チャプター8:兄妹
――✝――
諸星聖也が目を開けると、最愛の妹の顔があった。
「ひか、り……?」
「あ、お兄ちゃん。目が覚めたんだね。よかった」
どうやら聖也はヒカリに膝枕をされていたらしく、後頭部に人肌の温もりを感じる。
「ここ、は?」
「病院の屋上だよ」
「え? なんで俺」
「なんでって、約束したでしょ?」
「約束?」
「そう。木星と金星のランデヴーを一緒に見るって、そう約束したよね」
そういえばそうだったと、聖也は思い出す
どうしてそんな大切な約束を忘れていたのだろう。
「ほら、見て」
起き上がり、ヒカリが指差す先を見る。夜空に二つの大きな星が浮かんでいた。
木星と金星のランデヴー。十六年ぶりのその現象はあの時と同じように、静かに二人を見下ろしていた。
「ねえ、憶えてる?」
隣のヒカリが静かに言った。
「十六年前に約束したこと」
「……、」
「ずっと仲の良い兄妹でいようって、そう約束したよね」
「……ああ、憶えてる」
「お父さんとお母さんが死んじゃった時、二人で精一杯生きていこうって約束したよね」
「……ああ」
「私が大学合格した時も、それぞれの夢を叶えようって……叶えようって約束したよね」
ヒカリが言葉の途中で涙を流したことを聖也は気がついていた。その顔を見られなかったのは。何の言葉もかけてあげられなかったのは、彼自身もまた静かに泣いていたから。
「ごめん、ね。約束、守れなくなっちゃって。……ごめんね」
「……なんでだよ。なんで謝るんだよ。お前は何も悪くないだろ!」
「でも、約束が……」
「そんなのどうだっていい! 俺は! 俺はお前に生きてほしい」
「それは」
「わかってる! お前にも、俺にもどうすることもできないって、わかってる。でも! ……こんなのってねえよ」
「……お兄ちゃん」
「お前が何をしたっていうんだ。なんでお前なんだよ……」
聖也は強く拳を握りしめる。
「こればっかりはどうしようもないよ」
ヒカリがポツリと言った。
思わず、聖也は彼女の顔を見る。
相変わらず声が震えていたけれど、彼女は聖也に微笑みを見せた。涙が流れた痕を顔に残しながら、それでも彼女は笑っていた。まるで、自分の死を受け入れているかのようだった。
「私だって死ぬは嫌だよ。だって、お兄ちゃんに恩返し、何もできてないから」
「そんなこと」
「私のためにいろいろしてくれたよね。自分のことは我慢して、私のことばっかり……」
「……違う」
「私がいなければ、お兄ちゃんだって本当はもっと幸せになれたかもしれない。好きなことしていられたのに。……わがままばっかり言って、ごめんね。……ありがとう」
「違う! ごめんだとか、ありがとうとか……そんなのどうでもいいんだよ!」
謝罪やお礼など、聖也はいらなかった。ヒカリはわがままなんて一度も言わなかった。いつだってごめんねと、ありがとうとしか言わなくて。……けれど、そんなものはいらなかった。聖也はただ、ただヒカリに――。
「俺はな、お前にわがままを言って欲しかったんだ。……お前がわがままを言った? 違うだろ。お前はわがままなんて一度も口にしなかった。いつも俺ばっかりに気を使って、自分のことは二の次で……。俺の方こそお前には好きなことをしていて欲しかった。幸せになって欲しかった……ッ!」
「……お兄ちゃん」
「兄貴ってのはな、妹のわがままに応えるもんなんだ!」
「……ありがとう」
再び、ヒカリの頬に涙が流れていた。嗚咽を漏らしながら、彼女は手で顔を覆って俯いてしまう。
「ありがとう……お兄ちゃん」
聖也は思わず妹に抱きつく。
「いいんだよ……お礼なんて、いらないってッ、そう言っただろ」
聖也の涙も後から後から溢れ出してきて、それを拭うことすらできなくて。
二人の嗚咽が屋上に響く。
「ねえ、お兄ちゃん。だったらさ、だったら。一つだけ、わがまま言ってもいい?」
「……ああ、あたりまえだ」
「あのね、私……お兄ちゃんと一緒にいたい」
「え」
「最期の最期まで、お兄ちゃんといたい。それでね、いっぱい……いっぱい思い出を作るの」
「……、」
「二人で笑って、二人で泣いて……そうやって最期までいたい」
「最期なんて……」
「このまま未来に絶望してたって、後悔しか残らないよ。そんなの……そんなの嫌だよ。ねえ、私のわがまま聞いてくれる?」
「……、」
聖也は頷きたかった。妹の願いを叶えてあげたかった。妹の初めてのわがままを、聞いてあげたかった。
けれど、答えてしまったら。口に出してしまったら、このままヒカリが消えてしまうような気がして。頷くことができなかった、答えてあげることができなかった。
「お願い、お兄ちゃん」
「俺は」
「お兄ちゃん。私の最期のわがままを聞いて、お願い」
「でも」
「お兄ちゃん」
このままではヒカリは後悔を残してしまう。いや、彼女だけだろうか。後悔を残してしまうのは、ヒカリだけなのだろうか。
聖也は自分の心に問いかける。自分はどうなんだ、と。
自分は後悔しないだろうか。このまま悲しみにばかり見を浸からせて、絶望に打ちひしがれて。ヒカリに最期の瞬間まで悲しい顔をさせるつもりなのか? それで自分は後悔しないだろうか。……いや、絶対に後悔する。そんなの決まっていた。
だから、聖也は勇気を振り絞る。弱い自分に負けないように、言葉を口にした。
「あ、ああ……わかった」
「……ありがとう」
「その代わり、最高の思い出を作ろうな」
「……うん、作ろう」
兄と妹は再び空を見上げる。そんな二人を、二つの星が見下ろしていた。




