聖ステファノ倶楽部にて
「ああもう、じれったいわね」と漏らすアリス。その目の前には一匹の青虫がおりました。
ひどく真面目くさった顔で、古典的でヒラヒラした飾りつきの巨大キノコの上に一匹の青虫がチョコンと腰を下ろしていたのです。アリスはその大きな青虫と話をしようとしたのですが、十五分も経った今でも何の反応も無いのです。
「そうだわ、青虫に話しかけるときにはちゃんと目を見ないといけないのよ。聞いたことがあるわ、チャンスはそれ一度きりなんですって……」
そんな独り言がアリスの口をついて出ますが、アリスはもう或ることに気付いておりました。――ええ、そうです、青虫は決してアリスと目を合わせようとはしないのです。
青虫の視界に入ろうとするアリスでしたが、青虫の瞳はどこか遠くを見ていたり、アリスの足元をジッと見つめていたりと、あちらこちらに視線を散らすだけなのですから。
そんな青虫の様子を見たアリスはいつかどこかで聞いた諺を思い出しました。
『子供のお守りは見てるだけ。相手なんぞはしてやるな』ということわざです。
「でも、私はまだ『見て』もらってすらないわ。ああ、でも良く考えてみて。相手をしてもらえないって言うけど、そもそも私は青虫さんに何の話をすればいいの?」
ですが、とにもかくにも『言葉くらいは何とか交わしてみましょう』とアリスは心に決めたのでした。
「あの、よろしいですか――」
「よろしくない」
青虫はそう短く告げたっきり、何の興味も見せてくれやしませんでした。ギクシャクする沈黙の後で、アリスはまた話を始めました。
「お願いなんですけど――」
「お願いなんぞ御免こうむる」
青虫がそうキッパリと言い放つものですから、アリスはがっかりと肩を落としてしまいました。しかし、言われるがままに口を閉ざしても何の得もありませんので、アリスも今度は出来るだけ愛想良く話し掛けてみたのです。
「ま、まだ何も言ってないじゃないですか、青虫さん――」
「言わずもがなと、ワシはことあるごとに申しておる」
青虫は堅苦しくそう答えると、こう付け加えました。
「ところで小娘よ、左様な品の無い言葉なぞ使うものではないぞ。斯様に礼儀知らずのことばかり申すのは、話し合いには相応しく無いのじゃ」
「で、でも、ちゃんとしたことしか言って無いと思うんですけど――」
「ちゃんとしてなどおらぬ。教えてやろう、お主の言うことはちゃんとしてなどおらぬ」
青虫は腹を立てながらそう言いますと、アリスもつい大声を上げてしまいました。
「あなただって、とんでも無く『足りて無い』じゃないの!」
この叫び声には青虫もつい身を強張らせてしまいました。ですが、青虫の怒りがもうすっかり頂点に達っしているのを目にするなり、アリスは慌てて言葉を付け加えました。
「あ、ええと……違うんです……『足りて無い』っていうのは……気配りのことで……別に頭が足りて無い……っていう意味じゃないんです……」
それからアリスは『青虫なんかと口喧嘩するなんて馬鹿げているわ』と思い直し、謙遜りながら「本当に、何を言おうっていうんじゃ無いんですよ」と続けたのです。
すると青虫は鼻を鳴らしました。
「小娘よ、何を言おうというでも無い、と言ったな。なら、お主と話をすることに何の意味があるというのだ。いつもいつも言いたいことも無いのに話をしていると云うのなら、お主の話など聞く価値も無いわ」
「え、そんな、誤解ですわ、ちょっと――」
「五階だと? お主なんぞに建築の話が出来るわけなかろう。そういう話には国家予算の談義が付きものだからの。そう、身の程を弁えよ!」
「わけが分からないわ」とアリスは呟きます。
「分からぬなら教えてやろう。身の程を弁えるというのは、萎びる――つまり「萎縮する」ということだ」
講釈を述べ終わると、そのまま青虫は遠くの方を見つめ始めました。そう、まるでアリスの存在など忘れてしまったように――
「さようなら」
しばらくしてそう呟いたアリスでしたが、胸の奥では青虫から『小娘、また会おうぞ』という言葉が返ってくることに淡い期待を寄せておりました。ですが、当の青虫はアリスの言葉にはちっとも耳を貸してくれません。アリスはしぶしぶ腰を上げて、遠くへと歩き出しました。
「ああ、よりにもよってお偉いさんがあんなのだなんて……」
青虫が見えなくなると、アリスはそう独りごちました。
アリスは青虫の言うことなど全く理解しておりませんでした。
なのに、青虫の方は『お偉いさん』らしいことを言えてすこぶる安心していたのです。
【脚注】
青虫……庶民院議長であるガーリー氏。
(※ Westminster Gazette誌の編集長J. A. Spender (1862~1962) による注釈)
【備考】
原題:『Alice at St. Stephen's』
初出:Westminster Gazette 1901/6/1
ルイス・キャロル『Alice's Adventures in Wonderland』(Advice from a Caterpillar)のパロディ
挿絵は諷刺画家 Francis Carruthers Gould (1844-1925)の作品(Public domain)
【訳者の解釈】
ウェストミンスターの議会を形成するのは貴族院(上院)と庶民院(下院)であるが、その庶民院の議長は演説者と呼ばれる。演説者という名は、議論を交わす『国会』という場に非常に相応しい名称だと思うが、果たして其処で交わされる議論とは如何なるものであろうか。老練たる若手議長のウィリアム・コート・ガリー氏、聖ステファノ倶楽部に集う議員たち……彼らの口を飛び交っていたのは真の議論だったのだろうか、それとも根も葉もない言葉遊びに過ぎなかったのか。『お偉いさん』という言葉の抜け殻たちが、そこには集っていた。
余談であるが、聖ステファノ倶楽部(St. Stephen's Club)というのは庶民院の議員たちの社交場のことである。現在は国会とは少し離れているが、1901年当時は国会のすぐ傍に位置しており、天を仰げばビックベンを望むことが出来たであろう。
【風刺モデル】
〇青虫(The Caterpillar)
庶民院議長:ウィリアム・コート・ガリー。自由党。
【余談(2023.10.21追記)】
F・C・グールドの挿絵を見るといくつか気になることがあったので、ここに書き残しておく。
ウィリアム・ガーリー庶民院議長を青虫に擬えた挿絵をよく見てみると、青虫の傍に立つアリスのスカートには「MP」という縁取りがされていて、これはMP(member of parliament、庶民院議員)のことを指していると思われる。また、画角の左下に生えている二本のキノコは軍兜、それも外地任務の英国兵が被っていた「ピスヘルメット」の形をしている。しかし、当の青虫議長はアリスにも軍兜のキノコにも目も向ける様子はないので、議会に集まる議員にも遥か彼方の南アフリカ戦争にも目を向けていないという風刺なのだろう。
そして、アリスの後ろに並ぶ鈴成り鐘も気になる。これについては確証は無いのだが、おそらく英国大連合諸国の議会で評決の時を告げるされるDivision bellのことだろう。「呼び鈴鳴れども聞く耳持たず」ということを揶揄していたのかもしれない。