三ページの絶望
いつからこれほど遅くなったのか。
「今日も三ページで、頭がパンパンだな」
早く読まねば、と思っている本を閉じる。
とても時代についていけるものではない。
過去のものも、まだまだ学んでおきたい本が山積みなのだ。
世の中には、”これ、読んでみたいな”と平積みを手に取り、サラッと一晩で終えてしまう人間もいる。
よく分からないのだ。
なぜそういう人間が物書きを目指す気になどならず、いちいち読むのに頭をカラッポにし、時間的に壮大な準備をしたにも関わらず、ほんの数ページ、時には数行でパンクしてしまう人間に夢を与えたのか。
……神を恨みたくなる。
あるいは、神は自分に「お前は労働者階級なのだ」というお告げを、何度も聞かせてくれているのかもしれない。
もしくは小林多喜二になれと。(ミリオン作家だ。まだ思い上がっている)
学業はおろそかにしがちだったが、現国の成績は悪くなかった。
小、中、高といつも高得点で、大学に行く気もなかったがセンター試験の現国を試したら普通に満点だった。
つまり、基礎(現代)国語力は普通にある。……と言えるかもしれない。
しかし三ページで小説は止まる。
昔はもっと読めていたはずだ。
「大きくなれば、どんどん難しい本も早く終えられるようになる」
そんな期待も抱いていた。
だが、どうやらダメだった。
学校の授業を一度聞いただけで、ノートをまったくとらずに全てを理解していく人間は、何度目の人生なのだろう。
俺は一度目だからバカなのか?
……そんな根拠もない考えが、たびたび浮かぶ。
幼少期から、漢字も習っていないのにマンガを必死に読んでいた。
ひらがなだけを懸命に追って、ふりがなの無いセリフをなんとか理解しながら絵を楽しむ。
昔からフィクションの世界が、現実より大きかった。
大人になっても、それはほとんど変わらない。
目の前のことを懸命にこなしながら、やっぱり夢はフィクションにしかなかった。
そんな人間が、三ページの文章でなぜ止まる?
物語とは、本とは何なのだろう?
やっぱり分からないのだ。
今はドラマだけが救いで、ときどき静かなドキュメンタリーで涙する、よくいそうなオヤジになっている。
それも悪くはない。
自分が育ててきた花は、来世で咲くものなのかもしれない。
しかしまあ、特に小説にこだわることなく、今は文章を書くこと自体が喜びなので、コリコリとエッセイの筆を走らせる(ポチポチとスマホを押す)。
いつか、誰かの人生を救う物語が書ければいいなあ、と今日を終えるのだ。
”今日書けないもんが、明日書けるかよ”
そんな言葉もあるだろう。
でも、自分なりにやりきった今日が、明日の花になる。
早咲きで小さなものを咲かせるくらいなら、遅れても満天の夜花でいいのだ。
いつだって、大きく出てみる。