小学生篇2
授業が終わると、クラブ活動のない曜日は、ランドセルを背負って一目散に校門を目指す男子たち。
お喋りをしながら、ゆっくりと帰り支度をする女子の間を風のようにすり抜け、掃除当番を逃れようとする。
直樹は、そんな光景を眺めつつ、自分のペースでランドセルに教科書を詰め込んだ。
今日は週の最後で、給食当番の彼はランチョンマットの他、白衣も一緒にランドセル横のフックに引っ掛ける。
片側が重くなったランドセルを背負い、舜の待つ廊下に出る。
彼の隣には、当たり前のように健二がいて、一緒に帰るのかと更に肩に重みが増した。
「お待たせ」
「おっせーよ!女みたいにトロトロしてんなよなー」
腕を組み、舜のお付きのように立つ健二に言われ、直樹は動きが止まる。
投げつけられた言葉を頭で反芻し、彼は何を知っているのだろうと、心臓が速くなるのがわかった。
何も言わず、表情すら変わらない直樹。それを面白く思わなかった健二が再び口を開こうとすると、隣から鉄拳が飛んだ。
鈍い音。プールの後のお巫山戯とは違う音に、健二だけでなく、直樹も驚いて舜を見た。
周囲が沈黙して注目する中、ただ舜だけは、握り込んだ拳もそのままに、健二を睨みつける。
一度だって見せたことのない険しい表情に、誰もが声をかけられない。
「お前、自分が言われたらどうするよ」
不意に聞こえた舜の低い声に、健二は頭を押さえたまま言葉にならず、口をモグモグさせるだけ。
直樹からの反撃は予想していたが、舜の怒る理由がわからず、目を白黒させている。
反応の鈍い健二に、ハッキリ言わなければわからないのかと、舜は畳み掛けた。
「言われたら嬉しいことと、嫌なことがあるだろ。今のはナオも、俺も嬉しくない」
「で、でも、舜はそうかもしれないけどさ、川瀬は何も言ってないじゃんか!」
健二のその一言で、舜の纏う空気が変化した。
拳を震わせ、殴りたい気持ちを押さえ込み、一歩詰め寄る。
「てめえ、目ぇ見えてんだろ!?ナオの、どこが楽しそうに見えるんだよ!言ってみろ!」
声を荒げたあとの廊下は、シンと静かだ。
まさか喧嘩になるとは考えもしなかった。
これ以上ヒートアップする前に止めなければと、直樹は二人の間に体を滑り込ませ壁になる。
「僕は大丈夫だから!きっと、大島くんも笑わせようとしてくれたんだよね?だから、ここで喧嘩はやめよう?」
静かな廊下にイヤに声が響く。
誰も何も言わないことに怯んだ直樹の腕を、舜が引っ張って歩かせた。
健二の顔が見えなくなって落ち着いたようだが、直樹を引き摺るように廊下を去る。
直樹は取り残される健二の様子を窺う。彼はその場を動くことはなく、頭に手をやったまま突っ立っていた。
ざわめく人ごみの中を足早に進むと、すぐに彼の姿は見えなくなってしまう。
バタバタと階段を降り、上履きを履き替えてから、やっと舜は直樹を向く。
「お前も言い返せよ。言われたままじゃ悔しいだろ」
まだ興奮気味な声を耳に、直樹はすのこに座って靴に踵を押し込む。
立ち上がるときに、白衣の重さにバランスを崩してふらつき、苦笑しながら答えた。
「いいよ。喧嘩になるの嫌だし」
「……そういうの、いい人じゃなくて、お人好しって言うんだぞ」
「舜こそ、仲悪くなっちゃうよ?」
「これで仲が悪くなるなら、俺はアイツと友達やめる」
ズンズンと大股で行ってしまう舜の後を追い、直樹もランドセルを揺らして走った。
帰宅路にある公園では、数人の生徒たちがランドセルを隅へ放って遊んでいた。
中には、背負ったまま追いかけっこに興じる者も。
そんな彼らを尻目に、二人は直樹の家へ向かう。学校から歩いて十分ほどの家では、きっと直樹の母がオヤツを用意して待っていてくれているに違いない。
健二と喧嘩別れしたことなど忘れたように、舜は今日のオヤツは何だろうかと話す。
家が近くなってきた十字路に、見覚えのある靴。上履き同様に、踵が履き潰されている。
舜がいち早く気がつき、声をかけた。
「神田ー!」
名前を呼ばれた茜が振り返る。ランドセルには、直樹と同じく白衣の入った大きな袋がぶら下がっていた。
彼女も見知った二人であることに気がつくと、口端をあげてプールバックを肩に回す。
「今からナオの家?一緒に行ってもいい?」
「僕はいいよ。茜ちゃんは、家に帰らなくてもいいの?」
「へーき、へーき」
パタパタと顔の前で手を振って、さも自宅へ向かうかのように先頭に立って直樹の家を目指した。
舜は彼女の後ろ姿を見つめ、そっと直樹に耳打ちする。
「こいつ、ガサツだから、家の中めちゃくちゃになるんじゃね?」
「何か言った?」
前を歩いていたはずの茜が、小さな舜の声を聞き咎め、にっこりと後ろを振り向く。
何でもありません、と敬礼して、舜は直樹の背中を押してバリアを張る。
家主が押されるような形で十字路を左に曲がり、すぐの一軒家の玄関を開けた。
「ただいまー」
すぐに後ろから「お邪魔しまーす」と二人の声が重なり、奥の部屋から直樹の母が現れた。
腰まである黒い髪をポニーテールにして、スリッパを鳴らしながら、直樹たちを出迎える。
「おかえり。あら、今日は茜ちゃんも一緒ね」
「お邪魔します」
靴を脱いで頭を下げた茜に、直樹母は笑顔で頷いて、あとでお菓子を持っていくことを伝え、リビングに消えていった。
直樹御一行は二階の子ども部屋に引き上げ、重いランドセルをおろした。
姉と共同の部屋は、ほとんどが女の子物で占められている。
右と左で空間分けはされているが、中央に控えるラグや小型のテーブルなんかは、淡いピンク色。
二つ上の姉は、帰る時間も遅くなってきているので、部屋にはいても問題ないと直樹は言う。
舜は慣れたものだが、久しぶりに部屋に上がった茜は「うわー……」と眉を寄せる。
男の子勝りな彼女からしたら、落ち着かないのだろう。
アイドルのポスターや、愛らしいぬいぐるみが置かれ、可愛らしくまとめられた部屋は完全に女の子だ。
高学年にもなれば男の子は嫌がるものだが、直樹はさほど気にならない。物心つく前からこれが当たり前で、慣れたと言った方が正しいか。
落ち着きを取り戻した茜は、舜に習って足を投げ出し、ラグの上に座った。
「いつも何してるの?舜のお母さん来るまでいるんでしょ?」
茜の質問に、頬のかさぶたを掻いて舜が答える。
「色々だよな。外に行ったり、下でゲームしたり、漫画読んだり……あ!人生ゲームあったよな?」
「うん、押入れにあるよ」
立ち上がり、直樹が押入れからボードを取り出そうとしたところで、母が入室してきた。
パウンドケーキと紅茶の乗ったおぼんをテーブルの上に置いて、「ゆっくりしていってね」とお決まりのセリフを残して出て行く。
ゲームはあとで出すことにして、今はオヤツが先だと舜に急かされ、直樹もテーブルを囲む。
オヤツは手作りであることが多く、今回のケーキもそうだった。
パウンドケーキはバニラ生地で、生クリームとチョコレートソースがたっぷりとかかっている。おまけに、小さく割った板チョコが皿の端に飾られていた。
甘いケーキと板チョコを、砂糖の少ない生クリームと苦味のあるチョコレートソースが中和してくれる。相性抜群の美味しさだ。
フォークで大きく切り取り、一気に口に頬張った舜は、何度も頷く。
「やっぱナオの母さんは天才。お菓子の天才」
「ちょっと、零してる!」
茜の指摘に、舜は服に落ちた食べカスを拾って口に運ぶ。
それから今日あったことの話になり、プールの話になり、いつの間にか舜と健二の言い合いの話にまで進展していた。
茜も頭にきたようで、乱暴にフォークを扱って口を尖らせる。
「アタシ、アイツあんまり好きじゃない」
「す、好きじゃないって……」
不穏なことを言い出した茜に、直樹はフォークを持っていた手を膝に落とす。
「だって、アタシにも男女とかいってくるし、やな奴。ナオの良さを知らないんだ。こんなに可愛いのに」
ね?と直樹を見る茜に、思わず赤面してしまう。
面と向かって可愛いと言われることがなくなってきたが、茜は変わらずに言い切ってくれる。
直樹は胸がくすぐられるのを感じ、もぞもぞと足を擦り合わせた。
半分ほど平らげたケーキを前に紅茶で一服して、舜も「確かに」と同意する。
「ナオ、綺麗な顔してるもんな。髪伸ばしたらわかんねえかも」
「……女の子と?」
「あ、気悪くしたなら謝るわ。ごめん」
「あ、ううん!大丈夫!」
紅茶のカップを置いて謝る舜に、直樹はケーキを切って平常を保つ。
茜に言われることは良くある上に、直樹のことを知ってくれているため、言ってしまえば安心安全なのだ。
しかし、同じ男子として舜が言ってくれる言葉は、また違うように感じられた。
喜んだのは茜の方で、同じ考えの人がいてくれたのかと、手を叩いて体を跳ねさせた。
「案外、お姉さんの服とか似合ったりしてね」
「神田は持ってないもんなー」
「たまーに、お母さんが買ってくるけどね。アタシ着ないのに」
肩を落とす茜に、舜が笑う。
しかし、今の直樹には何も聞こえていなかった。
姉の服を着る。
姉と一番近くして、なぜ今まで気がつかなかったのだろうかと思うほど、とても単純なことだった。
中学生になった姉の服装は、小学生の頃とは違い、幾分大人びてきている。
最近、姉が履いていたスカートを思い出す。
膝丈のスカートは淡いグリーンで、夏にピッタリ。白のワイシャツで合わせたら、さぞ可愛いだろうと妄想は進む。
トン、と肩を突かれたところでハッとした。
「ナオ、大丈夫?」
訝しげな茜の声に、取り繕うように弱々しく笑って
「ごめん。ケーキの作り方考えてたら、ぼーっとしちゃって」
「作ったらくれよ」
舜の言葉にどうにか肯定して、残りのケーキをかき込み、人生ゲームのボードを引っ張り出す。
妄想を払拭しようとするが、上手くいかない。
話しかけてくれる茜に、曖昧な返事しかできなかった。
「ナオも、お母さんに似て料理うまくなるかもね」
茜の声を、舜が繋ぐ。
「そしたら、食いにくるわ」
「……アンタは食べるだけだね」
ジトッとした目の茜から逃げ、舜はテーブルをどかしてボードを置けるスペースを作る。
わいわいと騒ぐ二人の声を聞きながら、直樹は姿見に映る自分を見た。
細い手足は力強くないが、自分の望む姿に近づける要素が詰まっている。
淡い期待を胸に姉のクローゼットへ視線を移すと、ゲーム開始の声が遠くから聞こえた。