第一章 喜劇は繰り返す(2)
オレはなんらかの事件に巻き込まれることもなく、無事に学院の正門を通過した。
もちろん遅刻だってしていない。
花の男子高校生としてはステキ女子との出会いのひとつでもあれば、と思わなくもないけど、この歳にして日常の素晴らしさを痛感してるオレは下駄箱の前で安堵の溜息をついた。
当然下駄箱を開けたらステキ女子たちからの惚れた腫れたの恋文がドサーッ、なんてこともあるわけがない。
日常をリスペクトしてやまない事勿れ系男子であるところのオレとしてはこちらのほうがありがたい。
断じてひがみとかじゃないぞ。
オレの幼少期からの知己に誇張表現じゃなくリアルに恋文ドサーッ、な男子がふたりほどいるけど、そいつらが羨ましいとかそういう感情もまったくない。
なにせオレは日常を愛して飽きない事勿れ系男子だから。
アイラブ日常。
ウォーアイ日常。
…まぁ、アイツらにとっては恋文ドサーッが日常なんじゃないかと問われると、嫉妬と怨恨によってハラワタが煮えくりかえる思いではある。
チェンジ日常。
ノーモア日常。
「…おや、ルイじゃないか。朝の予鈴すら鳴る前から学校にいるなんて、きみにしては随分早い出校だね」
オレが負の感情を発生させ続ける修羅へとその身を堕とそうとしているところに、草原を吹き抜ける春風のようにさわやかな美声が届いた。
声のするほうを見やれば、案の定というか、そこには中性的美少年風恋文ドサーッ系男子、月宮光様がまこときらびやかなオーラをまとって佇んでおられた。
その隣には、非人道的不良少年風恋文ドサーッ系男子、日立斎の姿も見える。
このふたりとは小学校以前からのつきあいになる。
いわゆる腐れ縁だ。
「…あぁ、おはよう、ひかるといつき…」
「な、なんだか妙に卑屈なオーラを感じるんだけど…大丈夫かい…?」
「えぇえぇ全然大丈夫ですよもう…」
オレは明らかに大丈夫じゃない感じを醸しつつふたりのイケメンから目をそらす。
オレのような一般的青少年風上靴ちょこん系男子にとっては、目の前の男どもは雲の上の存在なのである。
もうそのまま天の国に召されてしまえ。
「おいおい、なんだかえらく辛気くせぇじゃねぇか、ルイ。タダでさえ物理的にくせぇんだから自重しろよな」
「うっせーよ! おまえなんかイカくせーだろーが! このイカ息子! 恥丘でも侵略してろよイカ息子!」
我ながら実にウィットに富んだ切り返しだ。
きっとあらゆる負の感情がオレに力を与えてくれてるんだろう。
しかし当のいつきはというと、オレの巧妙な応酬にも動じる気配を見せなかった。
「なんだルイ、知らねぇのかよ。イカくさくなるのは童貞だけなんだぜ?」
「えぇぇっ?! ま、マジで?!」
いつきの口から明かされた驚愕の新事実にオレが度肝を抜いていると、そのヤンキーもどきがあきれたように溜息をついた。
「…おめぇは実にバカだな」
「えっ!? 嘘なの?!」
「さぁ、どうなんだろうな?」
「うぉぉぉい! そこはハッキリしろよ! いやしてください!!」
「…ホント、きみたちは高校生になっても何も変わらないね…」
今日も今日とて平常運転なオレといつきのやりとりを、いつもどおりにひかるが眺めつつ、ようやく歯止めをかける。
「いつき、ルイと仲がいいのは結構だけど、そろそろ職員室に行かなきゃ」
「おぅ、わかってるって」
ふたりの言葉に疑問を抱き、オレはひっかかった言葉をそのまま口にする。
「職員室?」
「うん。ちょっと真木名先生から呼び出しを受けてね」
「あれ? なんか昨日も呼び出されてなかったっけ? おまえら」
「昨日もっつーか、入学式以来ずっとだけどな」
そうなのか。
入学式はオレが遅刻したせいでよくわからないけど、そういえば休み時間とかあまり見かけないな。
まぁ、一緒にいないおかげでオレとジルはボロを出さずに済んでるんだけど。
「雑用とか任されてるんだっけ? ひかるは学級委員だからまだいいとして、なんでいつきまで?」
「なんでとはご挨拶だな。こう見えても俺はこころちゃんに信頼されてるんだぜ」
「おまっ…! 真木名先生をこころちゃんなんて! 畏れ多いぞ!」
「まぁ、俺だけに許された特権ではあるよな」
「ど、どうなっても知らねぇからな…オレ…」
オレらの担任、真木名こころ先生はパッと見、そこらにいる無表情系美少女中学生だが、魔王候補とのちの魔王を震え上がらせるほど恐ろしい存在なのだ。
そんな先生を下の名前でちゃんづけなんて、神につばする行為に等しい。
当然その後はしかるべき制裁が加えられる。
「ふふ、心配無用さ、ルイ。さすがのいつきも、真木名先生の前ではいつもおとなしくしてるよ」
「な、なんだ…あせった~…」
「チッ、ばらすのが早ぇぜひかる。ま、適度にバカで遊んだことだし、こころちゃんのトコに向かうか」
「そうだね。じゃあルイ、また教室で」
「あ、あぁ…」
なんだか向こうはオレをいじりまわして大方満足したらしく、清々しい顔でオレに別れを告げてくる。
生返事をしてはみたけどオレはまだまったく満足していない。
そう、不満というやつだ。
「じゃあなルイ、俺のいない間にジルちゃんとイチャつくんじゃねぇぞ」
「イチャつくかバーカ!」
「ベタつくのも駄目だぜ」
「それは朝済ませたわ!!」
「…済ませたっておまえ…」
「い、いやなんでもない! じゃ、じゃあな! あは、あははは!」
…あ、あぶねー! ツッコミの勢いに任せて早速ボロ出すトコだった!
そうして、オレは訝るふたりから逃げるようにして教室のほうへと駆けていった。
途中で頭髪の貧しい学年主任に見つかってありがたくもない説教をたまわったのは不幸でしかない。
…あ、すみません、どうか担任にチクるのだけはやめてください、お願いします。
だからやめてくださいって!
おいマジでやめろよハゲこら!
おいハゲ!
…あ、ホントごめんなさい…。
「…ふぅ」
まったく、朝から散々な目にあった。
砂糖水をかけられ幼なじみたちに弄ばれ、あげくに佐藤(学年主任)に説教され…。
今日ほどさとうが煩わしいと感じたことはないくらいだ。
「…あら、おはようございます星見君。今日はお早いのですね」
オレが教室に到着したのを見とがめたとある美少女が、見とれるほど上品な仕草でオレに挨拶をしてきた。
しかしそんな青春万歳な状況でも、オレの暗澹をきわめる表情は一向に晴れない。
なぜならオレはこの少女の正体をイヤというほど知ってるからだ。
というか今朝も見た顔だし、オレの不機嫌の大半はコイツのせいだから。
賢明なる読者諸兄におかれては、もしくは一週間前の騒動を見聞きした方ならば説明するまでもないことだけど、愚痴のひとつでも言えばオレの気も少しは晴れるかもしれないので、この少女の紹介に今少しつきあってもらいたい。
この憎たらしい美少女の名は真皇ジル。
何を隠そう、オレの家に居候している魔王候補、ジル=なんちゃら=かんちゃらの世を忍ぶ仮の姿である。
ファーストネームを思いっきり使い回し、名字も魔王からとっているという、短絡的にもほどがある命名であり、彼女のアホさ加減が存分に発揮されたひどい名前なのだ。
そしてそれよりもひどいのは彼女の素行である。
その、『おまえどこのお姫様だよ』と言いたくなるくらい優雅で品のある振る舞いは、普段を知っているオレにとっては恐怖でしかなく、猫を被っているというより化けの皮を被っているようにしか見えず、しかもその皮がときどき人前で勝手にはがれるのだ。
面の皮を千枚張りにしているわりにすぐはがれるという、秘密を共有しているこちらとしては非常に始末に負えない厄介者、それが真皇ジルなのである。
よし、ちょっとスッキリしたから話を戻そう。
「あぁ、おはようマオウさん。まぁね、だれかさんが余計な液体をかけなきゃ、もうちょっと早く来られたはずなんだけどね」
オレが他意を含めて…もとい他意しかない言葉で応じると、ジルは周りを見回して近くに誰もいないことを確認してから、化け猫の皮を華麗に脱ぎ捨てた。
「なにを言っているのかしらこの男は。今のはあなたがシャワーを浴びる時間も計算して、いつもより早めに起こしてあげたわたしに感謝する流れでしょう?」
「…オレは今初めて、大きなお世話の意味を思い知った気がする」
結構余裕あるなー、って思ってたらそんな手心を加えてたのかよコイツ。
そこに気が回るわりに、その分寝かせてあげようとか思わないわけね。
要は嫌がらせだよね、うん。
「あら、そんなことを言うのだったら、今度から起こしてあげないわよ」
「起こしてくれることに感謝はしてるけど、もうちょっと常識的な起こしかたをしてほしいっていうか…」
「フ、起こしてもらっている分際でそんな図々しい頼みごとをするなんて、人間の傲慢さには笑うしかないわね」
「いや、でもさぁ…」
「それに、あなたの苦しむ様を見るのがわたしの楽しみなんだから、そこは譲れないわ」
「…アッハッハ、悪魔の傍若無人さにオレはもう笑うしかないよ…!」
どうやら悪魔の目的はオレを起こすことではなく、ハナからオレを苦しめることにあったらしい。
「まぁ、そんな些末なことは捨て置いて…」
一日における全ての始まりといえる朝の目覚めを『些末』と切って捨てる魔王様。
いや、魔王はもうオレだったか。
「すこしあなたに言っておかなければならな………やっぱりやめておくわ」
「え…? ちょ、なにか言いたいことがあるなら言ってよ」
急に話を切り上げたジルにオレが当然の要求をすると、少女は小さな溜息をついて、オレに背後を見るよう顎で促した。
振り返ると、ちょうど真木名先生の用事を終えたらしい二人組が教室に入ってくるところだった。
…なるほど、一般人に聞かれちゃ困るような話だったってことか。
オレたちの視線に気づいたのか、それとも自分の席へ歩いてきただけなのか、ふたりがオレたちのところまで寄ってきて、その片方が意地汚い笑みを見せた。
「よぉルイ。結局ジルちゃんとよろしくやろうとしてんじゃねぇか、てめぇ」
「ただ話してただけだって。それよりそっちの用事、結構早く終わったんだな」
「うん、今日はちょっと話があっただけだったよ」
「へー…」
ただ話があるだけでわざわざ職員室まで呼び出すもんなんだろうか?
と思わなくもなかったけど、真木名先生がなされることに疑問を抱くほうが愚かしいことだ。
きっとオレなんかでは到底理解しえない深遠な理由があるんだろう。
「それよりもよぉジルちゃん、今日の放課後どこかスイーツのうまい店にでも行かねぇか? ルイは抜きでよ」
オレが担任に対して深い畏敬の念を感じている横で、不埒きわまりないイケメンが、節操など微塵も感じさせない浮ついた態度でジルに話しかけていた。
あの騒動があった翌日、かねてより口約束していたひかるとジルの隠れたスイーツの名店訪問につきあってからというもの、いつきは毎日のようにジルを食事に誘っている。
食い意地の汚いジルを誘うには上策だけど、ジルだってそこまでバカじゃないらしく、そのことごとくを断っている。
「フフ、ごめんなさい日立さん。今日はわたし、ピアノのレッスンがありますの」
まぁ、断るたびに取り繕わなきゃいけない絵空事が発生するのが一番の面倒ではあるけど。
「そっか…。そりゃ残念。ジルちゃんは忙しいんだな」
「ウフフ、そうなんです。ですが、こういった日々の精進は大切なことだと思いますわ」
なんか悪魔が心にもないことを言っている。
…おまえは寝起きのオレをいじめないことを精進しろよ。
とかオレが心中で毒づくのをよそに、何も考えていない男が適当なクセにさも感心した様子で同調した。
「そりゃあごもっともだ。ルイも見習え」
「おまえが自分を棚上げした棚を蹴倒してやるから、まずおまえが見習え」
「おいおい、よりによってこの俺に日々精進しろなんて言うのかよ。これだから精通を知らねぇ童貞は困るぜ」
「おい、今童貞関係ないだろ。しかも精通ってなんだよ。精進と字面が似てるからって見逃すと思ったのか? てか流石に精通は知ってるよ。この健康体で直接味わってるよ」
「おめぇは実にバカだな。本当の精通ってのは血が出るんだぜ?」
「えぇぇぇッッ!!? マジで?!」
「…ふたりとも…真皇さんの前でやめなよ、みっともない」
「いえ、お気になさらず、月宮さん。この一週間で随分慣れましたから」
「うん、ごめんね、変な環境に順応させちゃって。そろそろ真木名先生が来られる時間だから、もう放っておこうか」
ひかるの予言が的中するのは、オレが男子の体に秘められた知られざる真実について、もったいぶるいつきから聞き出すことに成功しそうな三秒前のことだった。
「みなさん、席についてください」
ガラリ、と扉を開ける音とともに、我らが一の三のラブリー担任、真木名こころ先生がその愛くるしいお姿をお見せになられた。
その平坦かつ清澄なお声が響く頃には、教室には席を離れている者はおろか、私語をする者すら誰一人として見当たらない。
かく言うオレといつきも不毛な言い争いを中断して、よい姿勢の手本として小学校の教室に掲示されてもおかしくない態度で教卓に視線を向けていた。
血気盛んな高校一年生たちをまとめあげるのに、この一週間という期間は長過ぎたのだ。
真木名こころという絶対的なカリスマにとって。
決して得体の知れない凶器を用いた脅迫まがいの指導が功を奏したわけではない。
断じて。
静まり返る教室で淡々と出欠確認を済ませた真木名先生は、ホームルームを終える直前にオレの名を呼んだ。
「…星見くん、少し話があるのでホームルームが終わったらワタシと職員室に来てください」
「…ぅえッ…!」
「……返事は…?」
「は、はいッ! 了解しました!」
「では、これでホームルームを終わります」
ありがとうございました。
とクラスの連中が律儀に挨拶する中、オレはひとり途方に暮れた。
…え?
オレ、何かした?
挙動不審で学業不振なオレだけど、素行だけはそれなりの自信をもってたのに…!
青菜に塩をふったようにしなびれるオレに、心優しき級友が声をかけてくれる。
「ルイ、そんなに心配しなくとも、きみに粗相をした覚えがないなら大丈夫だよ。ぼくたちのように、簡単な用事かも知れないよ?」
「そ、そうかな…。オレ、中学でも呼び出しなんて年に一回あるかどうかくらいだったのに…。それが高校に入ってわずか一週間で呼び出しなんて…すげー落ち込む…」
「…粗相をしただけに、意気沮喪ということですね」
「ハッハッハ! ジルちゃんセンスいいなぁ!」
うるせーぞ、そこのバカふたり。
べつにセンスよくねーよ。
「まぁ、何を言われるにしても、これ以上真木名先生を待たせないのが今のルイにできる最善なんじゃない?」
「やべっ! そうだった!」
ひかるの指摘で、オレは廊下に無言で立ち尽くす先生に気づく。
無表情で棒立ちなのが超怖い。
「じゃあね、ルイ。健闘を祈るよ」
「あぁ! …オレが戻らなかったそのときは、サヤを頼むよ…」
「うん、確かに頼まれたよ」
「…逝ってくる…」
この一連の茶番で明らかに怒りを倍増させた美少女先生とともに、オレは職員室へ向かうのだった。