振り返れば奴が――。
――油断した。
大して広くもないこの部屋の中に”奴”の気配を察した瞬間、俺は自分の油断を恥じた。
なんという迂闊。なんという手落ち。何故、俺は”奴”の死体を確認しようとしなかったのか。
――いる。確実に、忍び込まれている。
俺はトリガーに掛ける指を無意識に動かしていた。薄暗い部屋の中には遮蔽物が多い。つまり、”奴”が隠れられる場所も多いということだ。
――気配をさぐれ。僅かな物音さえ聞き逃すな。
”奴”を発見した時、俺は容赦なく、”奴”を消しにかかった。密室に閉じ込め、毒ガスを散布し、確実に殺しにかかった。あの状況で逃げられるはずがないと枕を高くして寝ようとした途端――これだ。
部屋を出ようとすれば、その気配に”奴”が動くかもしれない。”奴”は素早い。恐らくは一瞬で間合いを詰められる。そうなれば終わりだ。背後を取られるのは勿論、正面でさえ危険だ。
”奴”が動くよりも早く、”奴”の隠れている場所を察知し、確実に殺す。これしか俺が助かる道はない。
――何処だ。俺が”奴”なら、何処に隠れる?
知恵を絞れ。生き残るために。”奴”はこの薄闇に溶け込んでる。そして虎視眈々とこちらを狙っている筈だ。
息が、緊張で乱れていく。静寂を割り砕くように、心臓が鼓動を強めていく。顔が熱を帯び、逆に指が冷たくなっていく。滴る汗はネットリとしている。
恐怖。これは恐怖だ。死の罠を掻い潜り、此処まで迫ってきた奴に対しての。
もう安心だと、油断して隙を晒した我が身のなんと愚かしきことか。油断をした反動が、この恐怖を生んだのだ。
唯一の幸運は、手の中の得物だ。この冷たい金属の感触こそ、俺の命を守ってくれる希望だ。これがなかったら、俺はただ座して死を待つしかなかっただろう。
いや、逆なのか? これがあったからこそ、俺はこの恐怖に晒されている……? ――バカな事を考えるな。俺が、何故、”奴”に対して死を覚悟しなきゃならない?
ここの主は誰だ? ”奴”か? いや、俺だ。”奴”は招かれざる客。不法侵入者だ。ここで殺しても誰も文句を言わない。
そうだ。生殺与奪は”奴”ではない。俺にこそある権利だ。殺すのは俺であり、”奴”は殺される側なのだ。
――殺せ。殺せ。殺せ。冷酷に。冷徹に。残酷に。機械のように。トリガーに掛ける指に殺意を籠めろ。
大きく息を吸い、大きく吐く。少しだけ、冷静さを取り戻す。頭が冷えれば五感も冴える。視覚が役に立たない以上、耳と気配に全ての意識を注ぎ込む。
カサッ。
「ッ! そこだ!!」
俺は迷うことなく左後ろに振り返り、同時にトリガーを引いた。俺の殺意を乗せた一撃が銃口から放たれる。
「………やったか?」
壁にべっとりと残されたそれは、果たしてどのような結果を伝えるのか。俺はゆっくりと、足を進める。油断するな。焦るな。トリガーから指を外すな。奴がまだ生きているなら……止めを刺すんだ。
「………いない?」
”奴”の死体があるであろう其処には何もなかった。壁には俺の殺意の跡だけがまざまざと刻まれている。だが………死体はないのだ。
――生きている!
仕留められなかった。その事実は俺を戦慄させるに十分だった。気配は何処だ!? ”奴”は何処に逃げた!?
……恐ろしい。なんて恐ろしいんだ。音を態と立てて注意を引き、一瞬で其処から移動したんだ。マズイ。さっきまでの均衡が崩れた。
俺は”奴”の気配を必死に探った。だが、駄目だ。敵の術中に嵌った時点で俺と”奴”の立場が入れ替わってしまった。この動揺を、”奴”が見逃すとは思えない。
状況は悪化している。ここは既に”奴”のテリトリーと化した。あの浅ましい”奴”が、それに気付かない筈がない。動く。”奴”が動く。
俺に出来るのは――この場を一刻も早く離れることだ。それが”奴”を刺激するとしても、ここから出られれば問題はない。
仕切り直すのだ。撤退ではない。転進だ。”奴”を殺す不足を補完し、不測を補うのだ。
そうとなれば、出口に向かって全力で走るだけだ。こんな所に居られるか!
足下に転がる箱を蹴飛ばしながら、ドアに向かって走る。鍵は掛けていないからすぐに開く。俺はドアノブに手を伸ばし―――。
――ぞわっ。
「ひ――!?」
目前を、闇から溶け出たような何かが駆け抜けた。驚き、伸ばした手を引っ込める。同時にバランスを崩した俺は床に転び、尻をしたたかに打ち付けてしまった。
「つう……!」
思わず、うめき声を上げそうになる。だが、それを噛み殺して、俺は立ち上がる。痛みに動かない――というよりもダメージに麻痺した下半身に無理やり力を込め、再びドアへと向かう。
もう一刻の猶予もない。”奴”がこの瞬間に動かないなど………! 俺は必死にドアノブに手を伸ばした。
――ガチャリ。
レバー型をしたドアノブが下に向かって四分の一回転し、押し開けられて生まれた隙間から光が差し込む。それは室内の闇を溶かし、光と影のグラデーションを生み出した。
その唐突な変化が、何をもたらすか。俺は失念していた。
「っ……!?」
俺の耳に聞こえた、不吉の羽音。まるで歴戦の狙撃手の放った弾丸のように、迷いなく真っ直ぐ――俺へと向かってきた。
振り返る。その視界に映ったのは――闇の向こうから抜け出てきたかのような不気味な黒。この世の嫌悪を体現したかのような忌避すべき姿。
邪悪極まりない存在――”奴”だ。
「っ……うわぁあああああああああああああああああああああああ!!」
もう、駄目だ。”奴”は止まらない。躱せない。俺に出来るのはただ醜く悲鳴を上げることだけだった。
「――お兄ちゃん、どうしたの!? ……ひっ!?」
派手な音に驚いた妹が階段を上がって来て、短い悲鳴を上げた。
果たしてそこには、廊下に仰向けに倒れたままピクリとも動かない兄と、その顔面に張り付く―――”G”の頭文字を持つ、古代昆虫の姿があった。
二宮杯、お題は奴。
出来るだけマフィアチックな文章を心がけましたが……上手く行ったでしょうか?w
Gは怖いですよね。嫌いな人なら尚更です。これからの時期と考えてお題に致しました。