第1幕 ④
ルキの纏っている長い漆黒の外套は、陽光を吸収して重そうだった。
若干斜めになっている裾の部分は完全に地面についてしまっている。
まるで、大人用の外套を適当に破いて、無理やり身の丈に合わせたような格好だった。
……正直、むさくるしい。
しかし、これから自分はそのむさくるしさに耐えなければならないのだ。キーファは、何十回目となる独り言を呟いた。
「……どうして、こうなるんだ」
イグルに会えたのは良かった。……というより、幸運だったし、最高だった。
久々に、エネミアと子供達に会えたのも楽しかった。けれども、これは絶対、何か違う。
「…………最悪の展開だ」
がくりと肩を落とす。
擦れ違い様に、通行人の肩がぶつかって、豪快によろける。
いつものキーファだったら、威勢良く啖呵を切るところだが、今は力が出なかった。今のキーファにとって、街の喧騒は迷惑以外の何物でもない。
「何だ。まだ言ってるんだ」
ルキは、遅れているキーファを一瞥したが、キーファが追いつくのを確認するでもなく、すぐに歩き始めた。
(まったく、あいつ。……あんなすたすた歩いて、私の家なんか知らないだろう)
どうせ、知るはずもないのだから、このまま素知らぬふりで置いて逃げてしまおうか。
真剣にキーファが考えているのは事実だった。
――――結局、キーファがルキを預かる羽目になった。
ルキの能力を絶賛したイグルが「しばらく、預かってみてはどうか?」と勧めたのだ。
エネミアとしても、快方には向かっているとはいえ、数人の子供は相変わらず寝たきりだし、余剰な部屋もない。子供たちの容体が回復するまで……という条件つきで、キーファに懇願してきた。二人に頼まれてしまったら、キーファが断ることなんてできるはずがない。当面のことを話し合って孤児院を出て、すぐにイグルと別れてから、今に至る。
気乗りしないのは、子供を預かることではない。
魔物の子だと街で評判の子供と同居しなければならないことが億劫なのだ。
(必要な資金は支援してくれるっていうけれど……。でも)
「おい。魔物の子じゃないか?」
「警邏隊が連れていた子だろう。何で、城の鑑定士が預かっているんだ?」
道行く人の視線が痛い。魔物扱いされるというのは、こういう感じなのかと、キーファはひしひしと感じた。
キーファだって、「浄化」が奇跡の業だと、イグルを通して国王に認められなかったら、ルキと同じ目で見られていたに違いない。
「何しているの? 立ち止まると、更に噂が広まるよ」
涼しい顔で、ルキが答えた。
「……お前」
キーファだったら、こんなふうに衆目を浴びたら、我慢できない。
今まで苦労したんだろう。こうして、キーファと距離を取って歩いているのも、キーファを好奇の視線から遠ざけるため……かもしれない。
(いや、……まさか、あのふてぶてしい子供がそんな真似するはずがない……けど)
……でも、そういう繊細な問題を意識しているのだと、幼い子供に気取られてしまうキーファは、年上として最低ではないか。
(いずれにしても決まってしまったことをうだうだ言っても仕方ないっと!)
一気に少年に走り寄ったキーファは、彼の腕をぐいっと掴んだ。
「な、何!?」
「私の家に行くんだろう? ちゃんと案内してやる」
怪訝な顔をしているルキを引っ張る。
行きと違い、下り坂なので、キーファの足取りも軽かった。完全に下り坂を下りる前に、キーファが大通りから左に曲がると、大人しくルキもついて来た。
「……ここだ」
「ここが家なの?」
今にも壊れそうな小さな木造倉庫の前には、酒樽が無造作に並んでいる。
隣は、卸し専門の酒屋を営んでいた。
「酒屋の倉庫を借りているんだ。文句があるなら、入るなよ」
女の一人暮らしではあるが、扉の鍵なんて存在していない。
エネミアに知れたら、泣きながら叱られるだろうし、イグルにばれたら、別の家を用意されるに違いないだろうが、住めば都の愛しい我が家だ。
立てつけの悪い扉を一度押してから、引いて、左右に揺さぶってから、後ろに引く。
あっさり、扉は開いて、中から鼻につく酒の香りと、埃が舞った。
ルキが顔を顰めて、咳き込んだ。
「失礼な奴だな」
「不可抗力でしょ。……ねえ。君は城で働いているって言ってなかったっけ?」
「君ってな。考えてみたら、いや考えなくても、お前、年上相手に失礼じゃないか」
「「君」が失礼な言葉に当たるとは思わないな。ならば、僕のことを、お前と呼んでいる君はどうなの?」
「……ったく」
いちいち正論で、癇に障る。
「分かったよ。好きなように呼べばいいさ。ちなみにな。私は働いてはいるけど、安定した商売じゃないんだ。無駄遣いは極力避けるべきだと考えて、ここで生活をしている」
「物騒な女のひとり暮らしで、安全策を取ることが無駄遣いとは思えないんだけど……。いや、それは建前か」
遠回りに皮肉をぶつけてきたルキだったが、室内の奥まで足を踏み入れてから、すべての事情を察したらしい。感情のこもった溜息と共に一言した。
「つまり、安全対策をとるほど女性的な家でもない……と。君は掃除が苦手なんだ?」
倉庫自体は広い。
けれども、キーファの部屋は手狭だった。
酒樽が四方に積み重ねられていて、その奥にキーファは住むことを許可されていた。
一応、自分で拵えた布を左右に設けた紐に引っ掛けて、目張りを施してはいるが、使用している布は継ぎ接ぎだらけで、薄汚れていた。
更に、布の外には今朝脱ぎ散らかした部屋着がはみ出して落ちている。
一つの小さな小窓から差し込む光の中に、埃がきらきらと輝いて見えた。
…………随分と、荒れ果てた住居かもしれない。
強盗に入られたと警邏隊に嘘を申し出ても、きっと信じてもらえるだろう。
(だから、誰も呼びたくなかったのに……)
「仕方ないじゃないか。時間がなかったんだ」
「僕を招待したくなかった理由は、重々理解できたけれど、本当にこんな所に二人で寝起きできるの?」
「別に、私はお前がここにいられなくなっても、困らないんだけど」
キーファは、部屋着を拾い上げ、点々と落ちている書籍や食べ残しを拾って歩く。
唯一の家具でもある、酒屋の主人から譲り受けた不相応な大きな食卓と椅子を、衣服の山から発掘した。
「一応、お前も少しの間、居候になる身だろう」
「だったら?」
「少し、手伝ったらどうだ?」
ルキはうつむいてから、生活観が溢れ過ぎている部屋の惨状を見回して、壁に立てかけてあった箒を手に取った。
「いきなり、箒?」
この局面で、床を掃いたら、キーファの大切なものまでごみ扱いになってしまうだろう。
「掃除の基本は床掃除からって、昔聞いたことがある」
「掃除をしたことがない?」
「僕が掃除をしなかった理由は、君とは違う。僕の場合は周囲がやってくれたんだ」
「随分と良い家に育ったようだな。あの森に豪邸があるなんて話は聞いたこともないけど」
「君のこの散らかし方は、家庭環境がどうこうという問題を越えていると思うよ」
何だか、とんでもない弱みをこの少年に握られてしまったような気がする。
「こんなことじゃ、あのへらへらした男の心を掴むことは無理だと思うけど……」
「……ぐはっ!?」
キーファは、両手一杯持っていた服を宙にぶちまけた。
「何故、それを?」
「あれで、隠しているつもりなの?」
隠していたつもりだから、返す言葉がない。
「そう言われるのが嫌だから、お前をここに置くのは嫌だったんだよ!」
自覚はしている。キーファは、隠し事が下手な人間だ。
イグルの前だと声も上擦るし、顔は真っ赤になるし、何もかもがおかしくなるのだ。
「イグル様に、もしも……。万が一、私のことを告げ口したら、お前の命はないからな」
「安い脅し方だね。何処で習ったんだろう。気安く命は狙わないほうが良いよ。僕は恐怖で、あの優男に告げ口してしまうかもしれないじゃないか?」
「くー。腹立つ奴だな。子供は子供らしくしろと、父さんや母さんに躾られなかったのか!」
「…………覚えてない」
ルキの箒をキーファがずいっと奪ったので、ルキは渋々床に落ちている本と、服の仕分けを部屋の端で始めた。
「どうして、ああいう男が良いんだろうね……。僕には分からないけれど」
「お前にイグル様の良さを分かって貰おうなんて、思ってもいないよ。既に恋敵は多そうなんだから」
「大体、貴族様と庶民が会う機会なんて、そんなにないでしょう。何処で会ったの?」
「今日会ったばかりなのに、慣れ慣れしいやつだな」
指摘はするが、キーファはそんなに怒ってはいない。
先ほどまでの怒りはどこかに消え去り、過去のことを思い出して瞳が輝いた。
床の片付けは、キーファの気持ちが浮き足立ったせいで、かなり早くなった。
「…………単純」
そんなルキの小声が聞こえたような気もするが、気にしないふりをする。
「実はな……、私のことを救ってくれたのは、イグル様だったんだ」
「……へえ」
「丁度、私がお前くらいの年の時だったかな。その頃、私は父も母も病気で亡くしていて、叔父に引き取られたんだ。でも、この叔父がめちゃくちゃ人使いの悪いやつでさ」
キーファはとうとう作業を止めて、笑みを浮かべた。
「楽しそうに話す昔話でもなさそうだけど?」
「まあ、聞けって。たまたま、町に逗留されていたイグル様が私の境遇にひどく同情して下さってね。叔父を説き伏せて、都に連れて来てくれたんだ。そして、エネミア先生の孤児院に私を紹介してくれた」
「なるほど。絵に描いたような救世主だな。彼は……」
「……だろう?」
目尻が下がって仕方ないキーファは、ルキの言葉が皮肉だろうとお構いなしだった。
「イグル様は、私に仕事まで紹介してくれた。私にとっては、大、大恩人なんだよ」
「――仕事、ね」
ルキは手の動きを止めずに、呟いた。
「あのな。何か気にかかるんだよな。お前の、その突っかかるような態度」
「君が話に夢中になって、自分の家の掃除をさぼっていることに、怒りを覚えるのは当然の心理じゃないのか?」
「……あっ」
キーファは、床に落としてしまっていた服の山をまとめて拾いあげた。
「本当に、可愛くないな」
ルキに歩み寄って、服を畳み始めている彼の前にわざと落とした。当然、キーファは無粋な一言が返って来ることを予想していたのだが、今回ばかりは違ったらしい。
「……あの力を、仕事で使っているんだろう。もう何回使ったんだ?」
「はっ?」
「君がさっき披露した浄化の力だよ。一体、いつから、何回しているんだ?」
「さあ。いつだったかな。お前の年頃には結構ちょくちょくやってたし、母さんが生きていた頃から、内緒で使ってたりしたから、数は数えてもいないな」
「……そう」
ルキは聞くだけ聞いたら、興味がないとばかりに、黙然と作業に戻った。
「……何だよ」
つまらないとばかりにキーファは、自分が整理していた食卓の周辺に戻る。
昨夜、飲みかけていた葡萄酒の瓶が目についた。
……飲みたい。
(ちょっとだけなら、良いかな)
――だが。
「手、動かしてよ。僕、こんなことを朝までやるなんて耐えられないからね」
ルキは後ろを向いてしゃがんだ姿勢のままだったはずだ。キーファのことなど見える位置にもいない。
――この子供は、化け物かもしれない。
純粋に、キーファは震え上がった。