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#2

『…よぉ』


『あんた、だれだ? 村の者ではないみたいだけど』


『オレか? オレはなぁ…商売に来たんだ。おい、こんな村じゃ満足に旨いもんを食えないだろ

カネがあればみんな幸せになる。強盗どもから身を守れる武器だって買える…くだらねぇ絆や人の繋がりってモンより

力とカネが世の中を動かしているんだ。おい小僧、こっちに来い。アメリカみやげのチョコレートをやろう』


大男はそう言って銀紙に包まれたチョコレートの包み紙を差し出した。


『…あんたに施しは受けたくない』


甘い物を差し出せばなつく。そういった子供扱いが彼は嫌いだった。

それ以前に目の前の男から漏れ出す雰囲気が妙だった。動かなくても汗が出るほど暑いのにこの男の周りは冷気が漂っているように冷たい。

男の眼の鋭さが増した。これまで小奇麗な都会の服を纏った男が一瞬にしてアマゾンの川の奥に潜む大蛇になったように…

彼は感じた。男のプレッシャーを…しかし引き下がるわけにはいかず、負けずと睨み返す。


遠くから鳥の声が聞こえる。何秒、いや…何分間そうしていただろう?

先に目を放したのは男の方だった。根競べに負けたというよりもあえて花を持たせたというべきだろう。

男の顔にはまだまだ余裕が満ち足りていた。大して彼は顔中に汗を張り付かせ、微かだが足が震えている。


『くくっ…いい目をしている。男の子はそうでなくっちゃな』


ぬっと男の手が伸びた。振り払いそうになるが、それよりも早く手が彼の頭を掴もうとしているように思った。

しかし、グローブほどもある掌はぽんぽんと軽く頭を叩くだけで、それだけだった。それが酷く屈辱的なことをされたと思った。


『あんたは…』


『おっと失礼、失礼…君を男と見込んでこいつをやろう』


『これは…』


男から渡されたのは平べったい木の棒だった。そしてその真ん中には切り分けるように分割線が入っている。

渡された物が何であるか気付いた彼はそれを鞘から抜くと、銀色の刀身が太陽の光を浴びて眩く光り思わず目を背けてしまう。


『それでせいぜい大切なモノでも守ってみせるんだな、坊や。くく…』


大男が背を向ける。追いかけていって、今しがた受け取ったばかりのナイフで刺そうかと思ってしまう。

何故そうしようと考えたのかわからない。直感がそう告げたのかもしれない。

あの男は危険だと警鐘が脳内で鳴り響いていた。その行動に至らなかったのはルーナが彼の傍に駆け寄って声をかけてきたからだ。


『どうしたの…怖い顔して?』


『……』


心配そうに覗き込むルーナを無視して彼は押し黙った。赤道に近い太陽は燦然と輝き、村に強い日差しと恵みの光を振りまいている。

風が吹き通ってゆき、木々がざわざわと揺らめく。いつもの涼しさを運んでくれる心地よい風ではない、生温くねっとりした風だ。

悪い予感がした。これからきっと悪い事が起きるというそんな直感が胸の中で渦巻いていた。





目撃者の肉親を殺す。文字にしてしまえば簡単な事だった。


キルーマは寝息を立てているミホにゆっくりと近づいた。彼女はすやすやと寝息を立てている。

白い首筋に手を伸ばす。十代半ばの少女の首を折るなんて殺しの技術を持たずとも容易い事だ。

そのまま絞め殺してもいいがなるべく苦しまずに逝かせてやる方が、優しさではあるのだろう。

彼女と居ると、自分はおかしくなってしまう。だからそうするのであり、仕方のないことなのだ。

せめて…苦しまずに眠りの内に、兄の元へと送ってやるのも慈悲なのかもしれない。


「……んんっ」


しかし、無邪気な寝息と寝顔を見ているとそれも躊躇ってしまう。

事実、自分は一回を躊躇ってしまっている。だからこれ以上迷ってはいけないのだと頭の中で言い聞かせていたのだ。

だが、道具を介してさえ彼女を殺せなかった人間が、自らの手で引導を渡すなんて不可能な事だった。

なにより『彼女』に似た雰囲気のミホを…『彼女』を見殺しにしてしまった自分が殺せるわけも無いのだ。


(馬鹿な…)


甘い、とキルーマは自らを自嘲した。ミホを帰す手段など組織への背信行為に等しい。

そんな事をすれば、自分が消されてしまう。故郷を巻き込んだ地獄のような内戦で『彼女』の犠牲で生き延びた命が無駄になる。

しかし、こうまでして組織…あの男の犬に成り下がって生きている命に何の意義があるのだろうか?

ミホの存在という葛藤と躊躇いの中で、キルーマの中にあった『基準』は揺らぎ始めていた。






次の日、キルーマが机で銃器を分解。中のスプリングや弾倉を分解して掃除していた時だ。

そうしている事で、自分が機械の一部となり気を紛らわせることができるのだ。

仕事道具のメンテナンスは、任務の成功率と自らの生存率の向上に繋がる事であり基本であった。


「ねぇ、それ何ですか?」


いつの間にか油の臭いが染み込んだ部屋の中にミホが入り込んでいた。子供特有の好奇心なのだろう。

キルーマにとって彼女の存在は邪魔である、しかし無理に追い返す気も起きなかったので問いに答えることにした。


「…仕事道具だ」


短く答え、分解した銃を机の中に仕舞おうとするが、少女は興味深そうに黒光りする鉄製の部品を見つめていた。


「あまり見られたくないんですか…?」


少女の何気ない言葉がそれがまるで自分を責めているような気がして、キルーマはミホから眼を逸らした。


「ああ、俺の道具だからな。銃に興味があるのか?」


「…いいえ」


嘘だと、キルーマには判った。直感のようなものだ、子供が未知のものに興味を持つのはまんざら嘘ではないらしい。

咄嗟に嘘をついてしまったのは、叱られるとでも思ったのだろうかとキルーマは推測した。

あまりミホに心配はかけたくなかった。そして銃に触れて仕事に支障が出るような事も避けたかった。


「とにかくこれには触るな、怪我をしたく無ければな」


「……」


「後でまたパンを買ってくる。留守中は言いつけは守れよ」


不吉で危険な香りをキルーマから感じ取ったのか、ミホはじっと黙っていた。

それがキルーマの言い分を了承したと受け取って、彼は再び食料を買うために外出した。








キルーマが紙袋を抱えて帰宅し、玄関を開け部屋に入ろうとしたときだ。気配を感じ取ったのは。

物取りかと思ったが、違うようだ。外から進入した形跡はない、ならばいったい誰が?

その答えはすぐに判った。ドアを開けたすぐ前にミホが硝煙の煙が立ち上る銃口をこちらに向けており、それで大体の事は把握した

ミホの目には光がなかった。ただ何かに取り付かれ魅入られたように呆然と銃を握り、キルーマのほうを狙っている。


「ミ…」


彼女の名前を口にする前に銃声の衝撃に鼓膜を叩かれ、彼は反射的に首をそらした。

弾は左の壁にめり込んで穴を開けており、あと十数センチ右にずれていたらキルーマの脇腹に命中したであろう位置であった。

キルーマは素早い身のこなしで彼女の腕を押さえた。はっとしたようにミホの瞳に光が宿る。


「あ…!」


彼女は驚いた顔をして銃を取り落とした。比較的小さな口径であった事、それに偶然だろうが無茶な体勢で発砲しなかったことから、

少女の体には痛みが残るばかりで特に怪我などしていなかった事が幸いではあったのだろう。キルーマは言った。


「俺は机の中の物に触るなと言った筈だが?」


「ご、ごめんなさい…」


ビクッと小さな体を震わせた後、ミホは身を縮こませて謝った。大きめの瞳は潤んでいて涙を湛えている。

言い過ぎたか、とキルーマは反省した。好奇心で触ったのだろうか?鍵をかけていなかった自分にも非があるのだろう。

しかし、いざと言う時に何者かが襲ってきた場合、対処に遅れるかもしれない。

一応は拳銃一丁とスペスクズナイフを衣類に忍ばせているのだが、敵が想定を上回る装備を備えていたとしたら?

かといって無駄に武器を持ち歩いても取り回しに困る事が多い。この区域は夜間外出さえ頻繁にしなければ治安はそう悪いほうではない。


「次からは気をつけることだ。これは玩具じゃない、人殺しの道具だ」


「はい…」


なるべく穏かに、棘を取った口調で告げたが相変わらず無感情な声音になってしまったかもしれない。

それでもミホはまだ震えたままだった。少し言い過ぎたかもしれないと、キルーマは微かに反省した。

他人の様子を察し、気遣っている。その事がキルーマ自身にとって意外であり新しい発見だった。

自分は今まで生き延びる事、そして殺す事ばかりを考えて生きてきた。

ミホの事を危険だとは思わなかった。それは『彼女』の面影をミホに被せていたからかもしれない。

何処から見ても全うな人生を送っていない自分が、関係も無い人間の様子樺って居る事が滑稽である。

そういう考えが甘いという事は判っている。しかし、何故か悪い気はしない。不快な感情が湧かないのだ。

殺しの依頼を完遂した時よりも心地よい感触が風となって、胸のうちに吹き抜けていくのを彼は感じていた。






彼女を住処に預かり、既に二ヶ月が経っていた。相変わらず二人の間に言葉は無かった。

その間に殺しの依頼は三件あった。少女が寝ているときに支度を済ませて一晩で戻ってくる。

仕事はいつも通り、ボスの望む結果を引き出して完了した。いつもと変わらない。

終わって帰宅するのは昼だったり、早朝だったり、深夜だという事もありばらばらである。

確かなのはキルーマが帰ってくるたびに、誰かの命が失われているという事くらいだ。


「……」


部屋に戻るとミホはソファーに包まって寝ていた。すやすやと健やかな寝息を立てている。

自分の部屋に他人が住み込んでいる。その事自体がキルーマにとって初めての事ばかりだった。

彼女は大人しかった。いや、大人し過ぎた。年齢にしては静か過ぎるとも言っても良い。

それが何故だかキルーマには判らなかった。子供というのはもっと騒がしく、煩いものだと思っていたからだ。

あの日以来彼女の笑顔は見ていない。こんな場所でほぼ外に出ない生活を続けているのだからあたり前も知れないのだが。

そもそも、生きるために他人の生き血を啜り続けたような自分の昔の事と比較されてもあれなのだろう。



ガチャリ



玄関の方からドアを開ける物音がした。キルーマは咄嗟に少女の上に毛布をかぶせ、腰から拳銃を引き抜き応対に出ようとしたがその必要は無かった。

その男は良く知っている顔であり、彼を今の世界に引き釣り込んだ張本人であるからだ。

中年にしてはやけに引き締まった体躯を大き目のスーツで包んだ男――――

ボスは探るような、相手を試すような光を鷹のような眼差しに浮かべ不敵な笑みをキルーマに向けた。


「よう、此処に来るのは初めてだったなキルーマ」


ずかずかとキルーマの住処に入ってくる男は、仕事道具と少しの備品しか置いてないこの住処に明らかに浮いた存在感を放っていた。

裏向きの顔は国の中枢にまでコネクションを持つ巨大マフィアのボスだが、大企業の応接間で大きい椅子にふんぞり返っていてもおかしくは無い格好。

そんな大物が何故こんな場所に居るのか? 今ここで起きていること事態がキルーマをに奇妙な感想を抱かせる。


「何故、此処に来た?」


何か飲み物でも出そうかと思った彼だったが、ボスは必要無いといわんばかりに手を上げて制した。


「もてなしはいらねぇぜ。別にくつろぎに着たんじゃねぇし、近くを通りかかったついでに来ただけだからかまわねぇよ

お前は内の組織の働き頭だからな、俺様との付き合いも長い旧知の仲だからこうして様子を見に来てやったんだ」


「……」


剃り跡の残る顎を歪めて、まるで親しい友人宅にアポなしで上がりこんできた気安さである。

そもそもキルーマはこの男に居場所さえ教えていなかった。誰とも馴れ合う気は無かったからだ。

それでも彼は此処を尋ねてきた。と、言う事は独自に調査しているのだろう。

組織の人間を把握していくのは長として当然のことなのだろうという事は理解できる。あまり気持ちの良いものではなかったが。


「それだけの為にわざわざ此処に着たのか?」


「いや、おめぇ。少し雰囲気変わったか?」


「…何を言っているかわからんが」


「いや、なんでもねぇよ。それより組織のためにちゃんと働いてくれ、

俺のシマを狙っている奴は山ほど居る。それだけ敵が多いという事だ、仕事が増えるぜ。よかったな?」


「……」


キルーマは相変わらず無表情のまま、何も答えなかった。

ポケットに手を突っ込み、入り口へと歩いていくボス。その後姿だけ見ればこの国で最大の勢力を誇るマフィアの親玉とは思えなかった。

胸の内で緊張が取れていくのがキルーマには感じられた。ボスは食えない男だと思う、何を考えているのかはっきりとわからない。

今まで様々な人間を殺してきた。敵対組織のトップ、組織との繋がりが暴露されそうになった政治家、果ては内情を掴んでしまった無名の新聞記者まで…

しかし、目の前の男を殺すのを難しいかもしれないとキルーマは考えていた。何故そう思うかは判らない。


「おい」


唐突にボスが振り返った。そこまでは大きくないのに先程とは声の鋭さが全く違い、思わず身構えてしまう。

しかし、彼は部屋の一面に視線を巡らし…そしてとある一転に視線を固定させる。そこはミホが寝ているソファーだった。

部屋の入り口までしか足を踏み入れていない、それに背を向けたソファーは死角になっており彼からミホの姿は見えないはずだ。


「どうした、何かあったか?」


「…いや、なんでもねぇ」


ニヤリ、とまるで面白い玩具を見つけたように笑ったボスの不敵な顔はしばらくキルーマの脳裏に焼きついて離れそうに無かった。





「……」


無言の朝。朝食を早々に取ったキルーマはミルクの入ったシリアルをミホの眠るソファー前のテーブルに置いた。

彼からすれば食事というものは食べればそれで十分であり、食事も殆ど味のしない粘土の様なレーションばかりだった。

こんなものを買ってきたのは、多少なりとミホに配慮した結果である。

流石に、固くて決して美味しいとは言い難いレーションのような物を彼女に食べさせるのは酷だと思ったのだ。


「あの…一つ聞いて良いですか?」


「…起きていたのか」


「わたしがどこから来たのか…わかったんですか?」


いつの間に少女は目を覚ましていた。大き目の黒瞳は焦点が合っていて特に眠たい様子は見られない。

それで居てはっきりとした口調で聞いてくる。キルーマは気付かれない様に目を逸らしながら答えた。


「…まだだ」


心臓が微かに冷えるような、後ろめたい感触を覚えた。自分は目の前の少女に嘘を付いている。

降りる沈黙、それを嫌うかのようにキルーマは口を開いたのだった。


「すまんな」


何か気の効いた事が言えたらそれで良かったのかもしれないが、生憎と彼は殺し以外の分野はあまり得意ではなかった。


「……」


少女はしばらくスプーンを持つ手をテーブルに置いたまま答えなかったが、やがて唇を開く。


「お兄ちゃんは…本当のお兄ちゃんじゃなかったんです。血は繋がっていないのだけれども、あの人が居なかったらわたしは…」


それからミホは語り始めた。自分の身の回りを、そして思った以上に穏かでなかった彼女の近況を…


「親戚の人は、お金の問題を抱えていた両親を毛嫌いしていました

二人が事故で死んでからわたしは親戚の家をたらいまわしにされて、ようやく引き取ってくれた家もみんなが冷たかった

でも一人だけ優しい人が居たんです。それがお兄ちゃんだったの…」


ミホは続けた。言葉に感情が乗ってくるのが声でわかる。


「お兄ちゃんは優しかったわ。遠縁で殆ど血の繋がっていないわたしを遊園地に連れて行ってくれたり

少ないお小遣いで本や服を買ってくれたり…自分の生活を削ってまでわたしに楽しみを与えてくれた

あの人はあたしにとって一番大切な家族なの。仕事の知り合いにチケットを貰ってここまで来たのに…

可哀相なお兄ちゃん…わたしなんかの為にこんな場所に来ていなくなっちゃうなんて…」


少女は潤んだ瞳を伏せた。彼女が此処まで感情的に振舞ったのは始めてである。

キルーマは答えなかった。自分に危害を加える者が居たら殺してしまえばいいと思っていたが、

どうやら自分の住んでいた場所とは色々事情が違うだろうし、何よりも少女が他人に進んで危害を加える人間には見えなかった。


「日本で周りの人は冷たい人ばかり…お兄ちゃんが居ないのに帰っても、何も無いだけ。私が今覚えているのはこれだけです」


少女は涙を流していた。涙を流すという事は、悲しいという事なのだろう。

キルーマも頭の中ではそれを理解していたが、他人の気持ちになって考えた事は初めてだ。

彼からすれば自分以外の人間というのは、生きる糧の踏み台に過ぎず糧でしかなかったからだ。

ならば何故、少女を殺さなかったのか? その答えは自分の胸のうちに聞いても帰ってこなかった。






走っていく、誰かの手を握って。離さない様に強く、しっかりと。

繋がった手から互いの体温が伝わってくるのが解る。恐怖と不安で押しつぶされそうな心を庇い合うかのように。

背後から断続的に聞こえる銃声。女の悲鳴、更に下品な男達の笑い声―――――

そこから二人は逃げたかった。先程まで彼等がいたところは武装ゲリラの襲撃に遭い燦々たる有様だった。


その様は一言で説明すれば、まさに地獄としか言いようが無かった。

子供は連れて行かれ、家は焼き払われ、女達は髭面の男達の慰み者にされ、男達は散々痛めつけられた挙句に殺され遺体は川に放り込まれた。

何故、そんな事になってしまったのかは解らない。二人は燃える故郷の炎から逃れるように逃げたのであった。





仕事の朝に、キルーマはそんな夢を見た。


「……」


スコープの中の十字に黒背広の男が入る。彼はドイツ製の高級車から降りるとボディガードを連れて建物の中へと入っていく。

ダニエル・スーン。それがその男の名前であり、今回キルーマが殺すように言われたターゲットだった。

彼が業務上の此処を通りかかるという情報は、既に二週間前からボスの秘書経由で伝えられていた。

標的のダニエルは製薬関係グループの会長である父親から関連企業をいくつか任されてきた若手の実力者だ。

一応は麻薬とは関係ない堅気の世界の住人であり、妻子持ちで人望も大きい。一般的に考えると狙われる理由なんて得に思い当たらない。

『組織』傘下のとある企業が、そのグループに特許侵害を受けたと裁判を起こされ追い込まれているとだけ聞いている。

何処の国にもある金がらみの論理という奴だ。どちらが正しいなんてキルーマには知ったことではない。


(そう、俺はただの道具でしかない…)


再度、胸の内で反芻するようにキルーマは思った。引き金に意思など必要が無い。

撃てない銃など唯の欠陥品でしかなかった。だからこそ自分の意見など不要である。


スコープの中のダニエルに駆け寄ってくる人影が居た。彼の妻とまだ七歳になったばかりの娘だ。

家族の情報も頭の中にあった。『殺す』為なら何でも利用しろとボスに言われたからだ。


娘の顔を見てダニエルの顔が綻んだ。娘を抱きかかえ笑顔を浮かべている。

キルーマは彼の娘が離れるのを待った。照準が付けにくいという理由からであったが、あまり不要な犠牲を出したくなかったのだ。

以前の彼からすれば考えられない事だった。しかし、任務である以上やるしかないのだ。


(…)


トリガーを引き絞る。静音性に優れたライフルから飛び出した弾丸が高速回転しつつ標的に向かってコンマ0,01秒単位で射出された。

そして数百メートルの距離を一瞬で縮め男の胸に命中する。ダニエルは最初何が起きたかわからないようだった。

しかし、白のシャツが赤黒く染まっていくのを見て顔色が急に真っ青に変わり倒れる。


(…しまった)


一撃で心臓を狙い仕留めるつもりだったが、僅かにずれて肺を貫通したようだった。

今までの彼からすればありえない事だった。こうなってしまえば肺の中に血液が溜まって標的は苦痛の中で自分の血で窒息してしまうのだから。

ヘッドショットを避けたのは遺体を綺麗にしたかったからだ。確実に殺せる方法をあえて取らなかった事がダニエルを苦しめる結果となってしまった。

すぐに二射目を放ち、確実に息の根を仕留めようと思ったが自分の位置が割れる恐れがある。

だから、キルーマはスコープの向こうでダニエルが死ぬのを見届けるしかない。


スコープの中でダニエルはもがき苦しみながら絶命する。半狂乱になった妻と呆然としている娘が彼に駆け寄った。

無音の世界で妻は大声で何かを叫びながら、既に絶命している彼の傷に手を当てて血を止めようとしている。

一方で十代後半の金髪の娘は呆然と定まらない視線を動かして、そしてキルーマの方向を向いた。


(…!)


眼が合った気がした。彼らしくなく直ぐにスコープから眼を離しライフルを分解、撤収の容易にかかった。

依頼は完遂した。それ自体はいつもの仕事と一緒である。しかし、胸の中に苦い感情が残っていた。

動揺さえ…感情が揺らぐ事さえなかったらダニエルを苦しまずに逝かせたのではないかと思えてならない。

キルーマは無表情の仮面を付けたまま得物をギターケースに仕舞いこみ、その場を後にしたのであった。





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