二話
「……分かった」
結局、ラクスは従った。
風の包翼を操作し、緩やかに下降していく。
地上の女も魔力と風の動きに気が付いたようだった。静かに顔を上げて、ラクスとエリシアの姿を確認したのだろう、整った美貌の中で、瞳が険呑な光を放つ。
晴れた夜空の深い闇色の髪と、鮮やかな紅の瞳。冷え冷えとした美貌は、今は怒りで無表情となっている。
「こんにちは、アルテナ」
「……何か用?」
怒りの無表情を湛えるアルテナとは対極に、エリシアは満面の笑みで挨拶をした。
少しの間を開けて返事は返ってきたが、その温度は冬の氷よりも冷たい。
「残念だったわね、またお城を手に入れられなくて。もう諦めたら? 城を失うこと自体、才能がない証よ」
「ルール上、認められているわ。……用がそれだけなら、もう失礼するわ」
ついに轟音を立てて全壊したカイアスの魔王城を一瞥して、アルテナは身を翻しかけ――ふと思い立ったように、足を止めた。
「貴方」
「?」
アルテナが声をかけたのは、後ろで完全に傍観者となっていたラクスの方。
「いつまでそんな下女の言いなりになっているの。前魔王の息子である、ラクス侯ともあろう者が。父君の名に恥ずかしいと思わないの?」
「別に。そもそも俺の家、男爵家だしな。親父が魔王だったから一代限りの公爵席だけど、親父が死んだら男爵に戻るだけだし。俺はエリシアが喜んでくれればそれで満足だ。由緒正しい七大侯爵家のお前のところとは違うさ」
「……愚かだわ」
吐き捨てるようにそう言うと、アルテナは今度こそ、踵を返して去って行った。
「ふん! 大した才能もないくせに、家柄に縋ってバッカみたい。あぁ、でも、僻まれるっていいわぁ。わたしがあいつより優れてるって証だものね」
立ち去るアルテナの背を見送りながら、エリシアは歪んだ優越感に浸り、恍惚とした声を上げる。
「もちろん、エリシアは次期魔王になる最高の人材だからな」
「当然よ」
機嫌良く胸を張ったエリシアを、ラクスは微笑ましそうに見つめつつ、上空へ向かって手を振った。
指示に従い、待機していた飛竜が下りてくる。
「さ、エリシア。今日はもう帰ろう」
「まだ行けるわ」
「あまり長く魔王城を空けない方がいい。ユーグが残ってるから大丈夫だとは思うが、恨みは大量に買ってるんだし。それに――」
最後の方はエリシアには言いずらくて、ラクスは言葉を濁す。
エリシアには配下が少ない。というよりも、ほぼいない。そのせいでラクスとエリシアが出かけている間、城は無人状態。城の維持が最低条件であるこの魔王試験において、危険極まりない状態だ。
城の規模はそこそこ成長しているにもかかわらず、兵士と名のつく存在が皆無。
城は魔力で育つが、そこに勤める兵士や使用人は意思を持つ個人なのだ。人がいない理由は、単純に、エリシアの性格のせいである。
それが分かっているので、ラクスには指摘できない。
「……そうね」
ラクスの言葉に少し不機嫌になりつつ、エリシアはうなずく。
「どうして、部下になりたいって奴が溢れるほど来ないのかしら。皆、見る目がないザコばっかりね!」
自分の城に下働きや兵士がこぞって集まって来ないのは、エリシアにとってかなりの不満のタネだった。
「カセーナの、あんな無能にまで兵士が付いてるのに。なによ、貴族だからって……」
「――俺がいるよ」
ふわり、と後ろからエリシアを抱き締め、優しく囁く。心の底からの愛しさを込めて。
「エリシアには、俺がいるから」
(孤独だった俺に、お前がいてくれたように)
何があってもエリシアを守り、ずっと一緒に歩むのだと、決めていた。
「……そうね。使えないザコは、何人いたってどうせ使えないんだし」
個人を尊重しないその横柄さが、まま態度に出ているので人が集まらないのだということを、エリシアはまだ気が付いていない。
配下を蔑ろにする主に誰もついてこないのなど、当然である。
「帰ろう、エリシア」
「ええ」
今度はエリシアも素直にうなずく。その手を引いて、飛竜に乗り込んだ。
「ね、ラクス」
「ん?」
「……ありがと」
ほんのりと頬を染め、目線を外しつつ、エリシアはぽつん、と礼を言って来た。
お礼一つ言うのに屈託を抱える、そんなプライドの高さもラクスから見れば可愛らしいだけ。
「当然だろ。あ、そういえば――」
ふと思い出したように呟いて、ラクスは右手の手の平を上に向け意識を集中する。と、直前まで何もなかった虚空に分厚い本が出現した。
『覚醒の書』と呼ばれる魔道書だ。
世にある魔法の全てを記した書物と言われ、魔族は皆、生まれた瞬間からその身に宿している。
覚醒の書は白紙から始まる。持ち主に相応の魔力が備わったときに、白紙のページに魔法の名が浮かび上がるのだ。そして本に魔力を注ぐことで、その魔法の封印を解き、使用可能となる。
「そろそろ新しく覚えてもいいかなと思って」
「もう?」
「ああ。次の段階の奴は全部覚えられるようになったから」
ラクスの覚醒の書は、四割ほどのページが文字で埋まっていた。ただし、始めの方のページはすべて空白。半ばから後半にかけてだ。
「……」
その本の様子を見て、きゅ、とエリシアは何かに耐えるように唇を噛んだ。
前半部分も、本当に白紙という訳ではない。淡く文字が明滅しているものがある。基礎呪文だ。
「どうするの?」
ラクスを見上げて訊ねたときには、エリシアは直前まで浮かべていた硬い表情を消していた。聞き方も甘えるような猫なで声で。
「まあ、そろそろ何か一属性ぐらい、俺も攻撃魔術を覚えてもいいかなと思ってるが」
「いらないわ」
「けど、エリシア」
「いらないわ。あなたには、わたしがいるんだから」
言うなり体を反転させ、エリシアはラクスの首に腕を回し、抱きついてきた。豊かで柔らかなバストが惜しげもなく密着し、その感触を存分に伝えてくる。
「それとも、ねえ、ラクス。わたしのこと、信じてくれないの?」
「お、俺がお前のこと、信じないことがあったか?」
声が上擦ったのは意識が胸の感触に集中してしまったせいだった。一拍遅れてから、柔らかくその背を抱き返す。
「じゃあ、わたしのこと、守って? それ以外はあなたには必要ないわ」
「わ、分かった」
「ん」
ラクスがうなずくのを見て、エリシアはふっと体を離した。再びラクスの胸に背中を預ける形で寄り掛かり。
「見せて?」
「ほら」
言われるままに、ラクスはエリシアに覚醒の書を渡す。ページはほとんど最後に近い。
「これにしましょう」
言ってエリシアの指が差したのは、即死魔法から身を守る魔法だった。即死魔法自体が高位魔法なので、使う機会はほぼないだろう。
分かっているから、ラクスも首を傾げる。
「あんまり使う機会なさそうだが?」
「いざというときのためよ。六大属性の防御魔法は、もう強力なやつを持ってるじゃない」
「まあ……」
(それでも、どうせなら全属性防御のやつとか、属性付与の方とかの方が、使い勝手はいいんじゃないか?)
納得できない部分が、少しだけラクスに疑念を抱かせた。
そのラクスの態度に、エリシアの瞳が憤りを見せる。
「ラクス」
「!」
甘い声で囁かれ、ラクスがエリシアへと目線を落とすと、その瞳は直前までの苛立ちを見事に隠して、ただ甘えて潤んだ瞳で見上げられていた。
「いいでしょ」
「エリシアが言うなら、いいよ」
迷いは消えた。
(ま、よく使われる類の魔法に対する防御魔法の強力なやつは、エリシアの言う通り、確かにもう持ってるしな)
一理ある、と納得した。
覚醒の書へと魔力を注ぎ、明滅していた文字が安定する。代わりに、その周囲で同じように明滅していた文字は掻き消えた。
ほっとしたように、エリシアの体から力が抜けた。
「別に、エリシアが緊張することないだろ?」
ラクスが苦笑しつつそう言うと、エリシアはびく、と肩を揺らしてから、笑顔を向けてきた。
「そんなことないわ。だって、ラクスのことだもの」
「そ、そうか?」
「そうよ」
「――そっか」
エリシアが、自分のことであるかのように思ってくれているのだと、ラクスの心は素直に喜ぶ。
「エリシア」
「きゃっ!?」
急に後ろから抱き締められ、エリシアは驚いた声を上げる。
「な、何よ。急に」
「俺にはお前だけだ。愛してる、エリシア」
「知ってるわ」
「ああ」
さらにエリシアの体を抱く手に力を込めた。エリシアが、少しだけ居心地悪そうにもぞりと動く。
「何だ。照れてるのか?」
「……あんたの顔は心臓に悪いのよ。無駄美形」
「無駄ってことはないだろ。淫魔が美形度低かったら、何で戦えばいいんだよ」
「普通に戦っても、あんたは強いじゃない」
エリシアの声には、拗ねたような響きがあった。
「ま、それは良かったって俺も思ってるよ」
言って、ラクスは常時発動する体質のようなもの――特質魔法のページを開く。そちらもほとんど白紙のままだ。
しかし、しつこく明滅を繰り返す文字がある。
『声魅了』『香魅了』『目魅了』。
ラクスの一族は代々淫魔だ。ラクス自身も淫魔である。魔王になった父などは、狙われて堕ちない者はいないとまで言われた。
「……一番下らない能力だ」
魔力が切れれば目覚める偽りの愛。人の尊厳を踏みにじり囁かせる、薄っぺらな忠誠。
「吐き気がする」
その力が、ラクスは大嫌いだった。
「そうね。あんたに魅了魔法を磨かれたら困るわ」
エリシアの白く細い指が、ぱたん、と覚醒の書を閉じる。
「だって、わたしもかかっちゃうかもしれないもの」
「磨かないよ、こんな力」
「ええ、そうして」
「本当の気持ちで俺を好いてくれてるエリシアの尊厳を、穢したくない」
「そうよ。そんなものなくたって、わたしはあなたが好きよ、ラクス。愛してる。だから、わたしがわたしじゃなくなるかもしれないそんな術、覚えないで」
「もちろんだ」
はっきりとラクスはうなずく。淫魔として、種族のアドバンテージをほとんど捨てている状態だが、構わなかった。
何千何万の、魅了にかかった偽りの部下よりも、エリシア一人の本当の気持ちが、ラクスにはよほど大切だったから。