表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

小学生篇3



外が暗くなり始める頃、仕事帰りの母に手を引かれ、舜は家に帰って行った。茜も、少し間を置いてから直樹の家を出た。


二人が帰っても直樹の姉はまだ帰らず、母はお玉を持った手を腰にあて、イライラと時計を見上げる。

夕飯は父親が帰ってから家族で、が日課になっているので、姉の帰りが遅いといつもより夕飯までの時間が長引く。


「遅くなるなら電話の一本くらい入れてよねー。まったく沙也加(さやか)は……」


もう少し待っていてと告げる母に、直樹は部屋を片付けてくるからと二階にあがった。

先ほどまで賑やかだった部屋に入り扉を閉めると、更に音がなくなる。誰もいないガランとした空間に、これからすることに少し罪悪感を覚える。

しかし、それ以上にワクワクしているのも本当だった。


姉の机の隣にあるクローゼットを開けると、いつも彼女が来ている洋服が下がっていた。

中に、お目当ての緑色のスカートを発見した。取り出して実際に合わせてみると、膝丈のスカートがふくらはぎを半分覆うくらいで、あとは問題がないように見える。


直樹は、ズボンの上から足を通した。

震える指先で腰まで持ち上げれば、下半身をすっぽりカバーする。

思っていたより遥かに可愛らしいスカートに、一瞬で心を奪われた。姿見に映るその姿は、ショートカットの女の子のようだ。


続いて白の半袖シャツを取り、Tシャツを脱いで袖を通す。ボタンをとめて、最後にズボンを取り去れば、完璧に近い女の子がそこにいた。

鏡に映っているのは本当に自分なのかと、手を開いて閉じたり、背中を見たりしてみる。同じように動く。


頬が紅潮して、胸が高鳴り、頭は茹で上がったようにもやもや。実際に茹でられたことはないが、サウナから出たあとのようにボーッとしている。

まだ半信半疑だが、指に触れる洋服の生地は本物で、しっかり感触を伝える。


鏡の自分と見つめ合い、くるりと回転したところで、バチッと静電気がおきた気がした。

直樹はおそるおそる扉を見る。


そこには驚きに開かれた沙也加の目。

中学制服のジャンパースカートを着て、扉の前であんぐり口をあけて直樹を視界にとらえていた。

二人の視線がかち合う。


「あんた、何して……」


彼女が帰ってきた気配を全く感じなかった自分に苛立ち、彼女の服を身に纏っていることに危機を感じた。

怒られるだけでは済まない。


一歩踏み出した沙也加の横を、直樹は全力で抜く。


後ろから追いかけてくる声を背に、玄関へと駆けた。

バタバタと派手に階段を降りていくのを聞きつけた母の、「どうしたのー?」と間延びした声。

答えられるはずもなく、目に付いたサンダルを引っ掛けて、直樹は外へ飛び出した。


向かう当てはなく、家から遠ざかろうとする気持ちだけで走った。運動靴とは違いサンダルは走りにくく、体力が余計に削られてしまう。

が、直樹には苦にならない程度だった。

プールに入らないペナルティの力が、こんなところで発揮されるとは思いもよらなかったが、出来うる限りの力を振り絞って、人気の少ない近場の公園へ逃げ込んだ。


荒い息を押さえ込んでブランコに座り、これからどうしたものかと考える。よりにもよって、姉に見られてしまうとは。

優しい姉だが、なよなよしい直樹をよく思っていない節がある。

「なよき」と呼ばれていたことも同時に思い出し、苦い顔になっていくのを頬を撫でて抑え、地面を忙しなく動くアリを眺めていた。


ワン、と鳴き声がした。

顔を上げると、そこには柴犬のように尻尾をくるりと丸めた雑種犬。この犬には見覚えがあった。

しかし、この場に居合わせたくない人物が記憶から引きずり出される。


西日が強く射す中、手で(ひさし)を作って更に顔を上に向けると、最悪な形での再会を果たした。


「あかね、ちゃん……」


「ナオ」


つい数十分前まで一緒に遊んでいた茜が、犬の散歩のために通りかかったのだとすぐにわかった。

直樹は身を硬くしたまま、腰が抜けたように動けない。


茜の表情は驚きのまま固まり、このまま彼女と友人でいることは叶わないのだと知れた。

茜は優しいので、この場では強く批判などしないだろうが、明日から仲良くすることを控えた方がいいだろうと直樹は俯く。


沈黙が痛く、何か言って欲しいが、傷つくようなことは言わないで欲しいなどと、自分勝手なことを思う。

そんな直樹の心境が通じたのか、茜は柔らかく声をかけた。


「似合ってる」


まさか、と直樹は顔を上げる。

茜は犬に引っ張られるようにして、笑顔で近づいてくる。

伸ばされた手は、ビクつく直樹の頭を優しく撫でた。


「やっぱり、可愛いよ。アタシの目に狂いはない」


「ち、違う……」


「なにが?」


「プールに入らないのとは違うんだ!茜ちゃんは嫌じゃないの!?男の子が女の子の格好してるんだよ?気持ち悪くないの?」


涙目になる直樹は、茜が触れて、いつも通りに話しかけてくれることが嬉しかった。

それと同じくらいに、恐怖でもあった。


だが、彼女は変わらない。普段のまま。


「気持ち悪くないよ、アタシだって女の子の服着ないし、水着のことも知ってる。でも、男が女の服着ちゃいけないなんて誰か言った?法律ある?」


「いや、あの……ない、と思うけど」


「だからいいの。……まあ、お姉さんに怒られると思うけど」


偉そうに演説していた茜の表情が曇る。

ご主人の気持ちの変動に気がついたのか、ワンと短い鳴き声。

その頭を撫でてやり、茜は直樹の隣のブランコに座った。鎖同士の擦れる音が小さくする。


「アタシは、ナオの本当のことが知れて凄く嬉しいよ。でもたぶん、お家の人はキツいこと言うと思う。アタシも、女の子らしくしなさいとか、ガサツすぎるってよく言われるし」


肩をすくめる彼女は、直樹を慰めようとしてくれている。ひしひしと気持ちが伝わり、彼女の一言がズンっとお腹に響く。


「でも、アタシと舜はナオの友達だから。ずっと友達だから、いつでも助けるよ。ほら、ゲンもいるし!」


名前を呼ばれたゲンは、尻尾を振って鼻先を舜の足に押し付ける。

濡れた鼻が冷たい。


涙をたたえた目の縁が、カッカと熱くなる。姉の服を濡らしてしまわないように、どうにか堪えるが、溢れ出る気持ちを抑えるのは至難の技だった。

喉をしめ、直樹は茜を真っ直ぐに捉える。


「ありがとう。友達って言ってくれて、ありがとう」


「何言ってんの、当たり前でしょ。そんなに簡単にヤメてやんないんだから」


ブランコから立ち上がり、「それじゃ」と歩き出す茜。いつもなら言葉にしないでも伝わることを、実際に口にしたことが恥ずかしかったのだろう。夕闇迫る中でもわかるくらいに耳が赤い。


足早に公園を出ようとする彼女の背中を、直樹は引き止める。

振り返る茜へ、目一杯の笑顔に自分の思いを乗せた。


「僕だって、嫌だって言っても、やめてあげないから!」


目を丸くした茜だったが、次第に笑みの形に口が弧を描いていく。

大きく手を振る彼女に負けないくらいに直樹も腕を振り、サンダルをペタペタいわせながら帰路に着いた。


自分のことに必死だった直樹の耳に、今まで届いてこなかったセミの声が大音量で聞こえる。

姉のスカートに、足に合わないサンダルを履いてのろのろと歩くが、玄関はすぐに彼を出迎える。

いつまでたっても心の準備ができるはずもなく、モゾモゾと足を動かしていると、いきなりドアが開いて母が顔を出した。


驚き、どこから見ていたのかと問う前に、手を捕まれて家の中に引き込まれた。


「どこ行ってたの!」


ドアが閉まってから怒鳴る母に、直樹は上目遣いで指先をすり合わせる。

母の細い眉がつり上がり、怒ることの少ない彼女の攻撃的な態度に、思わず視線をずらす。


なよなよと男らしくなく、姉の服を着て、しかも外に飛び出すような息子を持って、彼女はどんな気持ちだろうか。恥ずかしくて、怖くて、申し訳なくて、顔を上げられない。


玄関は静寂に包まれ、母は腕を組んだまま何も言おうとしない。直樹の言葉を待っているようだ。

目を泳がせつつも、シワになるのも構わず、スカートを握り込んで直樹は口をひらく。


「そこの、公園」


「何しに」


「お姉ちゃんから、逃げて」


「……何でお姉ちゃんから逃げたの?」


だんだんと普段の調子に戻ってくる母の声音に安堵し、再び緩くなっていく涙腺を引き締めて声を振り絞る。


「これ、お姉ちゃんの服だし。僕、男の子なのに、こんな、こんな……僕、ごめんなさい。ごめんなさいお母さん。もうしないから、ごめんなさい」


話せば話すだけ心が締め付けられ、頑張って涙を見せまいとするが無理な話で。

次から次へと熱いものがこみ上げ、最終的にはボロボロと大粒の涙を零しながら謝っていた。


何に対しての謝罪なのかわからないが、他の男の子と違う自分が、何かいけないもののように感じた。

母も、自分の子どもがこんな成長を遂げるとは思いもしなかっただろう。それが申し訳なく、胸が痛んだ。


何度も何度も謝る直樹を前に、母もくしゃりと顔を歪め、ギュッと小さな体を抱きしめた。


ドンと衝撃が走り、直樹はビックリして泣くのを忘れた。抱きしめられたことがわかると、母の背中に手を回して撫でる。

自分の息遣いが耳元で聞こえ、心臓の拍動を感じる。泣いた後で呼吸もバラバラで、息が苦しい。


喉を震わせる彼の耳元で、母の声が優しく囁く。


「謝らなくていいよ。お母さんはね、なーんにも言わないでナオが出て行ったのが心配だったの」


頭に手が乗せられ、茜とは比べものにならないくらいの抱擁力を感じた。


「プールに入りたくないのもそのせいね。水着が嫌なんでしょ」


言い当てられ、直樹の体が無意識に震える。


体を見られることが嫌で、女子と同じ水着にしてくれるよう、二年生時に思い切って担任に打ち明けた。

ところが、話を聞いた担任は頷くどころか、そんなことを言われたのは初めてだと一笑に付したのだ。

真剣に話した直樹は、自分でも気づかないうちに傷を負い、水泳の授業を拒否するようになる。


母にプールに入っていないことを知られた時は、理由をどう話したものかと悩んだが、別段問いただされることもなく今まできた。

なぜ何も聞かないのかと不思議に思いもしたが、まさか知られているとは……。


直樹は跡になった涙の筋を拭い、「ごめんなさい」ともう一度呟く。


「いいの。時が過ぎれば、考え方も変わってくるものだから。今はわからなくてもね」


ウインクして、母は直樹の背中を軽く押した。


「お姉ちゃんには部屋に行ってもらったから、着替えて、ゆっくりご飯食べな。お布団も下に敷いてあげるから。……明日、謝りなね」


ほら、と母が先頭に立ってリビングへ誘導してくれる。

直樹は、薄い笑みを浮かべてそのあとに続く。


怒られなかった反面、直樹は母の言葉に引っかかりを覚えていた。

これが、とはハッキリ言えないものの、彼女とは違う考えが自分の奥底に潜んでいる気がして仕方ない。

それを知るのは今ではないが、そう遠くもないだろう。


それまでは。


それまでは、このぬるま湯の中で大人しく浸っているのもいいだろうか。


電気の点いている明るい部屋に向かいながら、直樹は足に絡まるみどり色のスカートを手で払った。

茜と母の言葉を思い返しながら。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ