チャプター9:後日談
――✝――
諸星兄妹の一件から数日後、明日香は篝の事務所を訪れていた。
「おはようございます」
そう言って事務所の扉を開けると、篝は煙草を吸いながら椅子に座っていた。
狭い事務所。入ってすぐのところには来客用のソファと役員用のソファ、向かい合うその間にガラス製の応接テーブルが置いてある。そしてその奥、窓際には入口に向いた書斎デスクと回転椅子が置いてある。篝の席だ。
しかし今、篝は役員用ソファに座っていた。応接テーブルの上にある灰皿は吸い殻で埋まっていて、書斎デスクの灰皿もまた吸い殻でいっぱいだった。
明日香は小さな音で八十年代のパンク・ロックが流れる事務所内に足を踏み入れる。
「明日香……。お前、今日学校だろ? なんで来た」
「学校なんて知りません」
「出席日数足りんのか?」
「あ、そこは大丈夫です。ギリギリ足りるように計算してるんで」
「何が大丈夫なんだよ。というか、期末試験があるんじゃねえのか?」
「もう終わりましたよ。あとは夏休みを待つだけです。まあボクは今日から夏休みにしちゃいますけど」
「おい」
明日香は役員用ソファの後ろにある本棚に学生鞄をもたれさせ、応接テーブルと書斎デスクの灰皿を持つ。そのまま書斎デスク横の扉を開け、その部屋の中に入る。そこは給湯室になっている。給湯室で吸い殻をゴミ箱に捨て、流しで灰皿を洗う。それが終わると元の部屋へ戻り、灰皿を元に戻すと来客用ソファに腰を下ろした。ついでちょうど流れた曲を口ずさむ。
「お前、よく知ってるな」
「何がですか?」
「この曲だよ。八十年代の曲だぞ? 生まれてねえだろ」
「篝さんだって生まれた頃じゃないですか。……いつもここで聴くから覚えちゃったんですよ」
「いつも流れてるか?」
「はい。この曲覚えやすいですよね」
「まあな」
しばらく口ずさみながら曲を聴いていた明日香は、不意にあの悪魔のことを思い出した。諸星ヒカリの件で出会った悪魔。
「……篝さん」
「ん?」
「あの悪魔……諸星さんたちの時にいた悪魔なんですけど。今更考えてみると、なんでボクの名前知ってたんですかね」
「そういや、知ってるような口振りだったな」
「はい」
悪魔はあの時、『君があのアスカか』と言っていた。まるで誰かから聞いたような言い方だった。一体、誰が明日香の名前を教えたのか。
「気になる点はまだあるんです」
「何だ」
「あの悪魔、妙に人間臭いというか……」
人間のように会話を楽しむような様子。何故か説教の真似事でもするような口振り。何より人間臭い仕草。
「今まで考えても来なかったですけど、よくよく思い出してみると過去に出会った悪魔もそうだなって。あの悪魔みたいに会話を楽しむとか、説教臭いっていうのは流石にないですけど。……人間みたいな仕草をしていたような気がするんです」
篝は何も答えず、ただ煙草を吹かす。微かな煙が漂う。
やがて綺麗になった灰皿に吸い殻を押し付けた。
「……悪魔の生まれ変わり説って知ってるか?」
「え?」
「随分前に馬鹿げた話だって切り捨てられたんだが、そういう説があったんだ」
「……生まれ、変わり」
「日本の三大祓魔一族は知ってるだろ?」
「はい」
日本の三大祓魔一族とは遠野目一族、神狩一族、心洞一族のことだ。
「実はな、昔は四大祓魔一族って言われてたんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。霊界導一族って言ってな。大昔はけっこう有名だった。今じゃ廃れちまったがな」
篝はポケットのケースから煙草を一本取り出して口に咥え、ライターで火を着けた。
「とにかく、その一族の一人がお前と同じことを考えた。悪魔はなぜ妙に人間臭いのか。その末にこう結論付けた。悪魔は人間が生まれ変わった姿何じゃないかと。ただの人間ではなく、悪人だったやつの生まれ変わりかもしれないってな」
「悪人……」
「だがそんなものは霊界導の勝手な推論だ。それに悪魔と人間が同一のものだなんてお偉いさんは思いたくなかったんだろう。一笑に付したってやつだ」
「そうなんですか……。篝さんはどう思ってるんですか?」
「俺も違うと思ってる。人間のような仕草なんて、観察すれば身につけられるだろう。俺たち人間だって、赤ん坊の頃に周りの大人の仕草を観察するもんだろ? そうやって人間らしい仕草を覚えていくもんだ。つまり人間に紛れるために人間を観察し、その仕草を身につけた。そう思うのが普通だ」
篝が煙草の煙を吐き出す。明日香はその白けた煙を見つめつつ考える。悪魔の人間生まれ変わり説と篝の言い分について、どちらが自分にとってしっくりとくるか。
……だが残念なことに、いくら考えてもわかりそうになかった。どちらの可能性も、彼女にしてみればあり得るような気がしたからだ。
「ボクにはわからないです。どっちの可能性が高いのか、わからないです」
「どっちでもいいだろ。とにかくあいつらは悪。それでいい」
「そう、ですよね。でも考えちゃうんです。もしも人間の生まれ変わりだとしたら、今までやってきたことって……」
「それは違うぞ。たとえ元は人間だったとしても、今はもう違う生き物だ。それに本当にそうだとして、お前は悪魔を許せるのか? あいつらはお前に何をやった?」
「それは……許せないです」
「なら気にすんな。今まで通り悪魔を祓い続ければいい」
そうだ。悪魔の正体が何であっても、善になることは決してないのだ。悪魔はやはり悪でしかない。
明日香は素直に納得する。それが常識で、それが絶対なのだ、と。
「そういえば」
そう明日香は話題を変える。
「諸星さんたち、変わりはないんですかね」
「橘が言うにはあのあと悪魔が戻ってきた様子はないそうだ」
「そうですか。……よかったです」
稀にではあるが、消滅できなかった悪魔が同じ人間に乗り移る事例がある。ただ本当に少ない事例のため、気にする祓魔師およびエクソシストはあまりいない。明日香にしてみれば少しでも可能性があるのなら、しばらくの間は気にしておくべきだと思うのだが……。
なにはともあれ今のところそういう事にはなっていないようで、明日香は少しだけよかったと安心できた。
「ねえ、篝さん」
「ん?」
「……大切な人が死ぬって、どんな気持ちなんでしょうか」
「何だ、いきなり」
「いえ……。ただ、諸星さんたちの事情を知って、その……。ちょっと疑問に思って」
「……、」
「小さい頃、飼っていた子犬が死んでしまったんです。その子のこと、大切だと思っていました。両親がいなくて、義両親もあんなで、しかも当時は義兄ともいろいろありましたし。その時の私にとっては唯一心を許せる存在だと思っていました。でもその子が死んでしまった時、何も感じなかったんです。悲しいだとか、辛いだとか、寂しいとか。……何の感情もなかったんです」
ただ機械的に、淡々と供養の作業をしていた。庭に穴を掘って、その中に遺体を入れ、そして土を被せて埋める。流れ作業のように終わらせ、何事もなかったようにいつもの日常へ戻った。涙さえ、流れなかった。
生きているときはあんなに可愛がっていたのに、死んでしまったら何の感情も湧いてこない。自分は酷く冷たい人間なのかもしれない。そう思ったが、明日香にはどうしようもなかった。
「だからわからないんです。大切なものを失うって、普通はどう感じるんですか?」
「……そうだな。やっぱり、人によって違うんじゃねえか? 悲しいって思う人間もいるし、悔しいって思う人間もいるだろう。それこそ諸星聖也みたいに自分を責めちまう人間もいる。……お前のような人間もな。死んだら終わり。そう思っている人間はお前みたいになる場合もある。だがそれは必ずしも冷たい人間だとは限らない」
「冷たい人間じゃないなら何だって言うんですか?」
「生きるってことを大切に思っている人間、とかだ」
「どういうことですか?」
「さあな。生きてりゃそのうちわかるだろ。……人に聞くだけじゃダメなこともあるんだ」
「そう、ですよね」
「ああ」
けれど、と明日香は思う。
こんな自分にわかる日は果たして来るのだろうか。こんな薄汚れた自分に、わかるのだろうか。
過去を思い、静かに目を閉じた。