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ルカに促されてから、エヴァの裸足で一悶着あったが、それも些末なことのように二人は歩いた。息を吸うと、鼻腔をくすぐるなんともいえない森の香りで肺をいっぱいにする。なんだか不安で揺れる心を落ち着かせてくれる気がした。
じかに伝わる草や土の感触、小石を見つけたら少しだけ避けるように歩いて傷がつかないように注意して歩く。そうでもしないと、前を歩くルカがすぐさま背負おうとするのだ。
歩く足があるなら歩かねば、そんなことを言って歩くことを許してもらったエヴァは、少し神経質に舗装されていない道を危なげなく歩いていく。
「それにしても、結構近くに街があるのね」
「結構って、軽く20分は歩きましたよ、エヴァさん」
「……なんででしょうね、20分くらいだと近いと思っちゃうんです。記憶を失う前の私は歩くことに慣れていたのかな……」
そうぼやき、ガサガサと草花を踏みしめながら森を出ると、そこは人で賑わう街があった。しかし、そこでエヴァは己の目を疑う。
「……あれ、えぇと、あれ」
「どうかしましたか、エヴァさん」
「あ、あの、あれが普通なんですよね」
エヴァが指し示す箇所は、待ちゆく人々の頭頂部や明らかに異形を成すもの。異形の中で分かりやすいのはトカゲのような成りをするモノだろう。ぎょろつく目だが、野性的な光はなく穏やかな眼つきがなんとも不思議だ。その他には、半透明の光を透かす翅をもつモノ、動物の耳をぴくぴくと動かしながら歩くモノ、様々である。
その光景が、心の何処かで引っかかる。なんだか見慣れない、そんな気持ちを感じたのだ。
「え、あぁ、記憶を失うとやはり不思議なものに映るんでしょうか。一応、昨今では普通となっていますよ」
「ルカさんは、見慣れているんですか」
「僕も最初は慣れていなかったです。でも、みんな関わってみると優しいですよ。見た目で損をしてしまっているモノ達なんです」
そんな風に談笑をしながらびしょ濡れの男女二人組で街を歩いていると、ひそひそと内緒話をする待ちゆく人々と多くすれ違う。エヴァがそのあまりの多さに思わず耳を澄ませてみると、拾えた話し声は「町はずれの公爵の屋敷から……」「最近、若い娘の行方が分からなくなるらしい」「そういえば、最近宿屋のロマーヌもいなくなったみたい」という、そんなものばかりだった。
エヴァは内心で首をかしげる。
「(公爵の屋敷……それに若い娘の行方不明? なんか、不穏だな……)」
ひそひそと潜められた話し声は止まらない。好奇心からか、はたまた不安感からか、親しいモノに耳打ちする姿は形容しがたい感情に支配されているように見える。
「(……怖い。なんだろう。私、この感じ好きじゃない……)」
治まったはずの震えが微かに戻ってきている。
「エヴァさん、あれがそうですよ」
「えっ……」
苦しくなってくる心に差したルカの声にエヴァはいつの間にか俯いていた顔をあげる。ルカが指し示したのは、まだ少し距離があるにもかかわらず大きいことが分かる建物だった。
「あれが、ギルドですか」
「はい。僕が登録してるギルドの支部ですよ。本部は王都にあります」
「……大きいんですね」
「あそこで雇用されるのは冒険者とかなんですけどね。意外と何でも屋になっていますし……部署とかありますし」
そう言って笑うルカは、なんだか遠い目をしている。乾いた笑みに、エヴァはまたも首をかしげる。何か嫌なことを思い出したのだろうか。
そんな心配そうなエヴァの視線に気付いたルカは、コホンと一つ咳払いを落とし、「なんでもありません、仲間の醜態を思い出しただけです」と微笑んで弁明する。それ以上追及する必要性を感じなかったエヴァは、曖昧にうなずいて再びギルドに視線を戻した。
どう表わしたらいいのだろうか。白い壁、均一にある窓、大きいとはいえ階数は数えた限り三階くらいはあるだろう。背の低い建物ばかりだからか、それだけでも大きく見えるのだろうか。それにしても、横に大きい。
そんな、少し建物に集中しすぎていたのだろう。気付いたときには遅かった。
「いたっ」
「エヴァさんっ」
足を踏まれた。ガッツリと、強く。エヴァは思わず止まってしまい、しゃがみ込む。踏まれてしまった足は赤くなっていて、擦り傷のように細かな傷ができてしまっていた。
「エヴァさん、ギルド近くになるとヒトの往来も多くなります。さすがに裸足のままだと危ないので、断るのはなしですよ」
「……はい」
目の前でしゃがみ、背中を見せるルカの無言の「乗れ」の言葉にエヴァは渋々従う。森の中では我が儘を通したのだ、ここは従おうと思った。しかし、不本意と顔に書かれているのには、エヴァは気付かない。ルカもわざわざ口にしなかった。
ひそひそ話に少しの変化を与えながら、ルカの背中に背負われながらギルドに向かうエヴァ。目の前の無造作に結われた金髪が鼻先をくすぐる。男にしては、花のような香りが髪の毛からするような気がした。
「エヴァさん、とっても軽いですね。ちゃんと食べていたんでしょうか」
「え……どうなんでしょうか。なんか、わかんないです」
「お腹空いてませんか? もうお昼時ですし」
「う、うぅーん……軽く?」
エヴァの返しに、ルカはぷっと吹き出す。そのあとは肩を震わせ、笑いをこらえている。
「……何が面白いんですか、何が」
「あ、すみません。なんか面白くて」
「む……なんかバカにしてませんかね、ルカさん」
「あ、痛い。すみません、すみません。蹴らないでください、エヴァさん」
謝っているはずでも笑いをこらえきれていないルカの様子に、エヴァは不貞腐れる。何が面白かったのかわからない。そのことが伝わってきたのか、ルカは少しだけ優しい眼をした。
ギルドの前にたどり着く。そこにはルカとは違うが、表すなら橙が混ざった金髪を持つ男女が出入口に立っていた。近寄ってくるルカに気付いたのか、ぱっと笑顔を浮かべたが、その背中にいるエヴァの存在にすぐに気付いてギョッと目を剥く。
「ルカ!? なんだ、びしょ濡れではないか。それに、その背中のおなごはなんだ!?」
「レオ、帰ってたんですか。ちょっと拾ってきました」
「拾ってきたって……ルカ、誘拐はダメだぞ?」
「レア、誘拐なんてしてません。れっきとした保護ですよ、保護。いいから開けてくださいよ、両手塞がっているんですから」
不服そうに口を尖らせるルカに、レオと呼ばれた体格のいい男は慌てて木製の扉を開ける。レアと呼ばれたレオとは違い小柄な女はその間もエヴァをじっと凝視している。なんだか観察しているような眼つきだ、とエヴァは感じる。
ルカがそのまま扉をくぐると、外まで聞こえていたざわめきはすっと波が引くように静まった。どのモノ達も判を押したようにルカを見ている。
「やはりこうなるのかの」
「そりゃ、あのルカだぞ。そうなるだろう、兄上」
「あのルカって何ですか。それより、マスターはいますか。というよりいますよね。僕はあのマスターに呼ばれて戻ってきたんですから。いなきゃおかしいでしょう」
背中にいたエヴァは、そのときのルカの表情を見ることは叶わなかったが、周囲の反応が見なくてよかったという思いを沸かせる。
俊敏になったモノ達でごった返すギルドに足を踏み入れ、空いていた席にエヴァを下ろすと、ルカはそのまま待つようにエヴァに声を掛け誰かを呼びに行く。その入れ替わりに残りの空いていた席に腰を下ろしたのはレオとレアだった。レオからは奇異の眼差しを向けられ、レアからはまたあの探るような眼差しを向けられる。
不躾な視線に晒されながら、エヴァは顔を俯かせる。こういう視線も、ただただ怖かった。無意識に体が震えを取り戻していく。
「なんだ、こいつ。震えてるぞ、兄上。ルカが連れてきたけど、なんか怪しくないか。嗅いだことないにおいもするし……血のにおいもする」
「ふむ、確かにの。なぁ、あんた。名はなんというのだ」
声を掛けられ、ビクッと肩があがる。慌てて顔を向ければ、そのことに眉根を寄せるレオと目があい、また体が震える。
「あ、あの、エヴァ、です」
「エヴァ、か。良い名だ」
しみじみとうなずき、レオは二カッと歯を見せて豪快に笑う。
「のう、エヴァ。俺はレオという。隣にいるのは俺の妹のレアだ。一応双子なんだがの、なかなか見られんのだ」
「ふたご……」
「こう見えて、あたしらは19だから。子ども扱いすんなよ。まぁ、お前中等部に通うガキみてぇだし、分は弁えるか」
「……えと、」
なんて言おうか迷い、パクパクと口を動かしてやがて閉口する。中等部に通うと言われても、己の歳ですらわからないエヴァにとって分を弁えることもままならない。レアの高圧的な態度と鋭い眼つきに体は休まず震えるし、周囲のモノ達もじろじろと不躾に観察してくるためエヴァはすっかり萎縮してしまっていた。
「レア、エヴァになんて態度をとるんだ。もうガキじゃないのなら、レアこそ弁えるべきではないかの」
「……兄上まで味方につけるのかよ」
「レア」
「レオの言う通りですよ、レア。エヴァさんに酷い態度をとらないでください。エヴァさん、仲間がすみません。今踏まれた足と腕を診てもらいますね」
ヒトを連れて戻ってきたルカの厳しい言葉を向けられたレアはムッと顔をしかめ、より一層エヴァを睨むが、ルカの優しい笑みを向けられたエヴァはホッと息を漏らす。
「エヴァさん、この人はこのギルドのマスターです。あと、薬室の室長です」
「マスター兼薬室長のアベル=アライスだ。とりあえず、足から見るぞ」
「あ、の……エヴァです。お願いします」
レアの態度は気になるが、今は目の前にしゃがんだ男、アベルの言うとおりに踏まれた足を差し出す。
「あぁ、掠り傷だし大丈夫だな。カミーユ、あれ、水と痛み止め持ってきてくれ。あと、包帯も」
「あーい、わかったよん」
カミーユと呼ばれた朱の髪を持つ女が元気よく返事を返し、奥に消えていく。それを見届けるわけでもなくアベルは足から顔をあげ、エヴァと視線が合った。綺麗な藍色の瞳だが、不精髭が目立つ。くたびれたおっさんのような印象だ。
「じゃ、腕だしてくれ」
「え……嫌、です」
「ルカが言ってたけど、血が出てたんだろ。化膿したら危ないし、手当させて」
「……っ」
左腕を胸の前で庇いながら、ちらっとルカを見やるエヴァ。その視線は不安げに揺れていて、けれどルカが何かを言うより先に左腕をアベルに差し出す。
その華奢な肩は、僅かながらも震えていた。
「……こりゃひでぇな。自分で付けたのか」
気にしていなかったが処置としてルカが包帯を巻いてくれていたのだろう、赤が滲むそれを解かれ外気に晒された左腕には、やはり醜い傷跡が鎮座していた。それを見て、血の気が引く。アベルが言うように、これを自分で付けたのなら、どれほど追いつめられていたのだろうか。
「マスター」
その変化にいち早く気付いたルカの鋭い声に、反応したのはアベルだけではない。相席するレオとレアも、その声音に驚いたように目を丸くさせる。
「なんだよ、ルカ。俺はエヴァに聞いてんだけど」
「エヴァさんは答えられませんよ」
「……は?」
「何言ってんだよ、ルカ! こんな汚くなるほど付いてる傷について、なんで本人が答えられないんだ!」
レアの言葉に、心臓がギュッと締まる。ヒトから見ても、この腕の傷は醜く映るのだと痛感した。
アベルの手を振りほどき、パッと腕を引き寄せて傷を隠す。もうこれ以上見られまいと、咄嗟の行動だった。
怖い。自分が怖い。逃げたい。ヒトの、目が怖い。その思いが、首をもたげる。エヴァはギュッと目を閉じた。この観衆に晒される自分が、酷く惨めに感じた。それに加えて、イラッとした感情が沸いた。
「エヴァさんは、名前も何もわからないんですよ」
「はぁ!? 実際そいつ、エヴァって名乗ってんじゃんか! おい、てめえ、歳とか出身とか言ってみろよ!」
「レア、やめぬか。そんな大声をあげて、今のお前はお前が嫌うガキみたいだぞ」
「ちっ……気に食わねぇ。兄上もルカも、なんでそいつを庇うんだよ。何処の馬の骨かもわかんねぇ奴じゃねぇか」
苛立ちを隠しきれないレアの言葉は、いちいち心臓を貫いてくる。
「きったねぇ腕してる奴だぞ。しかも、裸足だし、見かけねぇ格好してるし……怪しいじゃん。どっかの貴族の奴隷が逃げてきたんじゃねぇのか」
グサグサと、容赦なく降りかかる言葉に耳を塞ぎたくなる。
保護を目的としてギルドにやってきたはずなのに、そのギルドに属する女から罵声を浴びせられる。
「レア、いい加減にしろ」
「だってマスターっ!! そいつ、何にも言わねぇじゃんか!!」
「それ以上はこのギルドの品位を落としかねぬぞ、レア」
「……っなんとか言えよ!!」
尚も声を荒げるレアに、レオが深く息を吐き出す。これ以上はマスターだけでなく、黙するルカまでキレかねない。双子の妹を鎮めようと口を開いたとき、その声は聞こえた。
「――ぎゃんぎゃん、ぎゃんぎゃん。五月蠅いわね、叫ぶしか能がないのかしら。耳が痛いから、いい加減黙ってくれるかな」
その声は、予想もしていなかった人物が発していた。
驚きからレアは言葉を詰まらせている。
「黙ってればさぁ、つけあがって何様? さっきから睨んでくるわ、躾が成ってないんだねぇ。あんたのご希望通り、自己紹介でもしようか。ね?」
ゆらりと立ち上がるその姿に、先ほどまで震えていた面影は何処にも無い。まるで別人にでもなったかのようだ。
「私はエヴァ、名付け親はルカさん。本当の名前も、歳も出身も、果てには湖で溺れる前は何をしていたのかすらわからない、そんな身元不明の女だよ」
「これで満足?」なんて、鼻を鳴らして笑う女に信じられないといった眼差しを向けるレア。それもそうだろう。それほどまでに、エヴァの変わりようは凄まじかった。
「エヴァ」
恐る恐るレオは妹を冷めた目で見やるエヴァの名を呼ぶ。エヴァはその眼差しのままレオをその瞳に映した。
「……すみません、なんか反射のように言い返してしまいました。私の態度に気を悪くさせたのは謝ります。ですが、ここまで言われるのはさすがに気に障ります。ここの成人はいくつですか?」
「国からは、18には成人とされるの」
「では、レアさんはもう成人されているのですね。大人になったのなら、私が気に食わないといった感情を全面に出した暴言なんてみっともないですよ。牽制していたのか、はたまた怪しい人物だという警戒心からの暴走だとしても不愉快です」
ふぅ、と溜息を吐くエヴァは、もうレオもレアもその瞳に映していなかった。静かに椅子に腰を落ち着けて、アベルの無言の処置をおとなしく受けている。
足にも腕にも白い包帯を巻かれ、具合を確かめるように触れたエヴァは視線をあげる。その視線は、いまだ固まったままのレアを捉えていた。
「レアさん」
「っあ、なんだよ」
「……初対面なのにもかかわらず、数々の暴言にあなたの人格を疑います。たとえ、この左腕が醜く気持ち悪いものだとしても、そこまで言われる筋合いはありません。謝罪されても、私は赦すことはできませんので、謝るだけ無駄ですから口先だけの謝罪はしないでくださいね」
エヴァの言葉に、ぐっと息を呑んだレア。くるっと背中を向け、そのままギルドの外へ駆け出してしまった。そのあとをすぐさま追うのは、双子の兄であるレオだった。
「あー……悪かったな、エヴァ。うちのギルド員、直情型が多いんだ」
「言い訳は結構です。それよりも、本題に入りましょう」
スパッと切られ、アベルは言葉を詰まらせる。何故か沈黙したままのルカの顔をちらっと見やるが、ルカの視線はエヴァに固定されたまま。ルカの言葉は諦め、ため息をつきたい衝動を抑えエヴァに視線を戻す。
「記憶喪失だったな。そういう奴はあまり見たことがないからなんとも言えんが、カミーユに記憶を覗かせてみる」
「……それで、思い出せるのですか」
「わからねぇ。ヒトによりけりだな」