チェスターフィールドへ行きましょう
そのときアリスは気付きました。鏡の国で起ころうとしていた大騒動に、アリスは気付いていたのです。鏡の国の生き物たちの間に走るのは大きな動揺。心もそぞろに、或る一点へ向かって一心不乱で足早に駆け出す生き物たち。その一方で――別に大したことが起こるわけじゃないさ――と興味の無いように振舞おうとする生き物もおりました。
「あれは、みすボロしい鳥さんたちね」
アリスが目にしたのは、どうにも機嫌の悪そうな鳥の群でした。
「きっとオンボロ鳥のボロゴーヴに違いないわ。確かこの国のどこかで保護されている鳥よ。前に何かで読んだことがあるわ。あの本の通りだったら、きっと今にも――白の王様が森を抜けてやってくるに違いないわ。ええ、きっとそう!」
そう言うと、アリスはそのまま白の王様に会いに行きました。
すると鉛筆片手に四苦八苦している白の王様の姿がアリスの目に飛び込んできました。ひどく扱いづらそうに鉛筆を握って、白の王様はノートに何やら書き込んでいるようです。
「お嬢さん、これはなワシが今思っていることをメモしとるんじゃ。万が一にでも忘れてしまったら困るからの。ただハッキリ言ってしまえば、ここに書いたことを忘れることなんてまず無いと思うがね」
そんな風にアリスに説明する白の王様でしたが、王様の背中越しにそのメモを覗き見てみるとこんなことが書いてありました。
『高等弁務官殿はバランス感覚が極めて悪いので、その地位から転げ落ちるであろう』
するとアリスは話題を変えるようにして質問を始めました。
「白の王様、ねえ教えて下さいますか。今、大騒動が始まろうとしてるけど、それって一体全体どんなものなの?」
「ハッキリしたことは何も言えんよ。言えるとしても、ただ『アレ』が目を覚まそうとしている……ということだけだね」
「『アレ』って、なのことかしら?」
「赤の王様のことだよ。お嬢さんも知っているだろう。とても長い間、赤の王様はずっと眠っておいでだった。だが、今日の日が沈むまでには目を覚ますことだろう。まあ、だからと言って何が変わるというわけじゃ無いと思うがね。赤の王様の寝言はやたらと大きいから、それで皆は動揺しておるのだよ」
そのときアリスは思い出しました。ここに来る途中で、薔薇色の……少し錆びた甲冑を身に纏った赤の王様を見かけたのです。アリスの記憶では、赤の王様は鬱蒼とした森の茂みの隙間で窮屈そうに眠っておりました。
すると、白の王様が再び口を開きます。
「まあ、つまりこの大動乱の真相はこうだ。赤の王様は寝ておるな? じゃから赤の王様は夢を見る。ワシらはその夢の一部に過ぎない……などと考える連中がおるのだよ。今、大騒ぎしながら跳ね回っている連中はな――赤の王が目を覚ますと夢と一緒にみんな『紫煙』のように消え去ってしまう――などと思い込んでおる連中なのだ」
その時、白の王様は軽く飛び上がったかと思えば、そのまま大きな叫び声を上げたのです。
「そら、まだまだ来るぞ! 連中が来るぞ!」
「ねえ、その連中って誰なんですか?」
そう問い掛けるアリスの横を、おかしな生き物が何匹も通り過ぎていきました。勢いよく飛び去っていくその生き物たちは、まるで強風に舞う綿毛のようでありました。
「連中というのは、鏡の国の奇妙な生き物……あの柔粘やかな蜥蜴モドキのトーヴやジャブジャブ、バンダースナッチ。そして帝国主義者のことなのだ。日時計の周りに生えている廻時り草を見つけると連中はいつもクルクルと回転儀り、キリキリと螺子錐り始めて地面に穴を穿つ」
「それじゃ、あんなに急いで皆どこへ向かっているの?」
「集会所だ……そこで赤の王様の演説を聞こうとしておるのだ」
軽い陰鬱に呑まれながら白の王様は言いました。
「しかし連中には城の鍵を持たせておるから……あまり遅くまで外に居られては困るのだが……」
ここで白の王様はもうひと飛び。
「どうしたの?」
「そ、そう言えば、ワシも持っておったのだ。鍵を持っていたのだ、ワシ専用の鍵を! ああ、どこに置いたろうか……捜しに行かねば!」
そう言うと白の王様は森の奥へと消えて行きました。
「なんて忙しない王様なのかしら! まるでチェス遊びの駒みたい。あちらが動けばこちらも動く……ルールに縛られたチェスの駒よ」
アリスがそんなことを漏らした次の瞬間、耳を劈く太鼓の轟音が鳴り響きました。
そのときアリスの目に映ったのは、大きな巻紙を手に森を駆け回る赤の王様です。
そのときアリスの耳に入ったのは、そばを通り過ぎて行く赤の王様の独り言でした。
『なんてこった! どうか間に合っておくれよ、集会に。それにしても私の演説を連中はどう受け取ってくれるのだろうか……』
このときアリスは気付きました。無関心な振りをしていたオンボロ鳥のボロゴーヴは赤の王様の後を追うことはしませんでしたが、それでも無関心な素振りだけは取り続けたのです。
そこから少し離れたところで、アリスはアイルランド訛りの嘲笑と罵声を耳にしました。
「あれは離家子の緑豚が嚏め吠えずっているのね。きっとそうに違いないわ」
アリスはそう呟いて、鏡の国を後にしました。
【脚注】
1901年12月6日、チェスターフィールドにてローズベリー伯の演説が行われる。それは自由党の政治家たちにとってその冬の一大事件であった。この演説は始まる前から異常な興味と動揺を巻き起こし、演説後もそれは変わらなかった。南アフリカの件になると、自由党内の二つの派閥はどちらもローズベリー伯の演説を歓喜の声で迎えた。しかしながら、その演説は、国内政策を巡る新たな派閥を作る所以にもなったのである。対するヘンリー・キャンベル=バナマン党首(白の王様)は、その顔にこれ以上ないほどの困惑を浮かべている。その結果、「不思議の国のスペード兵士」の風刺漫画にあるように、ウィリアム・ハーコート卿やエドワード・グレイ卿、そしてロイド・ジョージ氏など自由党お抱えの庭師たちが薔薇の庭木を各々の色に染めようと奮闘していたのだ。つまり、彼らはローズベリー伯の演説を各々が望む意味になるように変えようとしたのである。
(※ Westminster Gazette誌の編集長J. A. Spender (1862~1942) による注釈)
【備考】
原題:『Alice Goes to Chesterfield』
初出:Westminster Gazette 1901/12/16
ルイス・キャロル『Through the Looking-Glass, and What Alice Found There』("Looking-glass house"および"Tweedledum and Tweedledee")のパロディ
挿絵は諷刺画家 Francis Carruthers Gould (1844-1925)の作品(Public domain)
【訳者の解釈】
ボーア戦争を巡って分裂の危機に立たされた自由党であったが、その指導者たるヘンリー・キャンベル=バナマン党首にはもう一つの懸念があった。それはかつての自由党の指導者、ローズベリー伯爵の影響力であった。第一線を退いたとは言え、自由党内の戦争賛成派の後ろ盾となっているのはこのローズベリー伯であった。彼の発言次第で戦争反対派と賛成派の均衡が崩れ去り、そのまま一気に自由党が崩壊してしまうことだって有り得るのだ。それゆえ、自由党の再統一を画策するキャンベル=バナマン党首はローズベリー伯の一挙手一投足に気を配っていたし、それに扇動される党員にも頭を悩ませていた。出来れば、ローズベリー伯は楽隠居のままずっと寝て欲しかったし、もし起きることがあってもそれは眠れる獅子では無く眠れる豚であって欲しかった。
だがキャンベル=バナマン党首の願いも空しく自由党内には動乱が巻き起こる。チェスターフィールドの街でローズベリー伯が演説をするという話を自由党員たちは耳にした。戦争賛成派たちは今こそ立ち上がらんと歓喜に胸を高鳴らせ、戦争反対派たちは平静を保とうと乱れた息を整えようとする。良くも悪くも大混乱に見舞われた自由党を前にキャンベル=バナマン党首は党が乗っ取られはしないかと頭を悩ませるのであった。
そして、来たる1902年12月16日、チェスターフィールドの演説が行われる。
果たして自由党はどうなるのであろうか……。
【風刺モデル】
〇白の王様(The White King)
自由党の指導者:ヘンリー・キャンベル=バナマン。自由党、庶民院。反帝国主義(戦争反対派)。
〇赤の王様(The Red King)
元・自由党の指導者:ローズベリー伯アーチボルト・P・プリムローズ。自由党、貴族院。帝国主義(戦争賛成派)。アイルランド自治法には反対の立場を示す。