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中学一年生篇8

「うん、大丈夫。うん……お母さん、ごめんなさい」


消え入りそうな声で直樹は謝り、柔和な笑みを浮かべる隣の男性に携帯を返した。

男性、と言ってもいいものなのか判断は難しいが、ユリとマユの父親だというので男性なのだろう。

けれども、直樹の目に映るのは、七分のサマーセーターにピッタリとしたジーンズに身を包んだ女性。声も高め、髪は姉妹と同じく綺麗な黒髪で、直樹の母と会話するたびに動く。体の線も細くて背も高いので、モデルのようだ。


彼の整った顔に、この子どもありだなと思いながら横顔を眺めていると、「失礼します」と一礼して携帯を二つに折って閉じた。彼が使っているのは、一昔前のものだ。直樹の周りで持っている人は少ないので珍しく、じっと視線を注いでいると「コーヒーは飲めるかな?」と男性が席を立った。




姉妹に案内されたのは、彼女たちの家だった。小さなアパートの二階で、平日の昼間と言うことでお年寄りの姿が目立った。その中、ランドセルを背負う小さな女の子と、制服姿の男の子という組み合わせは異様で、いつ声をかけられてもおかしくはない状況だった。

が、誰もが三人を訝しげに一瞥するだけで、心配の声すらかける者はいない。

それが当たり前のように、姉妹は自宅の玄関の前に立つ。


表札には『鏑木(かぶらぎ)』とプレートが入っていた。

ユリが鍵を取り出そうと肩からランドセルを下ろし始めたとき、マユが手を伸ばしてチャイムを押した。ピンッポーンと、どもったような音のあとに返事が聞こえた。お仕事中なのよ!と妹を叱る姉だが、マユはケロッとしている。


じっと待つ直樹の目の前で扉が一気に開かれ、中から若目の女性が現れた。

姉妹の姿を見つけるとため息をついたが、後ろに立つ直樹に気がつくと、大きい目が驚いたようにいっそう大きく広がる。

何か言わなければと制服の裾を握りこみ、直樹は黒目を揺らしたが、それよりも早く「おかえり」と笑顔が出迎えた。




まずは家に電話をするようにと言われ連絡すると、学校には休むと言っておくからと伝えられ、迷惑をかけてばかりの自分を責めた。泣きそうに顔を歪める直樹に、鏑木は明るい声で言った。


「子どもは親に迷惑かけるものなんだから。直樹くんは子どもでしょう?もっと迷惑かけちゃいなよ、特権だよ?」


笑いながら凄いことを言う人だなと目を丸めると、リビングと一緒になっているキッチンでカルピスを作っていたユリが目を眇める。

道中で、雑な父親なの、と言っていたことがあながち間違いではなさそうで、直樹は可笑しくて声を潜めて笑った。

彼の笑顔が見えると鏑木も安心したようで、矛先がユリに向く。


「それで、あんたたちは何で帰ってきたの?学校に行くって出てったばかりでしょ」


「お兄ちゃん見つけて、お父さんと話してもらおうと思って」


「人をダシにして……。あーあ、賢い娘に育っちゃったなー」


「明日から行く」


「それ、行かない人の常套句だからね」


やいのやいのと賑やかな二人の会話に、先ほどまで暗かった直樹の気持ちが薄れていくようだった。全くなくなりはしないものの、自分だけでは近づけなかったものに手が届きそうな感覚を味わっていた。


ケトルがお湯を沸いたことを知らせ、鏑木が腰を上げる。ユリは二人分のカルピスを持って、扉一枚を隔てた隣の部屋でテレビを見ているマユのもとへ急いだ。

直樹のいるへやにもテレビはあるが、使われている気配はない。変わりに、今はパソコンの電源が入り、難しい単語が並んでいる。傍らには英語の本が開かれ、たくさんの付箋と単語。どうやら、翻訳をしていたようだ。


意味はわからないまま文字を追っていると、香ばしい匂いが近くを過ぎった。

テーブルに置かれたマグカップには、コーヒーの濃かった色が牛乳で柔らかくなり、さらには砂糖の甘い香りがほのかに感じられる。

お礼を言い、直樹はカップを口に運んだ。

鏑木も一口コーヒーを飲み、パソコンの前に座ると「さて」と手を叩く。


「お互いの名前と素性という大事なところはわかってるから、次はあなたのことを話してくれる?何であの子たちが連れてきたのか知りたいの」


どうかな?と首を傾げる鏑木に、直樹は戸惑い気味に頷く。


困った顔に気がついた鏑木は、まずはそちらから何かあればと視線で促す。

直樹は肩の力を抜き、視線を下に下げつつ不思議になっていたことを尋ねることにした。


「あの二人の、お父さん、なんですよね……?」


「あ、信じられない?よく言われるの綺麗ですねーって。男なんですよって言うと、信じられない顔するか、逃げていくかどっちかなの。お話するくらいいいじゃないよねー?」


「家族は、何て言ってますか」


笑っていた鏑木が、一瞬何も言えなくなる。

その気持ちは、直樹もよく知っているつもりだった。考えていることが同じとは限らないが。


「……わたしの家族は、あの彼女たちだけ。もしかして、直樹くんが話したいことって、わたしと同じこと?」


質問に素直に答えればあとは簡単で、女の子の服が好きなことから着始めたことまで、今日あったことも全て話した。話しているうちは苦しく、つらかったが、終わる頃になると胸が軽くなっていたことに気がついた。

鏑木はすっかり話を聞き終わると、腕を組んで直樹の顔を覗き込んだ。


「怖くて、嫌だね。みんなみたいに、好きな服を着て出かけたいし、見て欲しいし、お話したいよね。わたしもそうだったから、嫌だなって思っちゃうのわかる」


鏑木が身を乗り出すと、長い黒髪がパサリと落ちる。


「取り合えず、直樹くんはどうしたい?その、健二くんとやらのことも、これからのことも置いておいて、今は何がやりたい?」


綺麗な顔の唇が弧を描く。

どうしたいかと訊かれ、やりたいことは何だろうと考えてみる。

誰がなんと言おうと、可愛い服は着ていたい。そうしたら、茜とまた一緒に街中を歩きたい。周りの目を気にしないのであれば、学校にだって行きたい。けれど、どうしたって健二が邪魔をする。

あの場に人が少なかったとはいえ、噂は立ってしまうだろう。姉に知られてしまうことも怖いが、それ以上に舜にまで悪い印象を与えてしまうことが怖かった。


直樹は考え、たっぷりと時間をかけてから、お願いを口にした。


「たまに、またお邪魔してもいいですか?」


「もちろん!こんな汚い家でよければいつでもどうぞ。可愛い女の子たちの話し相手にもなってやって、姉妹以外で話す子が少ないの」


苦い笑みを零し、鏑木はテレビの前に並ぶ二つの小さい背中を見た。「わたしのせいなんだけどね」と言う声は若干震えていて、直樹はそれでなのかと気がついた。

この家に帰るまでに出会った大人たちの視線。奇異な視線を向けるだけで、誰も声をかけなかったことが今ごろ怖くなる。

彼女たちも、自分と同じような視線に晒されていたのだ。自分のせいでもないのに。


舜や茜は、彼女たち側になってしまうかもしれない。

そう思うと、胸がギュッと引き絞られる気がした。


好きな服を着て、好きに振舞いたいだけなのに。外界では、本当の自分を押し隠し、偽りの仮面を何重にもしていなければならない。

彼と娘たちの気の休まる場所は、この小さな部屋の中だけなのだ。不躾な視線も文句もない、分厚い殻も必要ない。直樹も、その中の一人となりつつあった。


「ありがとう、ございます」


「そんなそんな!頭なんて下げないで!?」


深く頭を下げた直樹に驚き、慌てて肩を掴んで頭を上げさせる。

対照的に、こちらを気にしていたユリが眉間にシワを寄せて


「お礼なんて、言わなくていいのに。お父さんも何も考えなく言ってるんだから」


「ちょっと!何も考えてないわけないでしょ!?夕飯のおかず減らすよ!」


「ネグレクトされてますって、相談所に電話するから」


「どーぞ。そんな健康に育って、なーにがネグレクトですか」


ふんと鼻を鳴らす鏑木に、ユリは呆れたように目をくるりとまわしてテレビ画面に向き直る。大人のような仕草を返す彼女だが、見ている番組は子ども番組。優しい声が空気の重さについて語る。


ブラックジョークの応酬に、直樹は唖然とする。少なくとも、彼の家では姉の沙也加くらいしか言うことがない。それを、小学生のユリが口にすると結構な迫力がある。

落ち着いていて、沙也加より年上と言われても姿を見なければ違和感が感じられないくらい。

娘の背中に歯を剥き出す鏑木のほうが子どものようだ。


見られていることに気がついた鏑木は、あら嫌だと口元を手で隠し、取り繕うように上品にコーヒーを口に運ぶ。ついでに、近くにあった、手のひらには大きい四角い缶を差し出す。

中にはたくさんのチョコレート。ミルクやビターのほか、抹茶やアーモンドの変り種も。どれにしようか指をさしてあれこれ悩んでいると、好きなだけ取りなさいよ、と声が降る。直樹は顔を輝かせて、一つずつ手に取った。

一つを口に放り込むと、あっという間に幸せな甘さが広がった。


部屋の中は、午前だというのに完全におやつの時間だ。普通なら学校に行っている時間だが、罪悪感の中にも楽しさを感じていた。年の違う彼らと一緒にいることが、とても楽しい。

もぐもぐ言いながら、鏑木は手の中でゴミを丸める。


「母親がいないぶん、ユリがお母さんになっちゃってるの。お陰でわたしは仕事に集中できるんだけどね。怖がらせちゃったならごめんなさい」


「いえ!楽しそうで羨ましいです!」


「あら、嬉しい」


くすりと笑う鏑木は可愛らしい。

直樹もつられて笑顔になる。


隣の部屋のテレビの音が消え、姉妹が入ってくる。チョコレートの缶があるのを見つけると、嬉しそうに手を伸ばし、片手で持てるだけ掴み出す。

時計を見上げると、針が十時をさす手前だった。

鏑木は「いけない!」と声をあげると、パソコンを振り返る。まだ数行しか書かれていない文字列と、外国語の書かれた本とを見比べる。どうやら進みが遅くなってしまったようだった。


突然に押しかけた自分のせいだと気がつき、直樹は「邪魔しちゃいましたか?」とおずおずと尋ねた。


「あー……大丈夫!あの子たちが帰ってきたとしても一緒だったから。お昼はちゃんと用意するから、それまで適当に遊んでてもらえる?直樹くんがよかったらだけど」


ね?とウインクする鏑木の視線の先、ユリとマユも嬉しそうに頷いた。

彼がそうして欲しいと言うのだから、それが一番迷惑にならないことなのだろう。無理に手伝うのはやめておいたほうがいい。


ゆっくり頷くと、頭に大きな手が乗せられ数度叩かれる。細切れな重さに心が跳ねた。


姉妹に連れられ、彼女たちの部屋に案内される。

パソコン前でひらりと手を振る鏑木に合わせて、直樹も小さく手を振り返した。

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