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序章

 その日も戦場には雨が降っていた――。

 熱帯雨林によくあるバケツの底が抜けたようなスコールだ。

 広葉樹やシダの密生する常緑の景色が、今は立ちのぼる水煙によって白くかすんで見える。下着までずぶ濡れになりながら、それでも兵士たちは密林にじっと身をひそめいた。


 彼らが前線へ駆り出されてから、そろそろ一年が過ぎようとしていた。

 そのあいだに多くの仲間を失った。

 そして立ちはだかる敵の強大さを思い知った。

 戦況は思うようにならず、敵の猛攻にジリジリと森林地帯へ追いつめられた。その焦燥感は、今や彼らの心に瘴気のごとく暗い影を落としていた。みな祖国を思い、そこへ残してきた家族のことを想っている。憎き侵略者、ラゴス連邦の軍勢を打ち破り、故郷へ凱旋するのが彼らの願いであり、そしてこの歩兵中隊に与えられた使命でもあった。しかし拠点のほとんどを奪われ、多くの味方を失い、密林でのゲリラ戦でかろうじて抵抗している彼らにとって、それはもはや叶わぬ夢のように思われた……。


 ひとりの兵士が急ごしらえのトチカのなかで窮屈そうにひざを折っている。ぼんやり眺める視線のさきに、無数に折り目の入ったモノクロ写真があった。絹ビロードのドレスで着飾った妻と、そして今日三歳の誕生日を迎えたであろう娘が写っている。泥のこびりついた指で、その娘の顔を愛おしそうになぞる。

「祝ってやれなくて、ごめんな……」


 ラゴス軍が国境を越え攻め込んできたのは、およそ一年前。なんの宣戦布告もないまま、いきなり周辺国を侵しはじめた。職業軍人だった彼はすぐに基地から召集され、軍の主力として前線へ投入された。その時点では、だれも戦争がこんなに長引くとは考えていなかった。それゆえ彼も基地を発つときに電話で「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」と妻に告げただけだった。

 戦友が次々と目の前で死んでゆくなか、ちゃんと家族に別れの言葉をかけなかったことが今さらながらに悔やまれた。


 写真を入れた皮のパスケースを軍服の胸にしまい、反対側のポケットからタバコを取り出す。ぺしゃんこにつぶれたラッキーストライクだ。指を突っ込んで、くの字に折れ曲がった一本をつまみ出す。

「ちぇ、これで最後かよ……」

 念のためもう一度探ってみるが、やはり空だった。仕方なくひねりつぶした空き箱を弾薬ケースの陰へ放り投げる。


 敵に兵站線を遮断されてから、彼らは密林のなかで孤立していた。弾薬も食料も、そろそろ底をつく頃だろう。これが人生最後のタバコになるかもしれない。ていねいにしわを伸ばし、オイルライターで火をつけた。

「ふう、美味いな。これでスコッチウイスキーでもあれば最高なんだが」

 長いため息とともにけむりを吐き出した瞬間、大地を打つ雨だれに混じってかすかな足音が聞こえた。兵士はトチカのなかで素早く腹這いになると、機関銃のグリップに取り付いた。


「おうい、撃つんじゃねえぞ」

 銃眼の外から、のんきな声が聞こえた。仲間の兵士だった。彼は塹壕を伝って、ずぶ濡れのままトチカのなかへ転がり込んできた。コーヒー色に日焼けしたメキシカンだ。


「ひいっ、やだやだ。いつまでつづくのかねえ、この雨は……」

 愚痴をこぼしつつも、その表情はなぜか明るかった。トチカにただようけむりに鼻を利かせ、

「おっ、このにおいはラッキーストライクだな、ちょっと俺にも吸わせろ」

 返事も聞かず戦友の口からタバコをかすめ取った。

「あ、ばかっ、それは最後の……」

「ケチケチすんなって。もうすぐ武器やら食料がごっそり運ばれてくるんだから」

「なに、それはどういうことだ」


 答えをじらすように、メキシカンの男はタバコのけむりを吸い込んだ。肺の奥まで入れて幸せそうに目を細める。

「じつはペーシュダードの騎馬隊が、ムイムル川に架かる鉄橋へ夜襲をかけてな。みごと奪還しやがった。今やつらの輜重部隊がこっちへ支援物資を輸送している最中さ」

「そ、それは本当なのか。しかしそんなことが……。俺たちの中隊が半年近くぶっ通しで攻めつづけて、それでも落ちなかった橋だぞ」

「ふふふ、信じられねェよな。俺だって最初は冗談だと思ったさ。でもこれは事実なんだ。今朝うちの偵察隊が現地へ行って確認している。鉄橋にはラゴス軍のすがたはなく、かわりにペーシュダードの国旗がはためいてたって話だ」


 国境をへだてる大河に架けられた鉄橋は、同盟国であるペーシュダードと彼らとをつなぐゆいいつの補給路だった。その重要拠点を敵にうばわれたことにより、基地から遠く前線の地で戦う彼らの部隊は大打撃をこうむった。以来今日まで、その橋を奪い返すことこそが、彼らの最重要任務だったのだ。


「いったいだれなんだ、その騎馬隊を率いている将校は?」

「聞いた話じゃ、国王付きの近衛騎士から派遣されてきたらしいぞ。今、その輜重部隊と一緒にこっちへ向かっている」

「でもペーシュダードの近衛騎士って、たしか……」

 メキシカンの男は前歯の欠けた口でニッと笑った。

「そう、若い女さ。しかもとびっきりの美人ときていやがる。あちらの国王さんの趣味か知らねえが、うらやましいもんぜ。でも女だと思ってあなどるな。その将校、ラゴス兵からはピンクの悪魔と恐れられているちょー危ねェヤツなんだ」


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