ダウニング街のアリス
少女アリスの目の前に無愛想なチェシャ猫が姿を現しますと、さてもその不躾な猫は何の脈絡も無くこんな話を始めたのです。
「にゃあ、そこのお嬢さん。君はね、ボンクラバカってのを見たことあるかね?」
「見たことないわ、そんなもの。私の住んでた所にはそんな『ボンクラバカ』なんて居なかったんだもの。でも、ここにはそんなのがいるのね? ねえ、猫さんは会ったことある?」
「まあね、何度かね」
チェシャ猫は手短に答えると、ずっと遠くの方に目を向けながらまた呟きました。
「そうさね、あっちの方へ行ってごらんよ。うってつけのがあっちにいるから」
そこでアリスは猫の言う方へ歩いて行くことにしました。しばらく歩いてみて、アリスはようやく『何か』の姿を見つけたのです。アリスの瞳に映ったのは、座るでも無く立つでも無く、ただ腰を曲げて苦しそうな姿勢を執り続ける『何か』の姿でした。けれど、そんな苦しそうな恰好なんて気にも留めず、アリスはその大変な生き物の正体を当てることに、夢中になっていたのです。だから『どうしてそんな難しい恰好をしているの?』なんて疑問を考えつくことはありませんでした。
その奇妙な生き物の姿を書き表してみますと、それはまるで殴り書きの文字のようもであり、ともすれば白黒烏のようにも見えました。そして、その羽根は漆喰にまみれて汚れています。きっと先程からずっと腰を曲げていたのは、毛繕いでもしようとしていたのでしょう。
「きゃあ、きったなーい! ひっどーい!」
アリスの口からそんな言葉が零れます。ですが、さっきまで言葉も無くその生き物をポカンと見つめていたのは一体どこの誰だったのでしょう。
「ねえ、アレって何なのかしら? どうしてこんなところにいるの?」
アリスの疑問に、さっきのチェシャ猫が素ッ気なく答えます。
「さあ? そいつはただそこに居るだけさね。理由なんて特に無いさ」
「じゃあ喋れるの?」
「さぁてね、そいつが何かをするのは見たこと無いがね」
しつこく訊いてくるアリスでしたが、チェシャ猫はそれを面白がって変な返答しかしてくれません。そこでアリスは羽根の汚れた生き物に直接訊いてみることにしました。
「ねえ、お伺いしたいことがあるんですけど、あなたはここで何をしていらっしゃるの?」
丁寧な口振りでアリスが訊ねますと、そのボンクラな生き物は言い訳でもするように首を振り始め、そして物憂げに口を開き始めました。
「フム……存じませんな。エエ、存じません。何しろ、私だって何をしているのか分からないのですから」
「そら言ったろ、そいつが何かしているのなんて見たこと無い、ってな。ああ、でも暇な時は違うね。そいつはね、ゴム球で遊んでるときは別だけど、暇になるといつでもじっと物思いに耽ってるのさ。みんなが信じてる物事のね、根っこの部分を、解き明かそうとしているわけさ。……ん、誰も信じていないことだったかな? まあ、そんなことは忘れちまったよ」
……と無作法に口を挟んできたチェシャ猫の話を聞きながら、アリスは『このボンクラ鳥さんは暇で暇で仕方ないのね』と考えておりました。
するとボンクラな生き物は面倒くさそうに語ります。
「誰が信じているだとか、誰も信じていないだとかは全く以て関係無いのですよ。エエ、まったくね」
「おう、そうさね。関係無いさ」とチェシャ猫は元気良く語り始めました。
「何てったって、解き明かそうとすればするほどグルグルに縺れちまうから誰もついていけないのさ。そいつの理屈はねぇ――」
待ち遠しそうに話を聞いているアリスを横目で見つつ、猫は続けます。
「つまり、そいつが言いたいのはこういうことよ。『誰も運命には口出ししてはならぬ。運命とは避けることの出来ぬものである。放っておけ、過ぎ去るに任せよ』――という具合さね」
すると、アリスが尋ねます。
「でも、わからないわ。どうしてボンクラ鳥さんはどこにも行かずにここでじっとしているのかしら。猫さんが引き止めてるんじゃないの?」
「おやおや、どうにもこうにも仕方の無い娘だね。良いかね、こいつは全く以て人畜無害で温厚な生き物さ。でもね、それだけじゃない。実はね、こいつは最高に美しい物腰で最低に汚いことを言ってのける世渡り上手なのよ。だから、そいつがいなけりゃこの国の王様は何にも出来やしないというわけだ。まあ、ハートの王様は四隅の尖ったただのトランプ紙だから仕方無いのかもしれないけどね。マァ、だけども、お妃様の方は――」
チェシャ猫は囁くように声を落として言いました。
「――お妃様のご出身は安物のトランプの山札でね。碌に磨かれはしなかったが、それでも至極お強いお方でさ。押し合い圧し合い、いつも強引に物事を進めなさる。だけどね、お嬢さん。君じゃ、あそこのボンクラ鳥を動かすことは出来ないんだなぁ。氷河を押そうとするようなもんさね」
「じゃあ、猫さんはそんな人たちをそのままにしようとしているのね」
「もちろん。しかしね、ボンクラ鳥の性格は昔に比べてすっかり変わっちまった。偶然に偶然が重なってね、色んなことがそいつの頭を悩ませてんのさ」
「それって、どんなこと?」
「ふむ、人々が次々と命を落としたり、落としかけたりね、まあざっと数えても沢山だね。それにそいつは大騒ぎが嫌いだからさ……おっと、静かに。王様が来なさったようだ」
チェシャ猫がそう囁くと、トランプの王様が姿を見せました。憂鬱を顔に浮かべ不機嫌そうにしているハートの王様です。
『お昼寝でも邪魔されたのかしら』とアリスはふと考えました。
すると、ハートの王様は陰気な瞳でアリスとその連れを一睨みすると、そのままボンクラな生き物に向かって言いました。
「この小娘は何者じゃ。それに、この猫めは此処で何をしておったのじゃ」
「その質問におかれましては通知書を頂きとう存じますが、エエ、何事にも書類が必要なのでございます、ハイ」
ボンクラは欠伸混じりに答えました。
「まったく、まあ良い。ところで、庭園にドラゴンが一頭、野放しにされているそうではないか。そのドラゴンめを捕まえる手助けをしてこいと言われたのじゃが……おい、どうじゃ? ワシがそんな風に見えるかッ? そんなドラゴンを手懐けられると思うかッ!?」
ハートの王様が怒りっぽくそう尋ねるので、アリスは『全然、そんな風には見えませんわ』と心の中で答えました。
「それで、一体どういった御用件で?」
ボンクラ鳥が物憂げに尋ねると、王様は声を上げました。
「そう、それじゃよ。ワシはいつも言っておるじゃろう。『物事は全て用心に用心を重ねて取り掛かるべきじゃ』とな。だが財務官はこう言うのだ、『物事は全て安く済ませるべきでございます』とな。――全く、我が国の最大の弱点は財務官なのでは無かろうか。心配で心配で仕方ないわい」
溜め息まじりに王様は言いました。すると、チェシャ猫は傍に居たアリスにこう説明してあげました。
「王様や閣僚と言ってもね、ただ面の皮が厚いってだけのトランプ紙に過ぎないってことさね」
そこで、ボンクラな生き物が尋ねます。
「お妃様は何と仰っておられるので?」
「ふむ、妃はこう言っておるよ。『ドラゴンをやっつけちまいましょう……何かしないと、やっつけられんのはアタシたちの方ですわよ!』とな」
そう言うと二人の顔が厳しくなり、そのまま暫くの間、何の言葉もありませんでした。
この沈黙を先に破ったのは王様でありました。
「ところで、貴様は何をしておるのじゃ。そのように漆喰を身体に塗りつけて」
ハートの王様は、白泥で薄汚れたボンクラを問い詰め始めました。
「妃が言っておったろう。何もかも皆、軍服色に塗り上げよ、と。戦争一色に染め上げちまえ、とな」
「エエ、分かっております。分かっておりますが……ですが、カーキのペンキを切らしてしまいまして。エエ、思いがけぬことでございます。そのうえ、どこもかしこも白泥が塗られておりまして……エエ、全く酷いモノで、真っ白にございます」
ボンクラな生き物は物悲しそうに告げました。
話も終わりに差し掛かると、チェシャ猫の体がゆっくりと消え始めました。しばらくすると、片方の瞳だけ残して、身体がみんな跡形も無く消えてしまったのです。そして、その残った瞳がアリスにウインクしたかと思えば、チェシャ猫の姿はすっかり全部消えて無くなってしまったのです。
くるりとアリスが振り返りますと、その眼に映ったのは、いつのまにやら眠りに落ちた王様とボンクラ生物の姿でありました。
「ここにいたってどうしようもないわね」
そう思い、アリスはハートの王様とボンクラさんに背を向けました。そして、『お妃様にもドラゴンさんにも会いたくないなぁ――』と考えながら、道なき道を歩みはじめたのです。
「とにかく」
アリスは心の中で呟きました。
「ボンクラなお馬鹿さんがどんなものかは分かったわ」
【脚注】
「ボンクラバカ」……A・J・バルフォア氏(現在、伯爵)。第三次ソールズベリー内閣の第一大蔵大臣(任期1895年~1902年)。
女王……ジョセフ・チェンバレン氏。植民地大臣(任期1895年~1903年)。
王様……ソールズベリー侯爵。連合王国総理大臣(任期1895年~1902年)。
(※ Westminster Gazette誌の編集長J. A. Spender (1862-1942) による注釈)
【備考】
原題:『Alice in Downing Street』
初出:Westminster Gazette 1900/7/25
ルイス・キャロル『Alice's Adventures in Wonderland』のパロディ
挿絵は諷刺画家 Francis Carruthers Gould (1844-1925)の作品(Public domain)
【訳者の解釈】
19世紀、帝国列強の手によってアフリカの大地は分割された。そんな時代、大陸南端のケープ植民地においては、英国の統治に反発したオランダ系移民(ボーア人)たちがトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の二つの国を建国した。しかし、この二国が産む金鉱とダイヤモンド鉱山を巡って、大英帝国とボーア人との間に一大戦争が巻き起こったのだった。これが、世に言うボーア戦争である。トランスヴァール共和国の併合を図ろうとするも、英国軍はボーア軍に敗退した(1880年12月~1881年3月、第一次ボーア戦争)。
しかし、戦争は再び起こる。1899年10月、第二次ボーア戦争が勃発。戦闘は英国軍の劣勢に始まったが、翌年にはオレンジ自由国とトランスヴァール共和国の首都が陥落する。
だが、戦争はまだ終わってはいない。このときに起こったボーア軍のゲリラ作戦と英国軍の焦土作戦は、戦争の長期化を予感させた。
英国市民が未だ終わらぬ戦争に不安を募らせる中、物語の舞台はロンドン、ウェストミンスター地区へ。
市民の不安と怒りは政府官邸の集うダウニング街に向けられた。ダウニング街の一角には英国政府が居を構え、ソールズベリー侯爵(ハートの王様)が首相の座に着いていた。ただし、外務大臣でもあったソールズベリー侯が病床に臥すと、第一大蔵卿のアーサー・バルフォアが代わりに外交の仕事を受け持つことになった。つまり、ボーア外交への市民の怒りはこのバルフォア(ボンクラ鳥)に向けられたのである。そして、ハートの王様が財務官(treasure)に頭を悩ませるように、ソールズベリー侯は若輩者の大蔵卿(Load of Treasuery)に苦悩していた。
一方、学者肌のバルフォアが世間の批判を身に受ける中、植民地相であるジョセフ・チェンバレン(ハートの王妃)は戦争を積極的に進めていた。財界出身のチェンバレンは南アフリカの獲得にダイヤモンドや金鉱といった莫大な利益を見出していたのであろう。そうした彼の商魂逞しい算盤勘定の姿勢もまた、ソールズベリー侯たちの苦悩の種であったのかもしれない。財務官(treasure)に頭を悩ませるトランプの王様の姿は、チェンバレン(chambarlain=一般名詞で『会計係』)に対する首相の困惑を示している、というのは想像に難くない。
ただし、世界を股に掛ける損得勘定を見据えたチェンバレンの思惑は南アフリカの原石だけであるはずがない。彼の目に映っていたのは来たるべき総選挙であった。戦争を推進する自党を勝利に導くためには、世論を戦勝ムードに塗り変える必要があったのである。国民の意識を軍服色の一色に染め上げる必要があったのである。その甲斐あって1900年の総選挙では保守党が大勝利を掲げた。これが世に言う「カーキ選挙」の一つである。
【風刺モデル】
〇ボンクラ鳥(Ineptitude)
第一大蔵卿:アーサー・J・バルフォア。保守党。
後に英国首相としてバルフォア内閣(1902〜1905)を組閣。後年、外相として発した第一次大戦時のバルフォア宣言は著名である。また余談であるが、1889年、刑務所の独房の白い壁が囚人の視力を落とすのではないかという討論があり、バルフォアもその議論に参加していた。(参照:1889年7月19日のPRISON TREATMENT—WHITEWASHING CELLSの討論など)作中で述べられている漆喰云々との話はおそらくこの独房の白壁(漆喰壁)のことを言っているのだと推察される。
〇ハートの王様(The King)
首相:ソールズベリー侯ロバート・A・T・ガスコイン=セシル。保守党。この第三次ソールズベリー内閣は保守党と自由統一党の連立政権で、野党は自由党や労働党など。
かのベンジャミン・ディズレーリ亡き後、保守党を指導し、三度に渡って首相の座に就いた第一人者。内政と外交に力を注いだ、英国貴族である。
〇ハートの王妃(The Queen)
植民地大臣:ジョセフ・チェンバレン。自由統一党。
家業は靴屋で、実業界で富を成し、バーミンガム市長となる。帝国主義政策の指導者の一人であり、ボーア戦争の一因とされる。