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胸が痛い。そして、息が苦しい。酸素を求めて、彼女は口を開く。すると耳元で、ゴポッとくぐもった音が聞こえた。
おかしい。苦しくて宙に手を彷徨わせると、絡みつく何かで思うように体を動かせないことに気付く。
閉じていた目を開ける。そこは、蒼の世界だった。長い髪が揺蕩い、己が纏う衣服の裾がゆらゆらと揺れる。
蒼の世界を照らす光が遠のいていく。どうやら彼女はゆっくりと底へ落ちて行っているようだった。
ゴポッと、吐き出されたものは泡となって上へのぼっていく。それで、彼女は自分のいる場所が水の中だということに気付いた。
「(く、くるしい……っ!!)」
認識してしまえば、途端に目を見開いて首に手をやる。息ができない。
彼女は逆らう。底へ落ちて行く流れに逆らう。水を掻き、上へ這い上がっていく。光へ手を伸ばす。しかし、何故かどんどん底へ体が沈んでいく。まるで、這い上がることを拒んでいるかのようだ。
「(たすけて……っ)」
目が霞む。意識が遠のく。
伸ばした手が、腕が、何かに触れた。その瞬間だった。
勢いよく腕を引かれる。沈んで行っていた体が浮上する。
「ぷはぁ……っ!!」
飛沫をあげて、彼女は水の中から這い出た。肺に急に空気が入ってきたためだろう、ゴホゴホッと彼女は噎せた。
「大丈夫ですか」
耳元でかけられたその問いかけで、彼女はようやく誰かに助けられたことに気付く。しかし、顔が濡れたままのせいか、はたまた噎せているせいかうまく目を開けることができず、そして溺れていたからか体にうまく力が入らない。誰かが脇の下から体を支えてくれているため、彼女はなんとか水の中に逆戻りしないで済んでいた。
「今、陸にあがりますから。もう少しの辛抱ですよ」
気遣うような優しい響きの声が、すぐ近くからかけられている。彼女は必死にうなずき、少しでも息を整えようとする。
思ったより陸から離れていなかったのか、そんなに時間がかからずに陸に引き揚げられた。
「げほげほっ」
「はぁ……はぁ……大丈夫ですか」
その問いに、また必死にうなずく。その様子にまだ話せる状態ではないと察したのか、それ以上助けてくれた者は何も言わなかった。
だんだんと呼吸も落ち着いてきた頃、やっと彼女は自分の置かれた状況に気を置くことができた。
びちゃびちゃに濡れている全身、ぴったりと張り付く服は下は黒のラフなズボン、上はグレーのパーカーと淡い水色のシャツ。チラチラと視界に入る赤茶は、どうやら髪の毛のようだ。
視界をずらすと、こちらの様子を窺う若い男がいた。全身をびっしょりと濡らしているため、この男がどうやら溺れる自分を助けてくれたのだと気付く。
「ありがとう、ございました」
そう声をかけると、男はホッと息を漏らし、ふんわりと笑みを浮かべる。人の良さそうな笑みに、彼女は引きつりつつも笑みを返しておく。
男は、整った容姿を持っていた。日の光に照らされて輝く腰まで伸びた金髪、涼やかな目元、翡翠を思わせる緑色の瞳、笑みをかたどるピンク色の唇は薄く、日焼けとは無縁そうな白磁の肌。彼の周りには革靴と暗い茶色の布、大きなバッグが散乱しており、よほど慌てて放り出したのだとわかる。
深く息を吸い、吐き出す。ぴったりと張り付く服が気持ち悪い。どうしようか、と悩みながら辺りを見渡すと、どうやらここは木々に囲まれた湖があるだけのようだ。温かな気候と草花が咲いているところを見ると、季節的には春なのだろう。
パーカーの袖を引っ張り、ギュッと握るとぼたぼたと水が滴る。かなり水を含んでしまっているようだ。こうなると一度脱いで絞ったほうが早そうだ。
「それにしても、驚きました。ここで休憩していると、いきなりあなたが現れて湖に落ちたんですから。転移の座標を間違えてしまわれたんですか?」
「……え」
聞きなれない単語に、女は首をかしげる。その様子に、男も首をかしげる。
女はそこで初めて、何故湖で溺れたのか思い出そうとした。そして、気付いてしまう。
「……何も、わからない」
自分のことが、わからない。ぽっかりと穴が開いたみたいに、何も思い出せなかった。自分の名前でさえも。
「(嘘、でしょ……!?)」
目を見開き、固まる。どう頑張っても、何も思い出せない。記憶の始まりは、湖の中で溺れているところからだ。
「どうかしましたか?」
男が心配そうにこちらを見ている。綺麗な緑色の瞳。こんな状況でなければ、きっと見惚れていただろう。
頭を抱える。湖で溺れる前、名前、顔、それらを順に思考を巡らせてみるけれど、何一つ思い出すことはなかった。ただ、一つだけ残っているモノ。それは、苦しくて悔しくて、そして情けなかった、あの胸が潰れるような後悔の気持ちのみ。
「何も……わからない」
「え? それって、記憶喪失ですか!?」
男は目を見開き驚く。驚きたいのは、女もだった。胸の膨らみなどから、体のラインは女性のもの。靴は履いておらず裸足で、チラチラと視界に入る髪の毛で百面相をしている男のように長いわけではないことが分かる。
湖に近寄る。波紋も無く、穏やかな水面は鏡のようになっていた。そこでようやく女は自分の顔を知る。
男のように整っているわけではないが、特別不細工というわけでもない。くりっとした二重の瞳、高くもなく低くもない鼻、たらこ唇というわけでもないが男のように薄いわけでもない唇、そんな特徴もなさそうな、だが少しだけ幼い顔をした自分の姿。
「(……これが、私?)」
なんだか信じられなかった。だが、水面に映る女は自分が笑えば笑う。疑いようもなく、これが己の顔なのだろう。
「あ、あの」
「え、と、なんですか……?」
男に声を掛けられ、おずおずと返事をする。顔を向ければ、声を掛けたはいいが何を言おうとしているのかわからない微妙な顔をしている男がいる。
女はおとなしく話すまで待つ。聞く体制をとられたため、男はもごもごと口を動かしたあと、意を決して言葉にした。
「僕と、一緒に来ませんか?」
それは、道中の誘いだった。
女は首をかしげた。どう意味だろう、その気持ちで。
その気持ちを読み取ったのか、男は「あっ」と声を漏らし、苦笑いを浮かべる。
「あの、記憶喪失ならわかりませんよね。ギルドに一緒に行きましょうって意味です。そこのマスターに身元を保護してもらいましょう。見たところ、手持ちはなさそうですし、宿に泊まることができないと思うので」
「……なるほど」
その申し出は、女にとって有り難かった。裸足で、びしょ濡れで、記憶すらない、空っぽになったこの身ひとつで放り出された世界でどうしたらいいのかわからない。そんな状況下では、この男の申し出はまたとない道しるべだった。
「僕は、ルカと申します。あなたは?」
彼はにこやかにそう問いかけてくる。温かな風が、濡れた髪をサラサラと揺らしていく。ズボンの水気を切りながら、女は申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい……それも、わからないの」
「ええと、なら、そうですね。エヴァ、はどうでしょうか。記憶が戻るまで」
髪をほどき、手でギュッギュッと水気を絞る彼は、少しの逡巡ののちそう言った。エヴァ、意味は分からなかったが、それでも綺麗な響きのする名前。
トクン、と心臓を鼓動する。なんだか、それだけで新しい自分になれた気がした。
「……私がエヴァって顔かしら」
「……うぅ」
少しの憎まれ口。それに萎縮する彼に、笑みがこぼれた。彼は優しい人、そして単純な人なのかもしれない。そんなことを思って、彼女は微笑む。
「……でも、ありがとうございます。嬉しいです」
お礼に、彼は飛び切りの笑顔をくれた。それだけで、冷え切っていた心が温まった。
過去はわからない。何もわからない。ここがどんなところなのかとか、自分が何者なのかもわからない。わからないことだらけの世界、空っぽの体だけ残された世界。
「(……ここなら、願いが叶う?)」
根拠もなく、彼女はふとそう思った。無意識だった。
首をかしげる。何故そう思ったのかわからない。本当にわからないことだらけ。気味が悪かった。
「……え」
パーカーを脱ぎ、晒された腕を見て固まる。目を疑った。
「な、に……これ」
左腕、その内側。そこには、無数の傷が刻まれていた。
息を呑む。幾重にも重なる傷は前腕部を占め、盛り上がり引きつっている。だが、大半は痕のようで血が流れている真新しいものは手首のものだけだ。真っ赤な鮮血。どろりと、醜い傷跡の上を滑っていく。
体が震える。冷えたからだろうか。
手を握ると痛みが走る。今まで気付かなかったのが嘘のように、ズキズキと痛みを訴える。血が流れる。止まらない。
ノイズ。ザザザ、とノイズが走る。
「エヴァさん、どうかしましたか……っ血が出てる!?」
「あ、なんで……」
「大丈夫です、今治癒しますから」
言われるがままにされるエヴァは、じっと手首の傷を凝視する。盛り上がる傷跡、その上に重なる痕のせいで醜い。不思議なことに、右腕には傷跡はない。まっさらで白い肌のままだ。
「……エヴァさん」
ルカの声が遠い。
この傷は、なんだろう。まるで、自分が、自分が――
頭にノイズが走る。ザザザ、と音がする。手首の痛みが、頭に移ったみたいに痛い。痛い。
「エヴァさん、大丈夫ですか。落ち着いて、深呼吸してみてください」
彼の言葉に、エヴァはうなずき、言われたとおりに深呼吸をしてみる。その間にも、離れない。この傷は、この傷をつけた張本人は、誰だろう。何を思って、こんな痕を残したのだろう。そんな、疑問が離れない。
胸を震わせるこの感情は何だろう。
不安になる。わからないことに、自分という存在がぐらぐらと揺らぐ。
「エヴァさん」
すぐ近くで、優しい声音で名前を呼ばれた。エヴァ、彼に付けてもらった今の名前。顔をあげる。そこには、優しい笑みを湛えてエヴァを覗き込むルカがいた。
「ひとまずギルドに向かいましょう。ここにいると風邪を引いてしまいます」
ルカの言葉に、エヴァは不安を呑み込んでうなずく他なかった。