途方に暮れる霧の中
ビクビクと怯えながら喚く声が聞こえてきます。
「公爵殿下にお妃様! 今にもお戻りになろうというのに、まだ出来てないなんて……」(※1)
そう喚きながら慌ただしく走り抜けるのは一羽の白兎でした。
「出来てないって……いったい何が出来てないのかしら?」
アリスが首を傾げますと、あるでそれに答えるみたいに白兎が声を上げるのです。
「太子さまへ……コーンウォール公爵殿下へ捧ぐ詩が……まだまだマダマダ未完成! ああ、ええっと――元気に産声 元気に転寝――」
パタパタ足音を立てながら、白兎はそのまま遠くの方へと消えて行きました。
けれど、あまりに急いでいたので、その両手から一枚の紙切れがハラリとこぼれ落ちてしまいました。アリスはそれを拾い上げ、そのまま中を覗いてみました。
すると、チェシャ猫が現れて一言。
「お嬢さん、何を拾ったんだね?」
確信が持てないままアリスはこう答えました。
「詩……それとも歌か何かかしら? ところどころ韻を踏んでるみたいだけど、意味のよく分からない言葉も並んでいるのよ」
「例えばどんなのだい」
「ええと、誰かが帰国して色んな歓迎をされてるのを詠ってるみたい――父君は笑い 母君は涙す――ですって」
「なるほど、僕も前に似たような文句を聞いたことがあるよ。確かその続きはこうだったかな――叔母君は庭師に柵を作らす――」
「猫さん、そんなことどこにも書いてないわ。それにその叔母さんも、こういう時に泣かないで一体いつ泣くっていうのかしら?」
「そりゃあ、あらゆることに気を配らなきゃいけないんだったらね、その叔母さんだって涙くらい流したろうさ」
チェシャ猫はアリスにそう答えました。
「じゃあ、続きを読むわね――殿下は来たる 燕の如く――」
「よく分からない文句だね。燕がどんな風にしてやって来たのかなんて、僕らは知らないんだから。そりゃさ、その殿下とやらが旅行鳥みたいに大空を自由に飛び回ったってのならさ、鳥人間大賞(※2)を貰ったっておかしくないよ」
チェシャ猫がそんなことを呟きますが、アリスは再び紙片の続きを読み上げます。
「――帰路は拓かれた 今こそ翼を広げ 冬緑へ続く路を飛ぶ――。なんだか、やけに燕を避けてるみたいな書き方ね」
そのままアリスは続けます。
「それにカレンダーも色々とおかしくなったみたい。――二度目の百の朝が来て 百の昼 百の夜が来る――ですって。ねえ、毎日二回も朝が来たってことかしら? ああもう、全くわけが分からないわ」
「まあ、何も知らない人にはわけが分からない文句だね」とチェシャ猫が頷きました。
「その後には――燕も飛び交う海鳥も 一度も見たこと無し――って書いてあるから、今まで誰も見たことが無いことが……。そうだわ、太陽が一回ほど余分に昇っていたのよ。それか、昇る旗のことを言っているんだわ」
「旗っていうのは何のことだい?」
「ええと、この詩の誰かさんが見た旗のことよ。――大地を磨き 大海を掘り――ながら、旗を見たって書いてあるもの」
「お嬢ちゃん、ちょっと聞いていいかい。大地を磨くだの、海を掘るだの……いったい何のことだい?」
「旗で地面を磨いたり、海水を掬ったりしたのよ。それか……詩の中の誰かさんが地面を拭いて海に潜ったのかしら。あまりハッキリしたことは書いて無いんだけど、どっちにしたって意味不明なのは変わらないわ。とにかくね、旗っていうのは昇るといつも自由気侭にたなびいてるものなのよ」
「なるほどね、分かったよ。この詩はね、『みんな自由になりたい』っていうのを教えてくれてるんだよ。ダートムアの刑務所やセントヘレナ島の強制収容所はイヤだってことさね」
「続きを読むわね――闊歩し殿下は見たり 新たな国を殿下は見たり――」
「この詩の殿下とやらは随分と歩き回ってばかりだねえ」
チェシャ猫がそんなことを言いますが、アリスはまだまだ続けます。
「――殿下は船出す 此処許より其処許へ 其処許から此処許へ――」
「ふむ、どっちも別に耳新しい言い回しじゃないね。こう続けるべきだよ――殿下は戻りし 此処許より其処許へ されど其処許はかつての我が領土――ってね」
「どこにもそんなこと書いてないわよ。あ、最後にはたくさん文字が書かれてるわ。きっと使わずにいた文句やどこにも入れられなかった言葉ばかりを並べたんでしょうね」
そしてアリスは最後の一節を読みました。
「――それ故 歓喜の兵士が生み出さる 帝国の力よ――ですって」
「ホオ、そいつは結構。その詩の中じゃ一番の見所かもしれないね。最後の部分を目にした人は、きっと詩の文面を隅から隅まで読み始めるだろうからね。みんな知りたいだろうからね、一体全体この詩が何を言っているのかを」
「この詩を読み解いてくれる人なんているのかしら。もしいるんだったら、六ペンスくらいなら払ってもいいのに」
チェシャ猫とアリスはそう言って、紙切れを読むのを止めました。
【脚注】
※1 ヨーク公爵(ジョージ五世今上陛下)は1901年5月7日のオーストラリアン・コモンウェルス議会の初の会合を開くにあたって、メアリ公妃を引き連れてオーストラリアの地を訪れた。そして、桂冠詩人(アルフレッド・オースティン氏)は、偉大なる皇太子とその栄光ある帰還を讃えて、王室好みで忠臣じみた頌賦を詠み、世論を好転させたのである。また、オースティン氏の詩は、しばしばグールド先生の諷刺漫画の材料となり、「サキ」の小説の題材となったのである。
※2 草創期の航空機開発者に与えられた賞。
(※ Westminster Gazette誌の編集長J. A. Spender (1862~1942) による注釈)
【備考】
原題:『Alice in a Fog』
初出:Westminster Gazette 1901/11/11
ルイス・キャロル『Alice's Adventures in Wonderland』のパロディ
挿絵は諷刺画家 Francis Carruthers Gould (1844-1925)の作品(Public domain)
【訳者の解釈】
大英帝国という一時代を象徴する女帝ヴィクトリアが崩御したのは1901年1月22日のことであった。これに伴いエドワード七世が即位したわけだが、懸念は海外領土の反応である。ヴィクトリア朝と呼ばれる時代は言わば帝国主義を体現した時代であり大海の果てには幾つもの英国旗が打ち立てられた。女王の死というのはこうした時代の終焉を思わせるが、その反動として海外領土が大英帝国の意のままに動かぬという予見は非常に不都合なものであった。そのため海外巡礼という形で王太子であるコーンウォール公爵を各地の海外領土へ遣わし、大英帝国の威光を顕示させんとしたのである。この外地巡礼を画策したのは植民地相のジョセフ・チェンバレンと言われる。
コーンウォール公ジョージ・ウィンザーとその妻メアリー夫人の海外歴訪、その航路はオーストラリアやニュージーランド、カナダなどの英国連邦や植民地であったあったが、公爵夫妻はその他にも南アフリカに訪問している。この訪問に主たる目的はボーア戦争で苦戦を強いられている兵士たちの激励であったのだろう。だが、夫妻が訪れるたびに各地で豪奢な歓迎会が開かれたり高価な贈り物がなされるというのは、苦戦に苦汁を飲まされている者にはどう映ったのであろうか。
歓迎の歓声の裏では遠近で不満の声が漏れている。されどその頭上に君臨するは大英帝国旗。
コーンウォール公が海外歴訪の旅を終えて英国に凱旋するのを記念して、桂冠詩人のアルフレッド・オースティンは「A Royal Home-Coming」という讃美詩を奏上した。
――Welcome, right welcome home, to these blest Isles,
ようこそ祝福の島嶼へ 大歓迎にござります
Where, unforgotten, loved Victoria sleeps,
愛おしきヴィクトリア様の その眠りは忘れられませんが
But now with happy pride your Father smiles,
されど 今は幸福の絶頂期 殿下が父君は笑い
Your Mother weeps.
殿下が母君は涙します――
(Alfred Austin「A Royal Home-Coming」より)
【風刺モデル】
〇白兎(White Rabit)
桂冠詩人(宮廷詩人):アルフレッド・オースティン。詩「A Royal Home-Coming」は詩集「A Tale of True Love, and Other Poems(1902)」に収録。
〇コーンウォール公爵殿下(Duke of Cornwall)
王太子:コーンウォールおよびロスシー公爵ジョージ・F・E・A・ウィンザー。国王エドワード七世の子息であり、故ヴィクトリア女王の孫。海外歴訪の旅を終えた1901年11月9日にプリンス・オブ・ウェールズおよびチェスター伯爵に叙される。後の国王ジョージ五世である。