チャプター10:ある日の日常
雨の音で、明日香は目覚めた。
ベッドの上で身体を起こし、側にあるカーテンを開けた。窓の外に灰色の曇り空が広がっていた。
「雨、か」
欠伸を一つ零し、彼女はベッドから立ち上がる。
真ん中で区切れるようになっている十二畳の部屋を通り、廊下へ続くカウンターキッチン横の扉を開ける。廊下に出てキッチンを通り過ぎてすぐのところにある木製の引き戸。そこを開け、洗面所に入る。脱衣場と一体になっているため少し狭い。
歯を磨き、顔を洗う。それが終わると、再び奥の部屋に戻る。クローゼットに手をかけたところで、明日香はふと動きを止める。
「学校、今日はやめようかな」
夏休みまであともう少し。明日からの球技大会が終わればすぐに終業式だ。それに先日、篝にも一足早く夏休みにすると言っている。
ならもう行かなくても良い気がする。そうだ、そうしよう。
そう決めようとした明日香だったが、思い直してクローゼットを開けた。学校に傘を忘れたことを思い出したからだ。
クローゼットから制服がかけられているハンガーを取り出す。その時ふとクローゼットの下にある三段箪笥に目を向ける。中に実家にいた時に着ていた着物が収納されている。とは言っても、全て持ってきたわけではない。実家を出る時に着ていた部屋着である浴衣だけだ。ここ一年、袖を通してはいない。
着る機会がない、というわけでない。ただ一年前のことを思い出してしまうから着ていないというだけ。彼女にとって一年前の出来事はあまり思い出したくないことなのだ。
過去の出来事が頭に過ぎりそうになり、それどころではないと慌てて首を振る。追想を断ち切るようにクローゼットを閉めた。
寝間着として着ていた甚平を脱ぎ、制服に着替える。そして洗面所で鏡を見ながら髪を後ろで縛る。朝食を軽く済ませ、明日香は家を出た。
マンションを出てしばらくした所にあるバス停へ、学生鞄を傘代わりにして走ってたどり着く。同じように制服姿の高校生たちが列を作っていた。
筆箱と財布、携帯しか入っていない鞄から携帯を取り出す。そして見落としているメールがないかを確認する。すると一件だけメールが来ていた。差出人は橘悟。明日香の師匠の弟からのメールだった。
『今日、学校来るか?』
こんなメールを送ってくるなんて、何かあったのだろうか。と、メールの内容に明日香は疑問を浮かべる。
悟は明日香と同じクラスで、また師匠に訓練をつけてもらっている仲間だ。仲は良いがこんなメールを送るようなことは滅多にない。
『行きますよ。でも、どうして?』
そう返事を送る。悟からの返事はすぐに来た。
『渡したい物がある』
『ラブレターですか?』
冗談を送ってみる。先ほどのようにすぐメールは来ず、バスがやってきて乗り込もうとした時にやっと返事が来た。
『バカ。姉貴からだ』
バスの席に座ってから返事を打つ。
『あ、なるほど』
『じゃあ、学校でな』
『了解です』
そう返事を送り、明日香は携帯を鞄にしまった。
数十分後。明日香は学校近くのバス停に着いた。早歩きで学校に向かい、校門をくぐって昇降口へ。胸ポケットからハンカチを出して軽く水を払う。靴を脱いでゴムスリッパに履き替えて教室へ。
教室に入ると、別段クラスメートに挨拶する必要もないのでそのまま席に座る。鞄を机の横に引っ掛けた後、隣の席で窓を見つめる少年の肩を軽く叩く。
「……明日香か」
少年は明日香の方を見ると、呟くように言った。彼こそが橘悟だ。
「おはようございます」
「おう」
「で、渡したい物ってなんです?」
「ちょっと待て」
そう言って悟は自分の鞄から封筒を取り出す。
「これだよ」
「手紙、ですか?」
「お前の兄貴からだと」
封筒の裏、差出人の名前を見る。確かに明日香の義理の兄、遠野目時雨からの物だった。
「本当は自分で渡したかったって言ってたけど。姉貴、急用でドイツに行かなきゃいけなくなって。代わりに渡しといてって言われたんだ」
「なんでまたドイツに?」
「さあ? ……姉貴は魔術界の有名人だからな。そこら中から引っ張りだこなんだよ」
「あー、なるほど」
明日香の師匠、 橘琴音は魔術の天才と言われている。それだけ魔術の才能がずば抜けている。それは明日香が教えを請おうと思った理由の一つだ。
なぜ明日香がそんな有名人とお近づきになれたのかといえば、たまたま篝と時雨が橘と同級生で仲が良かったからだ。
「ありがとうございます」
「いや……。ところで明日の球技大会、来るか?」
「ボク、何に出るんでしたっけ?」
「……お前な」
「えへへ」
「えへへじゃねえよ。サッカーだろ?」
「サッカー……ルールよくわかんないです」
「まあ、細かいルールもあるからな。でも球技大会だし、そこまで気にしなくていいと思うけど」
「うーん。やっぱり、出たほうがいいですかね?」
「お前、練習出てなかったろ? 補欠になってるし、絶対ではないけど」
「じゃあ、いいや」
正直に言ってしまうと、明日香はこの手の行事に興味はない。体育祭は休むと迷惑をかける可能性があったため参加した。しかし、基本的には参加しないのが明日香だった。
そもそも悟以外のクラスメートに仲の良い相手はいない。顔と名前すら知らない人間もいるくらいだ。結束力で頑張ろうと言われても、どうしたらいいのかわからない。
「……お前な。もう一学期も終わるのに、このままじゃ一生クラスに馴染めないぞ? クラスに友達いるか?」
「いますよ、悟くんが」
「俺しかいないだろ」
「ん? 悟くんがいれば十分ですよ?」
「……、」
「どうしました?」
「な、なんでもない」
びっくりすること言うな、とぼやく悟。何をそんなに驚く理由があるのか、よくわからない明日香はスルーすることにした。
「とにかく。なるべく来いよ」
「うーん、考えておきます」
「……まあいいや」
何か言いたげな悟だったが、諦めたらしくため息をついた。
四時限目が終わりクラスメートたちが昼食の準備をする中、明日香は学生鞄を手に教室から出ようとしていた。教室の扉の所で、トイレでも行っていたのかちょうど悟が入ってきた。
「鞄なんか持って、どこ行くんだよ」
「篝さんのところにでも行こうかと」
「……またサボるのか」
「早退です」
「絶対に行かないといけない用事があるのか? 担任には言ったのか?」
「いえ、全く」
「それを早退とは言わない」
「そうなんですね、勉強になりました。じゃあボクは帰りますね」
悟の横を通り抜けようとした明日香だったが、悟の手がそれを阻んだ。全くもって邪魔である。
「なんですか?」
「面倒臭そうに対応するのやめてくれるか?」
「……、」
「そうですけど何か? みたいな顔するのやめろ」
「え? 顔に出てました?」
「思ってたのかよ!」
「やだなー、冗談ですよー」
「棒読みな気がするが……まあいいや」
「で、なんですか?」
「え? ……あ、いや、その」
悟は言いにくそうに後ろ頭を掻く。
「お前、その。……あの人の所ばっか行くけど、好きなのか? その、異性として」
「え? そんなわけないですけど」
「え? 違うのか?」
「歳の差けっこうありますし。そもそも掃除できないし、料理もできないし、面倒臭そうな顔ばっかりするし。人間としていいところもありますけど、異性として好きになれる人じゃないです」
「そ、そうか」
何故か安心するような顔を擦る悟に、明日香は首を傾げる。何故安心するのか、そもそも何故篝が好きなのかと聞いてきたのか。彼女には見当もつかない。けれど、あえて聞くことはしないでおいた。
「まあいいや。明日はなるべく来いよ」
「なるべく、来ますね」
なるべく、という部分を強調しておく。つまり行く気はないというわけである。
「じゃあ、また」
今度こそ悟の横を通り、明日香は教室を後にした。
お読みくださりありがとうございます。
しばらく更新が滞っており申し訳ありませんでした。
今回から第一章の蛇足が始まりますがよろしくお願いします。