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小学生篇



触れそうなほどに近くある入道雲に、吸い込まれるように笛の音が長く三回鳴った。

空を見上げていた川瀬直樹(かわせなおき)は視線を落として、プールから出てくる生徒たちの姿を見守る。


男子の見学は直樹一人で、女子の見学グループと共に誰の泳ぎが一番綺麗かと話していた。

熱中症にならないように日陰の下に潜り、足に撒かれた水が温くなるのを感じる。


「川瀬」


担任の佐藤(さとう)が直樹を呼んだ。

シャワー室に消えていく生徒たちから、佐藤に目を向けると、こっちに来いと手招きをしていた。

嫌だな、と思いつつも、仕方なく重い腰を上げて佐藤に近づく。


他のクラスの教師たちが片付けをしている中、佐藤は直樹の目線までしゃがみ、眉を寄せた。


「入る気にはなれないか?」


お馴染みになるセリフを、同じ時期に聞くようになったのは、小学校二年生からだ。今年で四年目を迎える。心の中ではうんざりしながら、直樹は苦笑いで頷いた。

肯定の意味の笑いは、佐藤の顔を曇らせる。


嫌な顔をしたいのはこちらの方だとは言えず、直樹はすぐに笑顔を引っ込めた。

佐藤はため息をついて立ち上がり、「そうか」と頭を叩く。


「先生は力になりたいってことだけ、覚えておいてくれよ」


「はい、ありがとうございます」


形だけの感謝にも気付かず、佐藤は笑って直樹の背中を押し、裏口へ向かわせた。

直樹はぺこりと頭を下げて、小走りに校庭へと続く階段を降りる。


二年生から、直樹はプールの授業をまともに受けていない。仮病を使ったり、体調が優れないと言って授業前に保健室に逃げ込んだりもした。

そんなことをしていれば母親に見つかるのも時間の問題で。

しかし、彼女は何も言わず直樹のしたいようにさせた。


その代償として、今はプールの授業中には校庭十周が課せられている。

プールの授業を受けるよりはその方が有難い、と直樹は思う。


校庭に出ると、てるてる坊主のようにタオルをスッポリと被った列が、教室へ向かっていた。

その中に、上履きをサンダルの如く履きつぶしている後ろ姿を見つけ、直樹は近づいて肩を叩く。


短い髪についた水滴を飛ばすように振り返ったとき、まず目につくのは、大きな瞳の下にある二つ並んだホクロ。

プール独特の塩素の匂いが、ほんのり香る。


(あかね)ちゃん、お疲れ様」


「ナオ!」


にっこり笑って、神田(かんだ)茜は直樹と歩幅を合わせ、隣へつく。


夏はまだ始まったばかりだが、彼女の体はこんがり焼けていて健康的だ。

背も高く、思春期にしては肌も綺麗。性格も明るく優しい彼女は、男子だけでなく女子からも人気が高い。


「ナオこそお疲れ様だよ。校庭なんて、よく走るね」


「僕は、そっちの方が気持ち的に楽だから」


「そっか」


頷き、茜はスラッとした腕に水中メガネを通してグルグル回す。


冷たい水が腕に当たる。

直樹は腕をこすり、そういえばと次の算数の授業で出た宿題に話を移した。

すると、みるみる茜の表情が苦いものに変化していき、教室の前についた頃には額に深いシワが刻まれていた。

忘れたのか、と直樹は悟る。


着替えてからの時間では絶望的だが、やらないよりは良いと直樹に別れを告げ、茜は二組の教室に素早く入っていった。

直樹も同じクラスだが、体育のあとは教室が更衣室に変化する。男子は一組で着替えをしているので、お互い待ちぼうけになる生徒は廊下にたむろするのだ。


きっちり閉じられた教室からはクーラーの漏れ出る冷気も感じられず、暑さが渦巻く中で直樹は一人、廊下の端で教室が空くのを待った。


次々と、てるてる坊主たちが室内へ入っていく中に混じって、黒いランドセルが階段を上ってくる。直樹の方へ向かってくるようだ。

もう授業は次で終わりだというのに、今さら登校してきたのかと、直樹は視線をランドセルに合わせる。

気が付いた相手は、片手をポケットに、片手を宙にあげて短い挨拶。


「よっ」


「よっ、じゃないよ。もうプール終わっちゃったよ?」


「まあ、そうだろうなとは思った。次は?」


「算数」


「うわ……だから佐藤の奴、絶対来いって言ったんだ」


舌を出し、げーっと首をふる。

苦い薬を飲んだあとのような表情で、直樹の隣に腰をおろした。


相沢舜(あいざわしゅん)の家は両親が共働きで、朝早くに親が出て行ってしまう。なので、たまに遅刻をする。

夕方には一緒の時間があるらしいが、起きたときには朝ごはんと手紙が彼を迎えるのだ。


寂しいのには変わりないが、両親の帰りが遅い時には直樹の家に泊まったり、彼と同じような境遇の子どもたちを集めた施設に行くこともあり、楽しく過ごしているようだ。


「電話きたんだ?」


「そうなんだよ」


直樹が尋ねると、舜は「佐藤め」とかさぶたになっている頬の傷をひっかき、悪態をつく。


「何時だと思ってるんだ!五時間目だけでも出ろ!だってさ。あいつも暇だよなー」


「暇なわけじゃないと思うけど」


笑い、直樹もその場に座り込んだ。視界が下がり、空気も涼しくなったように感じる。

同じ高さまで降りてきた直樹の横顔を眺めて、舜は距離を詰めて首を傾げた。


「今日もプール入らなかったんだな?」


近づいた顔と、核心をついた言葉にドキリとし、直樹は舜から顔を背けた。

教師陣より熱心ではないにしろ、舜も彼のことを心配している。そのことが、少し(つら)くもあった。


舜と直樹は小学校に上がる前から仲が良かったが、自分の気持ちを相手に知られてはいけないと思う力が強い。他とは違うことを勘付かれたくはなかった。

一度溝が入れば、たとえ長い友人関係であったとしても、あとは深くなっていくだけ。


そんなことで自分たちの友情が壊されてしまうものかと思うが、結局は怖くて言い出せずにいる。


「聞いてんのかよ」と脇腹をつつく舜に、「やめてよー」と笑って肩を押し返す。なんてことない、いつもの会話が楽しい。


その会話を引き裂くように、一組から大声が飛び出してきた。


「あー!舜、お前来るの遅えよ!」


水を吸って重くなったタオルや水着やらが入った、ビニール製のカバンを振り回し、大島健二(おおしまけんじ)が二人の間に突進してきた。

瞬く間に、直樹と舜の間がひらく。


カバンが当たらないように避けた舜は、健二の頭を軽く叩くが、叩かれた方は痛いと騒ぎながらも楽しそうだ。


舜のことを「かっこいい」とリスペクトする健二は、彼に憧れを抱いているように見えた。

遅刻をしてきたり、宿題を忘れたり、不良のように感じられる舜の行動が格好良く見えてしまう年なのだ。


実際の舜が、好きでそうしている訳ではないと知っている直樹は、少し不服に思う。

そんな直樹の言葉に、「俺と同じような家庭なんだよ」と舜は笑って言う。健二の家も共働きで、家に一人でいることが多いのだと。


舜は、自分とは違って一人で過ごすことの多い健二に同情を感じているようだが、どうも健二は違う。

同じような境遇で親近感もあるようだが、二人して仲が良いというよりも、一方的に健二が懐いているようだった。


しかし、舜も嫌がる素振りはなく、健二と遊ぶこともしばしばあった。が、直樹は彼のことが好きになれないでいた。

なぜ、と問われると困ってしまうのだが、何かが合わない。

同じように、健二も直樹のことを良く思っていないようである。

今も、直樹に話を振ることはない。


思い過ごしだろうと考えてはみるが、今一歩踏み込めないまま、直樹は隣で騒ぐ健二の声を聞いていた。


しばらくすると二組のドアが開き、着替えを終了した女子生徒たちが一斉に出てきた。

開かれたドアからは、甘い制汗剤の匂いが流れ出す。


女の子特有の香りを嗅ぎながら、直樹は二人の邪魔をしないように、そっとその場を離れ、教室に入っていった。

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