小学生篇3
外が暗くなり始める頃、仕事帰りの母に手を引かれ、舜は家に帰って行った。茜も、少し間を置いてから直樹の家を出た。
二人が帰っても直樹の姉はまだ帰らず、母はお玉を持った手を腰にあて、イライラと時計を見上げる。
夕飯は父親が帰ってから家族で、が日課になっているので、姉の帰りが遅いといつもより夕飯までの時間が長引く。
「遅くなるなら電話の一本くらい入れてよねー。まったく沙也加は……」
もう少し待っていてと告げる母に、直樹は部屋を片付けてくるからと二階にあがった。
先ほどまで賑やかだった部屋に入り扉を閉めると、更に音がなくなる。誰もいないガランとした空間に、これからすることに少し罪悪感を覚える。
しかし、それ以上にワクワクしているのも本当だった。
姉の机の隣にあるクローゼットを開けると、いつも彼女が来ている洋服が下がっていた。
中に、お目当ての緑色のスカートを発見した。取り出して実際に合わせてみると、膝丈のスカートがふくらはぎを半分覆うくらいで、あとは問題がないように見える。
直樹は、ズボンの上から足を通した。
震える指先で腰まで持ち上げれば、下半身をすっぽりカバーする。
思っていたより遥かに可愛らしいスカートに、一瞬で心を奪われた。姿見に映るその姿は、ショートカットの女の子のようだ。
続いて白の半袖シャツを取り、Tシャツを脱いで袖を通す。ボタンをとめて、最後にズボンを取り去れば、完璧に近い女の子がそこにいた。
鏡に映っているのは本当に自分なのかと、手を開いて閉じたり、背中を見たりしてみる。同じように動く。
頬が紅潮して、胸が高鳴り、頭は茹で上がったようにもやもや。実際に茹でられたことはないが、サウナから出たあとのようにボーッとしている。
まだ半信半疑だが、指に触れる洋服の生地は本物で、しっかり感触を伝える。
鏡の自分と見つめ合い、くるりと回転したところで、バチッと静電気がおきた気がした。
直樹はおそるおそる扉を見る。
そこには驚きに開かれた沙也加の目。
中学制服のジャンパースカートを着て、扉の前であんぐり口をあけて直樹を視界にとらえていた。
二人の視線がかち合う。
「あんた、何して……」
彼女が帰ってきた気配を全く感じなかった自分に苛立ち、彼女の服を身に纏っていることに危機を感じた。
怒られるだけでは済まない。
一歩踏み出した沙也加の横を、直樹は全力で抜く。
後ろから追いかけてくる声を背に、玄関へと駆けた。
バタバタと派手に階段を降りていくのを聞きつけた母の、「どうしたのー?」と間延びした声。
答えられるはずもなく、目に付いたサンダルを引っ掛けて、直樹は外へ飛び出した。
向かう当てはなく、家から遠ざかろうとする気持ちだけで走った。運動靴とは違いサンダルは走りにくく、体力が余計に削られてしまう。
が、直樹には苦にならない程度だった。
プールに入らないペナルティの力が、こんなところで発揮されるとは思いもよらなかったが、出来うる限りの力を振り絞って、人気の少ない近場の公園へ逃げ込んだ。
荒い息を押さえ込んでブランコに座り、これからどうしたものかと考える。よりにもよって、姉に見られてしまうとは。
優しい姉だが、なよなよしい直樹をよく思っていない節がある。
「なよき」と呼ばれていたことも同時に思い出し、苦い顔になっていくのを頬を撫でて抑え、地面を忙しなく動くアリを眺めていた。
ワン、と鳴き声がした。
顔を上げると、そこには柴犬のように尻尾をくるりと丸めた雑種犬。この犬には見覚えがあった。
しかし、この場に居合わせたくない人物が記憶から引きずり出される。
西日が強く射す中、手で庇を作って更に顔を上に向けると、最悪な形での再会を果たした。
「あかね、ちゃん……」
「ナオ」
つい数十分前まで一緒に遊んでいた茜が、犬の散歩のために通りかかったのだとすぐにわかった。
直樹は身を硬くしたまま、腰が抜けたように動けない。
茜の表情は驚きのまま固まり、このまま彼女と友人でいることは叶わないのだと知れた。
茜は優しいので、この場では強く批判などしないだろうが、明日から仲良くすることを控えた方がいいだろうと直樹は俯く。
沈黙が痛く、何か言って欲しいが、傷つくようなことは言わないで欲しいなどと、自分勝手なことを思う。
そんな直樹の心境が通じたのか、茜は柔らかく声をかけた。
「似合ってる」
まさか、と直樹は顔を上げる。
茜は犬に引っ張られるようにして、笑顔で近づいてくる。
伸ばされた手は、ビクつく直樹の頭を優しく撫でた。
「やっぱり、可愛いよ。アタシの目に狂いはない」
「ち、違う……」
「なにが?」
「プールに入らないのとは違うんだ!茜ちゃんは嫌じゃないの!?男の子が女の子の格好してるんだよ?気持ち悪くないの?」
涙目になる直樹は、茜が触れて、いつも通りに話しかけてくれることが嬉しかった。
それと同じくらいに、恐怖でもあった。
だが、彼女は変わらない。普段のまま。
「気持ち悪くないよ、アタシだって女の子の服着ないし、水着のことも知ってる。でも、男が女の服着ちゃいけないなんて誰か言った?法律ある?」
「いや、あの……ない、と思うけど」
「だからいいの。……まあ、お姉さんに怒られると思うけど」
偉そうに演説していた茜の表情が曇る。
ご主人の気持ちの変動に気がついたのか、ワンと短い鳴き声。
その頭を撫でてやり、茜は直樹の隣のブランコに座った。鎖同士の擦れる音が小さくする。
「アタシは、ナオの本当のことが知れて凄く嬉しいよ。でもたぶん、お家の人はキツいこと言うと思う。アタシも、女の子らしくしなさいとか、ガサツすぎるってよく言われるし」
肩をすくめる彼女は、直樹を慰めようとしてくれている。ひしひしと気持ちが伝わり、彼女の一言がズンっとお腹に響く。
「でも、アタシと舜はナオの友達だから。ずっと友達だから、いつでも助けるよ。ほら、ゲンもいるし!」
名前を呼ばれたゲンは、尻尾を振って鼻先を舜の足に押し付ける。
濡れた鼻が冷たい。
涙をたたえた目の縁が、カッカと熱くなる。姉の服を濡らしてしまわないように、どうにか堪えるが、溢れ出る気持ちを抑えるのは至難の技だった。
喉をしめ、直樹は茜を真っ直ぐに捉える。
「ありがとう。友達って言ってくれて、ありがとう」
「何言ってんの、当たり前でしょ。そんなに簡単にヤメてやんないんだから」
ブランコから立ち上がり、「それじゃ」と歩き出す茜。いつもなら言葉にしないでも伝わることを、実際に口にしたことが恥ずかしかったのだろう。夕闇迫る中でもわかるくらいに耳が赤い。
足早に公園を出ようとする彼女の背中を、直樹は引き止める。
振り返る茜へ、目一杯の笑顔に自分の思いを乗せた。
「僕だって、嫌だって言っても、やめてあげないから!」
目を丸くした茜だったが、次第に笑みの形に口が弧を描いていく。
大きく手を振る彼女に負けないくらいに直樹も腕を振り、サンダルをペタペタいわせながら帰路に着いた。
自分のことに必死だった直樹の耳に、今まで届いてこなかったセミの声が大音量で聞こえる。
姉のスカートに、足に合わないサンダルを履いてのろのろと歩くが、玄関はすぐに彼を出迎える。
いつまでたっても心の準備ができるはずもなく、モゾモゾと足を動かしていると、いきなりドアが開いて母が顔を出した。
驚き、どこから見ていたのかと問う前に、手を捕まれて家の中に引き込まれた。
「どこ行ってたの!」
ドアが閉まってから怒鳴る母に、直樹は上目遣いで指先をすり合わせる。
母の細い眉がつり上がり、怒ることの少ない彼女の攻撃的な態度に、思わず視線をずらす。
なよなよと男らしくなく、姉の服を着て、しかも外に飛び出すような息子を持って、彼女はどんな気持ちだろうか。恥ずかしくて、怖くて、申し訳なくて、顔を上げられない。
玄関は静寂に包まれ、母は腕を組んだまま何も言おうとしない。直樹の言葉を待っているようだ。
目を泳がせつつも、シワになるのも構わず、スカートを握り込んで直樹は口をひらく。
「そこの、公園」
「何しに」
「お姉ちゃんから、逃げて」
「……何でお姉ちゃんから逃げたの?」
だんだんと普段の調子に戻ってくる母の声音に安堵し、再び緩くなっていく涙腺を引き締めて声を振り絞る。
「これ、お姉ちゃんの服だし。僕、男の子なのに、こんな、こんな……僕、ごめんなさい。ごめんなさいお母さん。もうしないから、ごめんなさい」
話せば話すだけ心が締め付けられ、頑張って涙を見せまいとするが無理な話で。
次から次へと熱いものがこみ上げ、最終的にはボロボロと大粒の涙を零しながら謝っていた。
何に対しての謝罪なのかわからないが、他の男の子と違う自分が、何かいけないもののように感じた。
母も、自分の子どもがこんな成長を遂げるとは思いもしなかっただろう。それが申し訳なく、胸が痛んだ。
何度も何度も謝る直樹を前に、母もくしゃりと顔を歪め、ギュッと小さな体を抱きしめた。
ドンと衝撃が走り、直樹はビックリして泣くのを忘れた。抱きしめられたことがわかると、母の背中に手を回して撫でる。
自分の息遣いが耳元で聞こえ、心臓の拍動を感じる。泣いた後で呼吸もバラバラで、息が苦しい。
喉を震わせる彼の耳元で、母の声が優しく囁く。
「謝らなくていいよ。お母さんはね、なーんにも言わないでナオが出て行ったのが心配だったの」
頭に手が乗せられ、茜とは比べものにならないくらいの抱擁力を感じた。
「プールに入りたくないのもそのせいね。水着が嫌なんでしょ」
言い当てられ、直樹の体が無意識に震える。
体を見られることが嫌で、女子と同じ水着にしてくれるよう、二年生時に思い切って担任に打ち明けた。
ところが、話を聞いた担任は頷くどころか、そんなことを言われたのは初めてだと一笑に付したのだ。
真剣に話した直樹は、自分でも気づかないうちに傷を負い、水泳の授業を拒否するようになる。
母にプールに入っていないことを知られた時は、理由をどう話したものかと悩んだが、別段問いただされることもなく今まできた。
なぜ何も聞かないのかと不思議に思いもしたが、まさか知られているとは……。
直樹は跡になった涙の筋を拭い、「ごめんなさい」ともう一度呟く。
「いいの。時が過ぎれば、考え方も変わってくるものだから。今はわからなくてもね」
ウインクして、母は直樹の背中を軽く押した。
「お姉ちゃんには部屋に行ってもらったから、着替えて、ゆっくりご飯食べな。お布団も下に敷いてあげるから。……明日、謝りなね」
ほら、と母が先頭に立ってリビングへ誘導してくれる。
直樹は、薄い笑みを浮かべてそのあとに続く。
怒られなかった反面、直樹は母の言葉に引っかかりを覚えていた。
これが、とはハッキリ言えないものの、彼女とは違う考えが自分の奥底に潜んでいる気がして仕方ない。
それを知るのは今ではないが、そう遠くもないだろう。
それまでは。
それまでは、このぬるま湯の中で大人しく浸っているのもいいだろうか。
電気の点いている明るい部屋に向かいながら、直樹は足に絡まるみどり色のスカートを手で払った。
茜と母の言葉を思い返しながら。