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「カミーユも戻ったし、さっさと行くか。測定室は入り口の近くなんだ。ギルドにはならず者もよく来るからな。暴れたらすぐに追い出せるように奥には作らないんだ」
「そうなんですか。なかなか考えられているんですね」
「ですが、測定する機械も高いんですよ……壊されたら堪ったものじゃありません」
ルカが苦笑いを浮かべる。今までにもならず者がやってきて暴れ、壊されてしまったのだろう。そのたびにルカや他の属する者たちが何かしら請け負ってきたのだろう。その笑みには苦労がにじみ出ていた。
「(訊かないほうがいいかな……)」
その話を訊いてしまうと、話が長くなりそうな予感がしてエヴァは躊躇した。
アベルが前を歩き、三人で測定室まで歩く。途中ですれ違う人々の視線を受けて居心地が悪かったが、人が多くなるまではルカはエヴァの意思を尊重して歩かせてくれる。
「――ねぇ、そういえばルイーズは帰ったの?」
「いいえ見てないわ。ルイーズがどうしたの?」
ざわめきの中で、そんな会話が突然耳に入ってきた。どうしてかわからない。けれど、その会話は音ではなく声で届いた。
「今日、討伐隊での仕事を終えて戻ることになっていたの。でも、見かけないから……何かあったのかしら」
「でも……あのルイーズよ? また戻ってきてる間に“面白そうだな!”とかいって寄り道しているんじゃないかしら」
「そうかしら……そうだといいわね」
「あぁ、もしかして最近の噂を気にしているの? あの――」
聞き耳を立てていたが、女性から離れてしまったのと周りのざわめきにかき消されてしまって、その続きは聞き取れなくなってしまった。気になったが、わざわざ戻って訊くことでもないだろう、そう結論付けて、エヴァは後ろ髪引かれる思いを断ち切り前を向く。
すると、キョトンとするルカと目が合った。
「エヴァさん? どうかしましたか」
「あ、いえ、あの……なんでもないです」
なんとなく言い出せなかった。口ごもるエヴァに首をかしげるだけでルカは追及しなかった。そのことにほっとする。
「もうそろそろですが、もう人通りも多いですし背中に乗ってくださいね」
「……はい」
腰を落としたルカの背中に乗りかかる。相変わらず、ふんわりと花の香りがした。
「ルカ、エヴァ――なんだ、また背負ってるのか」
「それはそうですよ、エヴァさんは裸足なんです。これから通るのは人通りの多いロビーなんですよ。先ほどみたいに足が踏まれてはいけません」
ルカの答えに、アベルは軽く笑って肩を竦めた。そして「それもそうだな。測定室はもうすぐだ」と同意を示し、また先導をしてくれる。
動き始めてからゆらゆらと足を揺らし、ルカの背中でより一層集まる視線に耐える。そのために頭の中には別のことを置いた。
なんだか、ここに着てから噂を耳にする機会があるかもしれない。街の中でもひそひそと囁きあっている姿を見かけた。
「(るいーずって、女の人なのかな。帰ってきてないんだ。そういえば街でも、宿屋のロマーヌがいなくなったって聞いた気がする。公爵とか、若い女がいなくなってるとか……不穏な噂。何が起きてるんだろ)」
背筋が凍るような、そんな気味の悪い噂が流れていることに不安を感じずにはいられない。行方不明ならば、まだ見つかっていないのだろう。もしかしたら、まだ被害は出ているのかもしれない。
ギュッと、ルカの肩に添えていた手に力が入る。今こうしている間にも行方不明になっているのだとしたら、あの活気付いた雰囲気は一転してしまうだろう。アベルにも、なんらかの追及がかけられる。
もしかしたら、ルカにも。
「(怖い、な。なんか、さっきから怖くて仕方ないよ。ここって安全なのかな)」
目を瞑る。そして、ルカの髪に顔を埋める。沸きあがる不安をかき消すために、花の香りを胸いっぱいに吸い込む。
何処となく様子のおかしいエヴァに、ルカはちらりと視界に映る赤茶の髪を見やる。そんなところを見たってエヴァの髪の質しかわからないが、背中に彼女を乗せている状態ではたまに視界に映る長めな髪しか見えないので仕方ない。
どうしたのか、そう問いかけても先ほどのように何も答えないのだろう。それがわかっているから、ルカも無理に何かを口にしようとはしなかった。
「ほら、ここだ。それにしても、意外と混んできてるな」
アベルが戸に手をかけながら辺りを見渡す。そんな彼が言うように、ロビーは席を外す前より混んできていた。見えるヒトの顔には、不安が貼り付けられている。
「マスター、もしかして」
「いや、その話はまたあとでな。今はエヴァだ」
「……わかりましたよ。でも、お昼まだですからそのあとですよ」
「了解だ。さてエヴァ、測定の説明をするぞ」
ルカとアベルの不穏なやり取りに、エヴァの心は微かに乱される。鼓動が早い。先ほどから感じていた恐怖に手が震える。
しかし、そのことに気付かれないようにエヴァはアベルと目を合わせしっかりとうなずいてみせる。そんなエヴァの様子がおかしいことにアベルは気付きながらも、戸を押し開き彼らを中へ招きながら説明をしようと再び口を開く。
「測定といっても、ただここにある水晶玉に手を触れるだけでいい。魔力を放出することができないやつでも測れるようにしてあるから心配は要らない」
「……どういうことですか」
ルカの背から滑り下りて、しげしげと測定室の中を見渡す。並んで配置されている台座の上に直径10cmはありそうな水晶玉が鎮座しているのが見えた。
「身体の中をスキャンして、魔臓器の場所を調べるんです。放出することができなくても、魔臓器の場所や形、大きさなどがわかればどうとでもなりますからね」
ルカに手招きされ、エヴァは台座の一つに近寄る。よくよく見れば、台座を中心にして円陣が描かれていた。
「この円はなんですか?」
「これは魔方陣ですよ。水晶玉が媒体で、この魔方陣が媒体で読み取った情報を受付側に設置している特別な用紙に写してくれるんです」
その説明を受けてもよくわかっていない様子のエヴァに、ルカは困ったように眉を八の字にさせた。測定室の近くで立ち止まっているアベルに視線を移し、アベルもその意図がわかったのだろう。うなずいてみせてから、測定室から出て行ってしまう。
流れを一通り見守っていたエヴァは、ルカに手を引かれてパッと彼の顔を見る。
「どうかしたんですか、ルカさん」
「マスターに許可を取りましたので、実際にお見せしますね」
そのまま魔方陣から出るように促され、その場に待機しているように言われそのとおりにするエヴァ。
ルカはおもむろに台座に鎮座している水晶玉に手を乗せる。すると、水晶玉が光り、その光によってかわからないが魔方陣も輝く。キラキラ、キラキラと光の粒子が空気中に漂い、彼の身体もその光が移ったかのように淡く光る。その光景は幻想的で綺麗だった。
ふ、と瞬きの合間に消える光に目をパチパチとさせるエヴァは、振り返ったルカが一瞬切なそうに目を細めたような気がした。
「ルカ、」
声をかけようとして、その声は最後まで音にならずに飛散する。こちらを見たルカが笑っていたからだ。笑って、いたから。
心臓が嫌な音を立てる。その表情には見覚えがあった。そう思ったときにはノイズが走り、目の前が暗くなったように思えた。耳元で何かが弾ける音がする。ぴちゃん、ぴちゃんと跳ねている。左腕が痛くて、けれどその痛みよりも心が痛くて仕方なかった。
「エヴァさん?」
その声が、ぬくもりが合図だった。スーッと幻覚から解放されたのは。
「どうした、エヴァ」
背後から先ほどこの部屋から出て行った男の声が聞こえる。呆然とその声を聞き、目を丸くさせるエヴァに顔色を変えたのはルカだった。
「どうして泣いているのですか」
頬に添えられる手は温かいはずだった。掬われたその涙は冷たいはずだった。
なんで泣いているのかもわからない。痛くて仕方なかったことしかわからない。そして、何故そう思ったのかすらわからない。わからないことだらけの自分が浮き彫りにされて、エヴァは息を詰めた。
何が起きているのだろうか、それすら特定するための頭が働かない。自我を喪失したかのように、ただエヴァはまっすぐ彼を見つめていた。
「……エヴァ、測定できるか」
何も言わないルカに代わり、アベルはそう声をかける。手にしている紙を見せようとこちらに戻ってきたはいいが、明らかにエヴァの様子がおかしくなっていることに動揺を隠せない。測定の光景で何かトリガーになるものを見てしまったのだろうか、と考えるも答え合わせもできない。
それでも、問いかけは届いたのかエヴァは小さくうなずいた。
ルカの手を離れ、彼女はフラフラと水晶玉に近寄る。違和感の残る赤茶の髪がアベルの視界でふわりと揺れる。
そっと水晶玉に触れる。それは彼女のぬくもりを読み取り、淡く光を発し濃密な粒子を撒く。ルカのそれとは違う反応に、アベルは顔をしかめる。
ルカの反応をたとえるなら雪明りのように柔らかく儚い光だ。しかし、エヴァのそれは違う。まるで光の海に溺れてしまいそうだ。
アベルの中で、一つの仮説が立てられる。しかし、それは誰の耳にも届かない胸のうちに潜められた。憶測の域から出ないものを無闇に口にできない。もしそれをしてしまったら不安定なエヴァの感情を揺さぶるだけでなく、周囲の不安も悪戯に煽るだけだろう。
しかし、この粒子の海にはアベルも目を瞠ってしまった。自分の種族以外のにおいにも寛容なレオだけではなく、人一倍敏感なレアがあそこまで取り乱してしまうにおいがエヴァにはあるのだ。何かあるのだろうと思っていたが、予想は遥かに裏切られる形となった。
誰も一言を発することなく、この粒子の海は蝋燭の炎に息を吹きかけるようにすっと消える。いつもは余韻などなかった。事務的に終わるそれだったのだ。
光の粒子が消えるそのとき、彼女の髪の色が変わって見えたような気がした。瞬きの間にその変化はなくなっていて、光の屈折によってそう見えただけなのだと納得させるように思い込もうとした。
終わってからも、ぼうっと立っているエヴァにルカは無言で寄り添う。
「ルカ、お前本物か?」
「……失礼ですね、本物ですよ。馬鹿言ってないでエヴァさんの結果を受け取りに行ってくださいよ。職務怠慢でシルヴィに言いつけますよ」
「やめてくれ……取ってくるから、待ってろ」
疑いは彼の態度ですぐに解かれる。いつもの彼はエヴァへのそれとは程遠い態度だ。口調こそ丁寧であれ、彼は身内でさえ淡々とした対応をしている。
アベルは扉の向こうに残してきた彼らに少々の不安を覚える。エヴァは得体が知れないし、そんなエヴァに優しいルカには旅の間に何があったのか心配になる。
しかし考えていても仕方ない。情報は少なく、少しでも手持ちにカードを増やしたいのだ。姓を貸すのだから、自分の中でしこりになるような不安を残しておきたくないのが本音だ。
早く取りに行こう。結果がわかれば、少なからず彼女の出身は絞り込めるはずだ。
アベルは扉の前から去る。その気配を察知したのか、ルカがやっとエヴァに話しかけた。
「エヴァさん」
「……」
だんまりを決め込むエヴァに、ルカは困ったように目を伏せた。不安定な彼女だ。何をきっかけにして壊れてしまうかわからない。
「エヴァさん、何か思い出してしまったのですか」
彼女のブラウンの瞳がこちらを見る。空虚なそれに、何故だかやるせない気持ちを抱いた。
彼女はゆっくりと瞬きをする。
そして、固く閉じられていた唇がゆっくりと開いた。
「……わからない」
エヴァはもう震えていなかった。さっきまでの自分を失っている様子も見られない。ただ、静かにそうつぶやいた。そこに彼女の今の心情がすべて含まれているような気がした。
また、ゆっくりと瞬きを一つ落とす。
もう一度開いたとき、彼女は口角を上げて笑みをかたどった。無理をして笑っているような印象をルカは受ける。
「なんだかおかしいですね。私、さっきから不安定すぎます。迷惑ばっかりかけてますね、ルカさんにも……他の方にも」
そんなことない、とルカは首を横に振る。
「ありがとうございます。湖で溺れていたときも、それからも助けていただいて」
「いえ、お気になさらず」
「いいえ、ルカさん。いいえ……私、恵まれていますね」
本当に恵まれている。変なヒトだったら、こんな待遇はなかっただろう。たとえ出会ってまもない女に罵声を浴びせられたとしても、まだいいほうだろう。そう思った。
「恐いだけで済んでいますから」
にこり、と笑う。怖いだけ、それ以上の傷は与えられていない。キャンキャン吠えていた女の声など頭にも残さない。忘れたほうがいい。すべて、忘れたほうがいい――。
彼女の中に渦巻く感情を、目の前にいる男が気付かないのは仕方ないだろう。心の中を読めるような奇特な能力がない限り、誰も他人の心の中などわからないのだから。
「そう、ですか」
笑って見せてからすぐに顔を伏せた。そうしたほうが、今傍にいるルカがどのような表情をしているかわからないから。
しん、と静寂が訪れる。変な空気にしてしまったと、エヴァは内心慌て始めた。何か言おうと口を開閉させるが、気の利いた会話のネタなど咄嗟に出てくるはずがなく、微妙な空気感のままだんまりを決め込む形となってしまった。
「――おい二人とも、結果わかったぞ」
そんなときだった。キィ、と軋む音のあとにすぐにアベルの声が聞こえてきたのは。ちょうどいいタイミングだった。この状況の打破することは自分には到底できなくて、大袈裟ではあるがアベルの登場はまたとない救いだった。
入り口へ顔を向けると、アベルがひらひらと白い紙を持って立っている。不思議そうにこちらを見ている姿に、少々なんとも言えない気持ちが胸中に燻るが、その紙に見覚えがあることに気付く。
ちょうど同じ大きさの紙だと思う。そう考えがよぎったとき、ルカが小さく声を上げる。視線をアベルから離し、ルカを見上げるとアベルと同じ紙を胸の高さまで持ち上げていた。それで思い至る。ルカが持っていたものと同じだと。
「そうでした。まだエヴァさんに僕の結果を見せていませんでしたね。……どうします?」
「なんだ。まだ見てなかったのか」
「あ、そうなんです。……先に見せてもらってもいいですか」
歩いてきたアベルに「見せてもらえ」と促され、ルカが紙を見やすいように持ち直してくれる。覗き込むと、その紙には人間の体内が写し出されていた。
ここが何処でここが、と青白いその体内の縮図に目を移していき、ルカの外見を思い返しながら首をかしげる。やはりと言うか、さっぱりわからない。
「魔臓器、でしたっけ。それは何処らへんにあるんですか」
「ええと、これです、これ。この心臓部に近いところに僕はあるんですよ」
ルカが白い指で指した場所は、心臓と言って指してくれたものより二倍くらいだろうか大きいように思える。思わず「うわぁ」と声が漏れた。
「大きいですね、これが普通なんですか」
「ルカは特に大きいだけだ。これ、エヴァのだ」
視線を上げた先で、アベルにすっと差し出された紙を受け取る。ルカの紙のようにそれにも青白く体内が写し出されていた。だが、違うところもある。
ところどころ、白に塗りつぶされているようにはっきりとしていない。配置としては、ルカと同じく心臓部に近いようにも思える。
「わぁ……ほとんどわからない。魔臓器どれですか、これ」
「……これは」
「それじゃ魔臓器どころか、他の臓器も見分けつかないだろ。ただ、もしかしたらルカと同じところにあるかもな。今度ちゃんと調べに医院に行くか」
「あ、あぁ、はい」
もう一度じっくりと用紙を見る。やはりそこには白く塗りつぶされていてぼんやりとしかわからない体内が写し出されているだけだ。
「私にあるんですかね……魔臓器」
定義も用途もよくわからない。そんな臓器が自分の体内にある。それはとても不思議なもので、なんだか現実味がない。
「なかったら、エヴァは魔素の密度が低い地域にいたのかもな。だが、魔臓器がないものは今までに発見されていないとされている」
アベルの説明は、心に不穏な陰を落とすのに十分だった。ドキリ、と心が嫌に弾む。無意識に力が入り、くしゃっと紙にしわができてしまった。
顔色がサッと変わるエヴァに、当然アベルは気付いた。困ったように頬を掻き、小さく息を吐き出す。そうしてから、ぽんっとエヴァの頭に手を置いた。少しでも彼女の不安が消化されるように、祈りをこめて。
「……されている、だけだ。書物に記載されていないだけなのかもしれない。だから、気にするな」
気休めだとしても、そう言われて少しだけ心が軽くなったのは嘘ではない。頭をぽんぽんと叩くように撫でるアベルの手に、胸のうちに広がった陰が吸い取られるように晴れていく。
「ありがとう、ございます。アベルさん」
気恥ずかしくて控えめになってしまったエヴァの言葉に、アベルは目を細めて「アベルでいい、さんは要らない」と返しルカに視線を移す。
ルカは、少しだけ微笑んでいた。柔らかに微笑むその姿に、いつもの彼とはなかなか重ならない。こんな表情、最近は見せていなかったからだろう。いつもの彼は何かに急かされて生きているように日々を過ごしていたから。
エヴァの存在が、彼に穏やかな表情を与えているように見えるのはもう気のせいではない。二人の間に何があったのか知らない。それでも、ルカの中で何かをわずかに変えるには十分だったのかもしれない。
「何も知らないのも、いいのかもな」
「なんですか、……アベル」
「いや、なんでもないよ」
知らないどころか、記憶を失っている彼女にこれは嫌味なのかもしれない。そう思うと複雑な考えだと思った。その考えを振り払うように頭を振り、不思議そうにこちらを見つめるエヴァになんでもないことを伝える。そうしてもう一度エヴァの測定結果に目をやる。エヴァの確かな年齢はわからないが、推定でも十代ではありそうだ。
しかし、この結果はハッキリ言って穏やかではない。そうだとしても、そんなことを口に出して彼女に伝えることはしない。不安を煽るだけだと、理解しているから。