チャプター6:悪魔の囁き
――✝――
空が、闇に覆われつつあった。もうじきに夜がやってくる。
静かな山の中に建てられた病院。その屋上に車椅子に座った諸星ヒカリはいた。夏とはいえこの時間は少し肌寒い。彼女の肩には薄手のカーディガンがかけられていた。
約束の時間までおよそ三十分ほど。夕焼けと夜の境目、夜空が広がる直前。木星と金星が空に浮かび上がるはずだった。
「……お兄ちゃん」
独り、諸星ヒカリは呟く。答えるものはなく、時折吹く風が彼女の頬を撫でるだけ。
その時だった。ヒカリは隣に誰かが立つのを感じ取った。
「もうすぐ夜がくるね」
隣を見上げたヒカリは、そこに大切な人の姿を見た。
「お兄、ちゃん……?」
空を見ていた諸星聖也はゆっくりとヒカリに顔を向ける。その顔は見覚えのあるものだったが、彼が浮かべた笑顔は知らないものだった。
聖也はこんな笑顔を見せたことはない。どこか不気味な雰囲気を感じるような、こんな笑顔を見せたことはない。これは聖也の身体を使った他の誰かだ。
「……あなたが、悪魔とかいう?」
「よくわかったね。あのカガリとかいう男に聞いたのかな?」
「返して」
「ん? 何を?」
「私の、お兄ちゃんを返して!」
「ふむ」
聖也の身体を乗っ取る正体不明な輩は考えるような仕草を見せる。
「僕は君に兄という男と、君の病気を治すと契約を交わした。カガリに僕ら悪魔のことを聞いているのなら、これから僕が言おうとしていることがわかるはず」
「……約束を守るつもりはないん、でしょ?」
「うん、その通りだよ。第一、僕にそんな力はない」
でも、と悪魔は続ける。
「君の病気を治すことはしないしできないけれど、君の病気のことで苦しむこの男を救う方法はあるかもしれない」
自らの胸、いや聖也の胸を指で示し、悪魔はニヤリと笑う。
「知りたくはないかい?」
「……、」
「それをするかどうかは置いといて、方法だけでも知りたくはないかい?」
そんなもの聞くだけ無駄だとヒカリは思った。悪魔は嘘つきなのだと篝という男は言っていた。ならば聞く耳を持たないことが正解なのだ。
けれど。わかってはいるけれど。自分のために苦しむ聖也を救える方法があるなんて言われたら……。
聞きたいという欲望がヒカリを支配しそうになる。何度も否定した。何度も、何度も。
けれど。
「は、話だけなら」
欲望に勝つことはできなかった。
「じゃあ教えてあげよう」
不気味な笑顔を浮かべながら、悪魔は口を開く。
「彼は余命いくばくかの病気を持つ君を見るのが苦しいんだ。けれど僕に君の病気を治すことは不可能。ならどうするか。……答えは簡単だよ」
そう言って聖也の身体を操る悪魔はヒカリの瞳を覗き込んできた。
「君が彼の前から消えればいいんだ。つまり」
その声は優しいもので、けれどゾクリとする邪悪さが込められている気がした。
「君が死ねばいいんだ」
「え……」
「君が死ねば、彼はもう病気の君を見なくて済む。そうだよね?」
「そ、それは」
「どうせ君は放っておいても近いうちに死んでしまう。だったら今すぐ死んでもいいだろ?」
「私が死ねば、お兄ちゃんは苦しまなくなる……?」
「そうだよ。どうする?」
悪魔の言葉に、ヒカリの心は囚われた。どうしようもなく心が曇っていくのを感じ、しかしそれを止めることが彼女にはできない。心の何処かでは悪魔の言葉を真に受けるなと思っているのに、もしかしたら正しいのかもしれないという思いがどんどん大きくなっていく。拒絶の思いが薄れていく。
「わ、私は」
「なんなら、僕が君を殺してあげようか?」
突如、悪魔の手に氷のような素材でできたナイフが現れる。
「さあ、どうする? 死ぬか、死なないか!」
愉しそうなに声を張り上げ、悪魔はそのナイフをヒカリの喉に突き付ける。ゆっくりと力が強くなっていき、やがて一筋の血が流れる。
自分が死ねば、聖也を苦しみから解放できる。それはきっといいことだ。悪魔の言うように自分は近いうちに死んでしまう。今すぐ死んで兄を解放するのか、最後の最後まで兄を苦しめるのか。
……。
…………。
答えは決まっている。
今すぐ死んで兄を解放する。
「わた、し……は」
今すぐに死ぬ。そう答えようとした時、脳裏に兄の笑顔が浮かんだ。そして十六年前、兄が言ってくれた言葉を……。瞬間、ヒカリは自分の頬を何かが流れていくのを感じた。涙の雫は彼女の手に落ちた。
「い、や……だ」
ポツリと、呟いていた。
「私は最後の最後までお兄ちゃんといたい!」
「……それが君の兄を苦しめることになっても?」
「一緒にいたい! これはきっと私のわがまま。身勝手な願い」
だけど。それでも。
「私はお兄ちゃんと過ごしたい。確かにお兄ちゃんを苦しめることになるのかもしれない。でも……。苦しくならないように、後悔しないように。笑顔でお別れできるようにっ。最後の瞬間まで最高の思い出を作りたい! 私のために……お兄ちゃんのためにっ!」
悪魔は静かにヒカリの瞳を見つめてきた。そこにさっきまでの不気味な笑顔はなく、真剣な顔があった。
……やがて。
「……ふっ……はははっ」
悪魔は笑い声を上げた。どこか嬉しそうに聞こえるのは気のせいか。氷のナイフを放り投げ、天を
仰いで笑い続ける悪魔。遠くで氷が砕ける音がした。
「いいね。いいよ、君。君の答えは僕好みだ」
悪魔はその場でしゃがみ、ヒカリと目線を合わせる。
「身勝手さを認められる、そんな強い心を持った人間は好きだよ」
顔は笑っていたが、その目は笑っていない。何を考えているのか、ヒカリにはわからなかった。やはりこの悪魔は不気味だ。彼女はそんな風に思った。
悪魔はゆっくりと立ち上がる。
「さて。そろそろこの彼を解放しようかな」
目的も終わったし、と続ける。
「それに……。たぶん追手も来るだろうし」
「本当に? 本当にお兄ちゃんを返してくれるの?」
「うん」
悪魔が頷いた瞬間、その身体、聖也の身体がその場に倒れた。そしてヒカリの前に全身真っ黒な何かが現れた。人間のようで、しかし違う形をした生き物。その顔にあたる部分には白い仮面を付けていて、どんな表情をしているのかわからない。
「ほら、ね」
「お兄ちゃん!」
ヒカリは車椅子からコンクリートの床に降り、飛びつくようにして聖也の元へ寄る。そのまま彼の身体を抱き起こす。見たところ怪我はなさそうだった。
「危害は加えてないよ」
ゆっくりと胸を上下させる聖也を見れば無事なのはわかった。苦しそうな顔などもしていない。だからたぶん、この異形の存在の言葉は本当なのだろう。
「……あなたが、悪魔の正体?」
「うん」
「……、」
「なんだい、じっと見つめて」
「あなたは本当に悪い存在なの?」
「……どうして?」
「なんとなく、絶対悪ではない気がして」
そう、なんとなくだ。きっと悪の部分はあるのだろう。けれど篝が言うような悪そのものではないような気がする。殺されずに済んだから、そう思えてしまっているのかもしれない。けれど、どこか悪ではないところもあるのではないか。ヒカリにはそう思えて仕方がなかった。
「……いいことを教えてあげよう。僕たち悪魔は嘘つきで、非道で、残酷な生き物なんだよ。君の言うようなことはない。今回だって君の兄というやつを騙したわけだし。……君を殺さなかったのだってただの気まぐれだ」
「本当に?」
「なんなら、今からでも殺してあげようか?」
そう言った悪魔の手に棒状の何かが現れる。その棒の先には鋭利な刃物のような物が付いている。先ほどのナイフのように氷でできているらしく、刃物と呼べるのか正確にはわからない。
……槍、だろうか。見たことはないがたぶんそうだろう。そうヒカリは判断する。
悪魔はその槍の穂先を下に向け、ヒカリを見下ろしてくる。しばらく見つめ合う。
しかしやがて悪魔は目線を外し、いきなり槍を前方の空へ投げた。空を切る音を頭上で聞いたヒカリは背後の空を振り返る。キラリと、一瞬何かが煌めいた。その一瞬、ピキンと音がした。
「おっと、弾かれたね」
よく弾けたなと漏らす悪魔。
「君とのお喋りもここまでみたいだ」
「え……」
「追手が来ちゃったからね」
悪魔がそう言って跳んで後退した瞬間、甲高い音が響き渡った。




