チャプター4:願い
ここらへんでお気づきの方もおられると思いますが、この章は展開早いです。仕様です。
――✝――
七月一日の今日。今から三時間ほどあと、午後八時半頃。この空の上に木星と金星が同時に浮かぶ。木星と金星のランデヴーと呼ばれる現象だ。
諸星ヒカリは兄である聖也と、その空を見る約束をしていた。十六年前と同じように。
そう、十六年前も木星と金星のランデヴーはあった。そしてヒカリと聖也はともにその空を見た。
当時八歳だったヒカリは兄の袖を握りこう尋ねた。
『ずっと仲の良いままでいられるかな』と。
兄は不安がるヒカリの手を笑顔で握ってくれた。当たり前だ、と言ってくれた。その時に感じた兄の手の温もりを、彼女は今でも確かに憶えている。暖かくて、優しい感触だった。
あの時と同じように、もう一度兄と並んで双子星を見る。木星と金星のランデブーがまた見られると知った時からの、ヒカリにとって最も大切な願いだった。
その願いが今、壊されようとしている。それどころか兄である聖也が誰かに害をなすことになるかもしれない。悪魔という得体の知れない存在によって……。
そんなことは堪えられない。願いを壊されるのも兄の身体を使って人を傷付けるのも、絶対に許せない。自分に特殊な力があったのなら、その悪魔とやらをこの手で退治する。そう思うほどに、ヒカリは悪魔に怒りを覚えていた。けれど自分では何もできない。どうすれば兄を救えるのかわからない。だからこそ到底信じられないオカルトじみた話を信じ、祓魔というわけのわからないものに縋ったのだ。兄が元に戻るならと、藁にもすがる思いだった。
だからと言って安心することなんてできなくて、本当に兄は元に戻るのだろうかという不安が心を包む。けれどその度に兄の笑顔が浮かぶ。聖也はヒカリとの約束を破ったことはなかった。何があっても、どんな状況になろうとも……。だから今回も約束を守ってくれるはずだと、兄の笑顔がそう信じようと思わせてくれた。だからどんなに不安になろうとも信じる気持ちだけは捨てないと、そう決めた。
病室の窓から外を見ていたヒカリは、ノックの音に扉へと視線を向けた。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは看護師だった。夜勤担当だと挨拶した看護師は簡単なバイタルチェックを始める。
「あの」
血圧計をヒカリの腕に巻き始めた看護師に、ヒカリは声をかけた。
「はい」
「今夜、少しの間だけ屋上に行かせてもらえませんか? 兄と約束したんです。星を一緒に見ようって。今日を逃すと見られないものがあるんです」
「……そうですか。うん、婦長さんに掛け合ってみますね」
「ありがとうございます」
「いえ……。後悔するのだけはダメですからね」
そう言って看護師は笑ってくれた。
看護師が病室を去ったあと、ヒカリはもう一度空を見る。空は夕焼け色に変わりつつあった。
「……来てくれるよね、お兄ちゃん」
どこかにいる兄へ送るように、そして自分に言い聞かせるように。ヒカリは小さく呟いた。
屋上での天体観測の許可が出たのはそれからすぐのことだった。
――✝――
諸星聖也は暗闇の中にいた。なぜどうして自分はこんな場所にいるのか、聖也自身にはわからない。ただ気が付いたらそこにいた。けれど恐怖心はなかった。自分はここを知っている気がする。いつも身近に感じていた気がする。そんな強い既視感を抱いていたからだ。
不意に目の前で光が煌めいた。
眩しさに思わず目を閉じてしまう聖也。再び目を開けた聖也は目の前の光景に疑問符を浮かべる。
暗闇の中でスポットライトに照らされるように、一点だけ明るい場所が現れたのだ。聖也はそのスポットライトの中央に小さな人影が動いていることに気がついた。それは二人の子どもだった。
小学生くらいだろうか。幼い二人は聖也に背を向ける形でなにやらやっているようだ。
二人が向く先を見てみると、そこには砂場があった。公園でよく見る砂場だった。二人の子どもは砂でお城を作っているようで、スコップと手を使って砂の形を整えている。
と、突然ライトが消え、再び暗闇が訪れる。そして数秒のうちに、今度は聖也に真左の場所が照らされる。
そこにはまた二つの人影があった。ランドセルを背負った幼い男女だ。今度は二人の顔が見えた。
校門だろうか。その門の前に立った二人は仲良くピースをしながら、聖也の方へ笑顔を向けている。彼らの頭上には桜の花びらが舞っていた。
聖也はその二人のことをよく知っていた。
「あれは俺と、ヒカリ……?」
なぜ目の前に過去の自分たちがいるのか。これは夢なのだろうか。ならばこの空間も夢の一部……。聖也の頭の中に様々な疑問が浮かぶ。
そうしている間に再び暗闇に包まれ、そして今度は聖也の真右にスポットライトが当たる。そこには手を繋ぎながら上を見上げる男女が立っていた。その二人もまた、聖也とヒカリだった。二人が見つめる先には空に浮かぶ二つの小さな星が浮かんでいる。
「これは、あの時の」
聖也とヒカリがまだ八歳だった頃の記憶だった。天体観測が好きだった父親に連れられて、木星と金星のランデヴーを見に行った時の記憶。
再び暗転。今度はまた目の前にスポットライトが当たる。
中学の入学式の時の聖也とヒカリ。
再び暗転。今度のスポットライトの中には女子バスケットボール部のユニフォームを来たヒカリと、その横に立つ制服姿の聖也がいた。ヒカリは涙を流しながら座り込んでいる。中学最後の大会でヒカリのチームが予選敗退した時の記憶だ。あの時、自分はヒカリに何と言ったんだっけ。と聖也は思った。
再び暗転。次にスポットライトの中にあったのは高校入学前の記憶。ヒカリが聖也の足元で崩れ落ちている。事故で両親を亡くした時だ。
この時から聖也の進む道は変わった。高校入学を辞退して引き取ってくれた親戚と、そして妹であるヒカリのためにアルバイトに明け暮れた。ヒカリも高校へ行くのをやめると言ってきたが、聖也はヒカリを高校へ通わせ続けた。
再びの暗転後に現れたのは、ヒカリが聖也にネクタイを着けている様子だった。聖也がアルバイトの末に就職した時の記憶。就職祝いにと、ヒカリがネクタイをくれた。
再び暗転。そして現れたのは、ヒカリが大学に合格した時の記憶。大学へは行かないと言っていたヒカリを説得し、受験勉強をさせた介があったと喜んだものだ。
暗転。現れたのは病室のベッドに横になったヒカリの姿だった。
「……あ」
思わず声が漏れていた。
信じたくない事実だった。
信じられるわけがない。だってまだ二十四歳だ。死ぬにはまだ若すぎる。結婚だってまだで、もっと幸せになるべきで……。病気の宣告を受けてから、聖也の頭の中にはずっとそんな思いが渦巻いていた。逃れようのない事実が聖也を苦しめた。そしてそれは今も変わらない。
なぜ、どうして。自分であったならよかった。どうしてヒカリなんだ。そう聖也は運命を、神を恨んだ。
けれどそうしたところで何も変わることなんてなくて、その事実が更に聖也を追い詰める。
囁き声を聞いたのはそんな時だった。頭の中に直接響くように届いたその声は、彼の心に隙間を作るには十分すぎるほどの力を持っていた。
「彼女を救ってあげようか」
不意にその時と同じ言葉が聖也の耳に届いた。彼の背後から響いた声。
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは白い仮面を着けた全身真っ黒な何かだった。それは人型に近く、けれど人間にしては奇妙な形をしている。仮面には皆既日蝕の様子を描いたような紋様が張り付いていた。
「……その言葉。あの時の声はあんたのものか?」
「そうだ」
「あんたは……何だ?」
「悪魔、なんて言って信じてくれるかい?」
「あく、ま」
「そう悪魔」
悪魔と名乗った【それ】はゆっくりとした歩みで聖也へと近づいてくる。足音はなく、それがまた不気味さを際立たせていた。
「……あんたが俺をこんなところに連れてきたのか?」
「まあそう言えるかもしれない。でも、こんなところと言うのはよくないと思うよ?」
「どういうことだ」
「君はここで目覚めた時、ここをどこだか知っている気がすると思わなかった?」
「……、」
その通りだった。いつも身近に感じていた気がするのは確かだ。それこそいつも着けていた腕時計のように近い存在と感じられる場所。
「どうしてだと思う? どうしてここを知っている気がしたのか。いや、違う。気がするんじゃなくて、君はここをよく知っている。なにせここは、君の心の中なのだから」
「心の中? まさか」
「そのまさかだよ。君は君自身の心の中にいる」
仮面が聖也の目の前に来る。その仮面の模様には吸い込まれる呪いでもかかっているがの如く、聖也の目を掴んで離さない。恐怖に似た別の感情に身体が支配される。
「そ、それが本当だとして……どうしてそんな場所に連れてきたんだ」
「それは、僕が君の身体に乗り移っているからだ。つまり君の身体の主導権は今僕が握っている。けれど君の魂、イシキというやつは身体に残っている。追い出すことは残念ながら僕にはできない。だから代わりに君のイシキを君自身の心の奥に追いやったってわけだ」
「どうしてそんなことを。まさかヒカリを、妹を助けてくれるために、か?」
聖也の質問に、悪魔は何も言わずにその場から一歩後へ下がる。そして暫くの間仮面が聖也の顔へと向けられ続けた。
「確かに僕は君の妹を救おうかと声をかけた」
そうしてから悪魔は言った。
「じゃ、じゃあ!」
聖也は思わず身を乗り出す。
悪魔というからにはただでは叶えてはくれないのだろう。それはいくつもれの物語が教えてくれている。それを信じるのならきっと何かを差し出さなければならない。身体の一部か、それとも命か……。どちらにせよ差し出す覚悟はできていた。
「頼む! 俺の目玉でも腕でも命でもっ。なんでもくれてやるから!」
「……命でも、か」
悪魔は人間のように考える仕草を見せる。
その仮面の下には顔があるのか。あるとすればいったいどんな表情を浮かべているのだろうか。もしかしたらその表情も人間みたいなのかもしれない。
悪魔の人間臭い仕草にそんなことを思う聖也。
「君は本当にそれが最良だと思うのかい?」
「そんなの当たり前だ。あいつが生きてくれるのなら俺はどうなっても構わない」
「……ふむ。君は妹がいなくなって、一人で生きていくのが辛いと思っている」
「あ、ああ。そうだ」
「その辛さを妹に与えられるのかい?」
「え」
「だってそうなるだろ? 君の願いは妹のために見えて、結局は自分のためでしかない」
「そんなことはっ、ない……、」
最後は消え入るようになってしまった。それはどこかに否定できない自分がいたのか、それとも別の理由があるのか。聖也自身にもわからなかった。
「君は自分が辛い思いをしたくない、傷つきたくないと思っている。妹のことなんて考えていない」
「……、」
「君は妹のことが大切だったんじゃなかったのかい?」
「そんなわけ……、」
「ならもっと考えるべきだと思うけど。まあいいか」
悪魔はそれ以上、聖也に問いかけることはしてこなかった。
代わりに。
「どっちにしろ君の妹を救うことはできないし」
聖也にとってもっとも残酷だと思える言葉を放つ。
「今、なんて……」
「僕には君の妹を助けることはできない。アイニク、そんな力は持っていない」
「そ、そんなっ! 約束が違うじゃないか!」
「約束なんてしていない。僕はただ声をかけただけだよ。救えるとは一言も言っていない」
悪魔に顔があるのかはわからない。けれどきっとその表情は笑顔に違いない。他人を馬鹿にするような、凶悪な笑み。聖也は目の前の悪魔に対する憎悪が心を満たすことを止められなかった。
「こ、この……野郎!! 騙しやがったな!」
「君に悪魔がどんな生き物なのか教えてあげよう。悪魔は嘘つきで、非道で、残酷な生き物なんだ」
「人の気持ちをなんだと思ってるんだ!」
悪魔に掴みかかろうとする聖也。そんな彼の腕をするりと交わし、悪魔は今度こそ笑い声を零した。高笑いをするように上を向きながら、仮面の額にあたる部分を抑えて笑う。心なしが肩が震えているように見える。人を小馬鹿にしたような笑い声は聖也を更に激昂させる。
「それを君が言うのか」
「どういう意味だ!」
「どういう意味だろうね。少しは自分で考えてみたらどうだい?」
「テ、メェ。馬鹿にしやがって……ッ!」
何度も何度も悪魔に殴りかかる聖也だったが、悪魔は全てを避け続けた。笑い声を漏らしながら、愉しそうに。
「おっと」
不意に悪魔が言う。
「残念ながらもう時間のようだ」
「何ッ」
「君とのオアソビはここまで。僕はそろそろ退散させてもらう」
そう言うと、スッと悪魔の姿が掻き消える。
「ま、待ちやがれッ! どこ行きやがったッ!」
辺りを見回すが、悪魔の姿はどこにもなかった。




