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ウェストミンスターアリス  作者: サキ(原著) 着地した鶏(翻訳)
4/16

ランベス宮殿の台所

 とてもとても騒々しい部屋がありました。あまりに五月蠅うるさいので、中に入ろうとしたアリスも「ノックなんていらないんじゃないかしら」と思ったほどです。


 ですが、騒がしさと同じくらい気になったのは、その部屋の空気です。どうにも胡椒をひどくらしたみたいに息苦しいものでした。お香の匂いもかすかにただっていまして、床を見ると蝋燭ろうそくの火がついさっき消されたように嫌な感じにくすぶっておりました。床には沢山の品物が散らかっていましたし、中にはほとんどボロボロのものもありました。

 その部屋は台所らしいのですが、部屋の真ん中に腰を下ろしていたのは、赤ん坊を抱いた公爵夫人でした。そして赤ん坊は腕の中でぐねぐねと暴れ続け、あっちこっちに身をよじっていました。一生懸命に抱いていたのですが、どうしても大人しくならず、もう公爵夫人の手には負えぬようです。

 台所の奥の方では料理番が忙しそうに大きな抗議鍋プロテスタントを掻き混ぜておりました。そして、時折その手を止めつつ、公爵夫人に向かって聖壇屏風や真っ二つになった祈祷書を投げつけるのです。

 手に負えぬ赤ん坊と料理番、それに加えて鼻に付くのは部屋を舞う胡椒の粉。それなのに、公爵夫人は無関心な顔で平気な素振りをし続けるのです。


挿絵(By みてみん)


「ここのコックさん、とても乱暴みたいね」

 喧騒が少し収まったので、アリスはそんなことを呟きました。

「ええ、まったく忌々しいこと!」と公爵夫人は答えるのですが、アリスの耳にはちゃんと届かなかったようです。

「ごめんなさい、もう一度お願い出来ますか? 貴女あなた、さっき何ておっしゃったの――」

「『汝よ、平穏たれ(パクス・ウォビスクム)』と言ったのですよ。まあ、ボコボコと沸き立つ火山を前にしたときには、こんな死語みたいな挨拶は気休めにもなりませんけど」

 そんな風に公爵夫人は言い直しました。


 頭上を飛び交う家具や装飾品をみんな交わしながら、アリスの瞳は公爵夫人の赤ん坊に向けられます。身を捩りに捩ってとても抱いていられぬような格好の赤ん坊を、アリスは不安そうに見つめていたのです。

「あの、もう少しきちんとした方がいいと思いますよ。その……色々と、ね?」

「そうですわねえ、何とかしなくてはなりませんね」

 公爵夫人が決意を固めたように見えましたが、その後にこんな言葉を続けるのです。

「ですけど、のんびり、たらたらで良いんじゃないかしら……ほら、天鵞絨ベルベットの靴はなまりの足と言うじゃないですか」

 この言い回しにアリスは聞き覚えがあったようですが、だからと言って特に何がどうこうということもありませんでした。

「そんな調子じゃ、落ち着ける部屋になるまでに何年も掛かっちゃうわ」

「そうかもしれませんねえ、私のお役目も今年までですから。まあ、『急がば回れ(フェスティナ・レンテ)』でしょうかねえ」

 公爵夫人は諦め気味にそう答えました。


「だけど、言って聞かせるくらいならきっと出来るでしょ。ここは貴女のお家なんだから。家主の権限とやらはどこへやったのかしら?」

「貴女ねえ、こんな私ですけれど、少しでも偉く見せようと頑張っておりますのよ。出来ることは何でもやっておりますの。命令もしてみましたよ。料理番もこの児も言うことを聞きませんが、私はそれを見ないように心掛けているのです。私だって努力してるんですよ。私はちゃんとねえ、言いたいことはこの児には言っていますの。……まあ、貴女も言いたいことは笠貝カサガイにでも話したらよろしいんじゃないかしらん。カサガイは地位にしがみつくのに必死ですから、良い話し相手になりますよ。料理番なんかは――」


 そのとき、料理番が胡椒瓶を投げつけたのです。胡椒瓶は公爵夫人の方に真っ直ぐ飛んでいき、激しいクシャミが公爵夫を襲います。ひどいクシャミに身を引き攣らせて、公爵夫人の話は中途半端に終わってしまいました。


 この大騒ぎの真っただ中、突然、赤ん坊が姿を消しました。

 そうこうしているうちに、料理番が『唐辛子カイエンヌ』と書かれた薬味瓶を持ち上げます。

『これはもう退散した方がいいわね。それに赤ちゃんを探さないと』

 そう思って、アリスは台所から飛び出しました。すると次の瞬間、ドアの向こうから公爵夫人の声が聞こえてきました。クシャミをしながら息を荒げる公爵夫人の声が――

『なんとか――しません――と――ですけど――ノンビリ――タラタラ――ね』


 ×××


 しばらくすると、何の前触れも無くチェシャ猫が姿を見せました。

「赤ん坊はどうなったんだい?」

「出て行ったわ。……自由に歩き回りたかったのかしら」

 アリスがそう答えると、チェシャ猫はこう言いました。

「だろうね。あの児には僕がいつも教えてあげてたのさ、その方がいいってね」


挿絵(By みてみん)


【脚注】

公爵夫人……テンプル博士、カンタベリー大主教。

料理番……サミュエル・スミス議員、リヴァプール選挙区選出の庶民院議員。プロテスタント運動の活動家。

(※ Westminster Gazette誌の編集長J. A. Spender (1862~1942) による注釈)


【備考】

原題:『Alice at Lambeth』

初出:Westminster Gazette 1900/12/12

ルイス・キャロル『Alice's Adventures in Wonderland』(Pig and Pepper)のパロディ

挿絵は諷刺画家 Francis Carruthers Gould (1844-1925)の作品(Public domain)


【訳者の解釈】

ボーア戦争と直接には関係の無い話になる。だが、『The Westminster Alice』が政治風刺譚である以上、政治と深い繋がりのある事柄へ話が飛び火するのは無理も無いことで、それこそ道理と言えるだろう。つまり、この話は英国史を論じる上で欠かすことの出来ない宗教的な議論――イングランド国教会の動乱について語っている。


16世紀、イングランド王ヘンリー8世の離婚問題が原因となり、イングランド国教会(聖公会、アングリカン教会)はローマ・カトリックと決別した。しかしながら、儀礼・儀式においてはカトリック的な要素が色濃く残り、一方でプロテスタント的な信仰を抱いているという二つの顔を国教会は併せ持っていた。すなわち、イングランド国教会というのは、カトリックとプロテスタントの狭間に打ち込まれた十字架なのである。ただし、ブリテン島の王権が深く突き刺したその十字架も、ヴァチカンの手により脆くも引き抜かれることとなった。


1896年、教皇レオ13世の出した教皇書簡「Apostplicae Curae」がイングランド国教会に動揺を引き起こす。この書簡においては「イングランド国教会による聖職者叙階の儀式は全く以て無効である」とローマ教皇は論じている。すなわち「イングランド国教会は正統な教会にあらず」と断じたのであった。この書簡に対して、国教会の頭目たるカンタベリー大主教フレデリック・テンプルは聖書に基づく叙階儀式の正当性を論じたり、カトリック的儀式である香炉と蝋燭の使用を廃止したりもした。だが国教会内奥を渦巻く困惑と動乱は収まることを知らず、引き抜かれた十字架は地を割り、イングランド国教会は分断の危機に瀕す。

プロテスタントとカトリックが拮抗する国教会は、まさに鍋や調味具の飛び交う台所であり、家主たる大主教の張り上げる声も大騒乱に掻き消されてしまった。イングランド国教会の分裂は、カンタベリー大主教でも収束させることは出来なったのである。


【風刺モデル】

〇公爵夫人(The Duchess)

 カンタベリー大主教:フレデリック・テンプル。イングランド国教会の最高位の聖職者。ランベス宮殿はカンタベリー大主教の公邸である。

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