺はルフを見る。さっきの青白い光はなくなっているが、電気でも帯びたように全身からバチ、バチと音が鳴っている。
っていうことはやっぱりさっきのは電気? え? ルフから電気が出たってこと? 何で? 俺が撫で過ぎたから? んな訳あるかッ!
「もう、お兄ちゃん! 兄妹でもここは触っちゃダメッ!」
俺が心の声にツッコミを入れていると、ルフは顔を赤らめながら両手で頭を――主に二つの突出した部分を覆うようにしてそう言った。
「お、おう。いやッ! そんなことより、ルフ大丈夫なのか⁉」
バチバチとなっていたルフの身体を恐る恐る触れる。もしかしたら電気が流れてくるのではないかと懸念したが、それは杞憂に終わった。
「ふみゅぅ……何か変な気分……」
そう言ったルフを、今度は怪我が無いか確かめるように撫でまわす。
怪我とか火傷した様子はない。けど、ルフは変な気分って言っている。やっぱり電気が流れたからだろうか。
「そ、そっか。具合が悪くなったらすぐ言うんだぞ」
ルフの身体から手を離し、俺がそう言うと、ルフはコクンと頷く。
あの電撃が何だったのかはまだ分からないままだが、俺もルフも何事も無くて良かった。その安堵から俺は思わずこう口にした。
「ハハッ。さっきの電撃といい、その角みたいのといい、ルフはまるで鬼みたいだな」
「ふみゅ? お兄ちゃん、ルフは鬼だよ。さっき言ったよ?」
「……え?」
「大鬼種だよ?」
オオオニ州……オオ、オニ、シュ……大鬼種?
なるほど、州じゃなくて種か。大鬼種ってことは文字通り大きい鬼ってことか。通りで聞いたことがなかった訳だ――って言ってる場合じゃねええッ!
「え、え? 鬼って、あの鬼? うん? そもそも鬼って何?」
「お兄ちゃん、何か変だよ?」
ぶつぶつと言っている俺を、ルフは少し引いたような顔で見ている。
そんなルフに俺は詰め寄ると、肩をガシッと掴んで疑問を投げかけた。
「つーことはそれってホントに角で、さっきの電撃はルフが出したのか?」
「ふみゅぅ……お兄ちゃん痛いよぉ」
「あ、わ、悪い」
「それにおかあーちゃんが言ってたよ。角は大事なものだから、ぜったい触らせちゃダメだって」
「そ、そうなのか」
見つめ合うようにして話していると、ルフがそう言って顔を赤くしながら俺から目を逸らした。
えっと、つまり――ルフは鬼で、頭にあるのは角で、それは大事なもので、俺が遠慮なし撫でまわしたから電撃を出した。こんな感じか。
やべえ……マジで分からねえ。え、何? このファンタジーのような出来事。
もしかして仕事のしすぎで、俺バグっちまったのか。いやでも、最近はそこまで残業してないし、何なら今日定時だし。でも今週何か疲れてたし……。
「お兄ちゃん……」
あれこれ考えてると、ルフが俺を呼ぶ。
そして、少し申し訳無さそうにこう言った。
「……お腹すいた」
お腹がくぅーっと鳴らないように押さえつけながら、ルフが俯いている。
ルフの言葉を聞いて、俺はルフの頭にぽんと手を乗せ、できるだけ声を震わせないように頷いた。
「そうだな。とりあえず、ご飯食べるか」
そう言うと、ルフは俺を見上げ、うん、と、一つ頷いた。
よかった、ほんと無意識で頭触っちまったから、また飛んでくるかと思った。
俺は心の中でホッと胸を撫で下ろし、リュックを下ろしてキッチンへ向かった。