第2幕 ①
「……あっ。起こしてしまいましたか」
目を覚ますと、優しい蝋燭の灯が室内を照らしていた。
「すいません」
「ミアネか……」
ルキシスは前髪をかきわけて、現状を確認した。
机の上に開いた書物と、筆記具。
どうやら、自分は勉強の最中にうたた寝してしまったらしい。
(……いけないな)
自省しつつ、今まで書き写していた書物に再び視線を戻した。
「いや、眠ってしまわなくて良かった。今夜中に調べたいことがあったからね」
「根を詰めていらっしゃいませんか? お疲れなのでは?」
そっと、ルキシスの手前に温かい飲み物が置かれた。ふと後ろを見ると、何よりも目映く、ミアネの金色の髪が輝いていた。
「昔、先生が教えて下さった栄養一杯のシト茶です。シトの実が滋養強壮に良いって聞いたので」
「僕は、シトの実は、妊婦の悪阻が酷いときに飲むと良いと教えなかったかい?」
「…………あれ? そうでしたっけ!?」
ルキシスは、溜息交じりに、杯の茶を一口含む。強烈に苦い。出来れば、水が飲みたかったが、師匠の意地として我慢した。
「君は、まだまだ修行が足りないようだね。無理しろとは言わないけれど、何か得意な分野を作らないと、聖導士の弟子とは他人様に紹介出来なくなるよ」
「はい……」
消沈して首肯したミアネは、本当に落ち込んでいるようだった。
(まいったな……)
ミアネの目が赤い。それに、いつもの覇気がなかった。
異例の昇進で若くして聖導士になったルキシスには、理解できないことなのだが、ルキシスの弟子の間で、ミアネは苛めの対象になりつつあるらしい。
ミアネは導士として研鑽は積んでいるが、どうにも詰めが甘く、それが力不足だと弟子達に認識されているようだ。そんな未熟な弟子がルキシスの側にいるのが、弟子達には堪らないらしい。
ミアネは仲間の僻みと嫉妬を恐れて、ルキシスと距離を取り始めている。
他の弟子と共に、寮に入ると言ったのを、ルキシスは止めたばかりだった。
シオン王子が内密に知らせてきて確信に至ったのだが、ルキシスとて、以前から薄々は分かっていた。
弟子達の感情も。
ミアネの進むべき道も……。
彼女は、導士として生きるよりも、もっと他の道が似合っているかもしれない。
研究と、暗記漬けの変化のない生活を送るよりは、華やかな日向の道を、ゆっくりと歩いて行くほうが、ミアネの幸せなのかもしれないのだ。
(僕が……、潰しているんだ)
だけど、それを口に出して、ルキシスはミアネを手放したくなかった。
「まあ、君は僕の部屋の整理は得意かもしれないな」
「そう……ですか」
「僕が読み散らかした本を、うまく整理してくれる」
「あ、有難うございます!」
ミアネは、抱えていた盆を強く抱き締めた。
「シオン様も褒めて下さいました。お二人が褒めて下さるなんて、本当に有難いことです」
(シオン……ね)
急激に心が冷えていくのを、ルキシスは感じ取っていた。
「シオン様が仰っていました。この戦が終結したら先生とみんなで息抜きに海を見にいこうって。リスリムには湖しかないですが、アルバ王国には海があるんですってね。戦争に勝つことが出来たら、みんなで一緒に見に……」
「悪いけれど……」
ルキシスは、感情のまま勢いでぱたんと書物を閉じた。
「僕は、朝までにやらなければならないことがあるんだ。一人にしてくれないか?」
「……あ」
ミアネは、慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。つい……」
無言でいるルキシスを気遣わしげに見ながら、何度も頭を下げていく。
(必死だな……)
戦災孤児の少女を、ルキシスの父が憐れんで拾ってきたのが始まりだった。
ミアネは、ルキシスに嫌われたら他に行く所なんてないのだ。
だから、彼女はルキシスに優しいが、その感情は決して愛情ではない。
こんな無愛想で、肝心な時に護ってくれない男を好いてくれるはずがない。
(……いや。……違うんだ)
……そうじゃない。
ルキシスは、額を押さえて小さく頭を振った。
そんな女々しいことを考えている自分が嫌いだった。
シオンのように、広い心でミアネの言葉を受け止めたかった。
(こんな勘繰りや、計算めいたことまでして、僕は楽しいのか?)
分厚い書物を占める冷たい文字の羅列に、深い息をつく。
木製の杯からは、静かに湯気が上がっていた。
…………茶は、まずかった。
だけど、こんな時間までミアネは起きて、ルキシスのために茶を淹れてくれたのだ。
何故、その背中に「有難う」と、たった一言。
平凡で、些細な言葉を口にすることが出来ないのか。
ミアネが身の周りのことをやってくれるから、自分は仕事に没頭できるのだ。
愛情を量ったり、駆け引きなんてしないで、ただいつも、感謝しているのだと、ありのままに礼を言えば良いだけなのに。どうして、いざとなると、唇が動かないのか。口から出る言葉は、余計なものばかりだ。
(また明日。今度こそ、ちゃんと言おう)
……そう。
明日があると、ルキシスは思っていた。
明日が駄目なら、その翌日でも良いと、泰然と構えていた。
ルキシスにとって、時間は無限に続いているものだった。
まさか自分が戦争で死ぬとは思ってもいなかったし、生き残る自信もあった。
この時間は、永遠に続くものだと、無闇に信じきっていた。
彼女の中の時間も、自分と同じ速度で流れているのだと、軽信していた。
…………その時、すでに手遅れだったなんて、思いもしなかったのだ。