古傷を、えぐりましょう
大野奏助。
属性はムードメーカー。恋人とは付き合い始めて3年と半年。
1週間前に喧嘩。右頬を殴られ負傷。
以来、連絡は、ない。
―古傷を、えぐりましょう。
「で、メリーちゃんに話してみなさい。何があったの」
時は日曜日お昼時。 場所は公園、タコの形をした滑り台の上。
8本の足が伸び、そこが滑り台状になっている。
その丁度中心、頭の部分にあたるところに大野とメリーはいた。
転落防止の柵に囲まれたその場所は、先程大野が『飛び降り』を脳裏に過ぎらせた場所でもある。
少しも移動はしていない。
つまり、彼は「柵を飛び越えて飛び降りてしまったら、楽になれるか」などと、言葉だけは大それたものを使っておきながら、実際そうしたとしてもたいして怪我もしない、安全圏の中で考えを巡らせていたのだ。
大野奏助とは、そういう男だった。
「話してみろ、って言われてもねえ」
大野は空を仰いだ。
彼女が連絡を寄越さないのには理由があるのだろうし、ないにしても音信不通はたかだか1週間だ。
彼女にだって予定はあるし、喧嘩にしてもさほど騒ぎ立てるような原因があった訳ではない。虫の居所が悪かったり、タイミングが悪かったりしたのだろう。
つまり、大野はこれと言って思い詰めてはいなかった。
「確かに、近頃ツイてないことばかりだと思うし、何でなんだとも思うけど」
結局、今はそういう時期なだけじゃないかと諦めてもいる。
大野がその結論に行き着いた時、傍らから盛大な溜め息が聞こえた。
「はーあ。何、自分は冷静です、何もかも受け入れています、って大人振ってるの?」
メリーはやってらんない、と顔を歪めた。
「お前みたいな子供に、何が解んだよ」
「子供扱いすんな!」
あたしは神様だぞ!と、抗議するメリーに、大野は再び蹴りを入れられた。
「痛え…」
「いーい?良く考えて。奏助の彼女は、君のそういう何でも解ってるみたいな態度が気に食わないって言ってたでしょ」
「は?なんで知ってんだよ」
確かに彼女は、俺を殴った後そう叫んでいた。
「何でもかんでも、はいはいって素直に受け入れるだけが優しさじゃないの。彼女、奏助との約束すっぽかしたこと咎めて欲しかったんじゃないの?」
「お前…」
大野と恋人しか知り得ない喧嘩の内容を、メリーは熟知していた。
奇妙に思いながらも、大野は意識を彼女と会った最後の日に飛ばす。
それは1週間前、今日と同じく日曜の昼頃のことだった。
*******
「遅せえな、アイツ」
大野は待ちぼうけをしていた。朝10時に約束をしたはずの彼女は、午後になった今も現れない。
頻繁に腕時計や携帯電話に目をやる。
時刻は間違いなく午後1時を回ったことを確認出来るし、昨日交わしたメールを再度見ても、やはり約束は10時だった。
「何してんだよ、一体」
溜め息も出るし、腹も立つ。しかし、同時に心配でもあった。
何かあったのだろうか。
彼女の携帯電話には、幾度となく連絡を入れているのだが、決まって電源が入っていないことを知らされる。
既に3時間を超えている待ちぼうけ記録が、着々と更新されていくばかりだった。
待ち合わせ場所は大野の部屋。
遅い朝食を二人で取った後には、前から彼女が観たがっていた映画に赴き、その後はショッピングでも楽しもうかと計画していた。
映画のチケットも、既に用意してある。
未だ暦上では春とはいえ、暑くなってきた気候に備えて、夏物の衣服を彼女に見立ててもらおうかなどとも考えていた。
だがしかし、その彼女が一向に現れない。
テレビを見たり、簡単な片付けをしたりと、彼女が来るまでの時間を埋めていた大野だったが、さすがにおかしいと感じ始めた。
「何してんだよ、アイツ」
大野は本日何度目かの電話を彼女にかける。
履歴で直ぐに呼び出せる番号をコールするも、変わらずの不通だった。
大きく溜め息を付いた後、意を決して外出の支度を始めた。
(とりあえず、アイツの家に行こう。寝てんのかもしれないし)
時刻は間もなく午後2時。
彼女がこの時間まで寝ているとは思えなかったが、その僅かな可能性に賭けたい気持ちも強かった。
すっぽかされるなんてしゃくに障る。
財布と携帯電話、必要最低限のものをポケットに捩じ込み、部屋の扉を開けようとノブに手を掛けた時だった。
呼び鈴が鳴る。
覗き窓から見てみれば、待ち人だった。
「お前…!」
彼女はばつが悪そうに俯き、ただそこに立っていた。
反射的にドアを開け、中に招入れる。
「何やってたんだよ、連絡も付かないし」
もう来ないのかと思った、と腰を下ろした彼女に飲み物を用意しながら、大野は笑う。
何はともあれ、来てくれたことに安心はしていた。
パステルイエローの花柄ワンピースに身を包む彼女の格好は、デート仕様であることを窺い知ることができる。
「あのさ…」
「奏助さあ、」
沈黙の続く重い空気をどうにかしようと、口を開いた大野の言葉を恋人が遮る。
「何でそんなに、何もなかったみたいに接して来るの?」
「は?」
彼女が自分を責める理由が解らず困惑する大野。
約束に遅刻した彼女を、非難せず受け止めているのだから、何も悪くはないのではないか?
状況を理解しようと頭を働かせる最中の大野に、恋人の右手が飛んで来る。
「!」
何故、自分は殴られたのだろうか?
「奏助のその、何でも解ってるみたいな態度が気に食わない!」
涙ぐんだ目で大野を見据えた彼女は「じゃあね」と言って部屋を去った。
「泣きたいのは…俺なんですけど」
一人取り残された部屋。大野は彼女の出て行った扉を見つめ、呟いた。




