第四章 少女の想い(4)
出血、暴力的なシーンの描写があります。
苦手な方はご注意ください。
真木名先生が去り、オレとナハトだけが残された教室に、今日知り合ったばかりの生徒会長の声で校内放送が流される。
どうやら部活生などへの完全下校の呼びかけのようだ。
心地良い美声を背景に、オレたちは帰る支度をする。
「…ふぅ、………やっと終わりました……。ここまでの苦行は魔界でも味わったことがありませんでした」
「そうだね。キミがもうちょっと早く文章を書けたら、ここまでの苦行にはならずに済んだんだけどね」
両腕を上げて伸びをするナハトに小言を言うと、疲れを帯びたジト目で睨まれた。
「貴方が隣でソワソワしていたから、集中出来なかったんです」
「おまえがうーうー唸ってるから気になってたんだろ」
反省文に手こずるナハトは、端から見ていてそれはもううるさかった。
私語ではなく、わざとでもないだろうから真木名先生は放置してたけど、隣で勉強しているオレにとってはいい迷惑だった。
ただでさえコイツの付き合いで居残りさせられてんのに。
「反省文なんて書いたことがなかったから仕方ないんです。大体、少しものを壊した程度がなんだと言うんですか。人界の退魔士たちでもあの程度はすぐに修復できるはずです」
「魔界がどうかはしらないけど、コッチじゃ他人のものを壊したら罪に問われるんだぞ。弁償させられなかっただけ助かったと思っとけよな」
「…フン、狭苦しいところですね、人界は。………ジル様は何が楽しくてこんなところに……」
最後の言葉は独白のようだったが、割と近い距離で話していたからか、それともナハトが単にグチをこぼしたかっただけなのか、オレの耳にもしっかりと届いていた。
「…なぁ、ナハト。ひとつ訊いてもいいか?」
「…………。…ひとつだけですよ…」
ナハトはオレから顔を背けるようにして机に突っ伏し、そう応えた。
オレは少女の後頭部に向かって問いかける。
「おまえは、ジルのことをどう思ってるんだ」
「………愚問ですね。私はジル様を心から敬愛し、お慕い申し上げています」
「…具体的に、ジルの何がおまえにそこまで言わせるんだ?」
「すべてです。ジル様は潔白で、清廉で、気高く、慎ましく、可憐で、繊細で、勇敢で、不屈で、聡明で、鋭敏で、誠実で、優雅で、慈悲深く、寡欲で、純粋で…。…数え上げればキリがありません」
「なんだか神様みたいなヤツだな」
「それに最も近いお方であることは間違いないですね」
…うーん。
ジルが言ってた『ナハトは自分を崇めて心酔してる』って言葉の裏付けが取れちゃったな。
「フフ、どうやら貴方もジル様の素晴らしさにようやく気づいたようですね。いいでしょう、ではこのナハトがジル様の魔界でのご活躍ぶりを今から説明して…」
「いや、それはまた今度にしてくれ。今は訊きたいことがあるって言っただろ」
オレの質問の意図を都合よく解釈したナハトがこちらに向き直り、揚々とジルの英雄譚を語ろうとしていたところを遮ると、ナハトは見るからに不機嫌になった。
「…む、質問は先程のことじゃなかったのですか」
「あれはホントに訊きたいことの前座みたいなもんだ」
「でもひとつはひとつです。もう質問は終わりです」
「頼むよナハト。サヤに頼んでおまえの夕飯のおかず増やしてもらうからさ」
「…………それで、本当に訊きたいこととはなんなのですか」
…悪魔ってみんな食欲に忠実だな。
扱い易くて助かるけど。
オレは夕飯のことを想像してはやくもよだれを垂らしそうになっているナハトに、本題を示した。
「…おまえは、人界でのジルのことをどう思ってるんだ?」
その言葉にナハトは僅かに動揺した。
「…………。同じことです。私は変わらず、ジル様を敬愛しお慕い申し上げています」
「……本当か?」
「しつこいですね。貴方に嘘をついてもなんの得にもならないじゃないですか」
「じゃあ、オレの目を見て言ってくれ」
「……嫌です、何が悲しくて貴方と見つめあわなければならないんですか」
「ジルのためだ」
「……?」
ナハトはオレの言葉に、今度は怪訝を示した。
「ナハト、おまえはジルと約束しただろ。オレと友好的に接するって。オレはお前が正直に答えてくれないと、お前を心から信頼することができそうにない。一度殺されかけてるしな。だから、ジルとの約束を守るためだと思って、オレの願いを聞いてくれないか?」
そう言うと、ナハトは少し困ったように顔をしかめたが、やがて小さく息をはいた。
「仕方がありませんね。ジル様のためです、応じましょう」
そしてナハトは、オレを真っ直ぐに見つめる。
「…私は、人界でのジル様を、魔界の頃と同様、心からお慕いしています…」
「…………。なるほど、よくわかったよ。……それは嘘だな」
「な…!? 何を根拠にそんなことを!」
「おまえは知らないかもしれないけど、人界の人間たちは目と目で見つめあうことで、相手が嘘をついてるかどうか見破ることができるんだよ」
「そ…んな…、は、謀りましたね!?」
いや、もちろん嘘だけど。
「悪く思うなよ。で、ホントはどう思ってるんだ? 人界でのジルのことを」
「う…。そ、それは……」
ナハトの視線は泳いでいた。
やっぱり、ジルに関してなにか思うところがあったようだ。
オレは更に問いつめる。
「ホントは、今のジルは、自分の理想と違う…なんて思ってたんじゃないのか?」
「そんな…ことは…!」
「人界で『普通』の少女として振る舞うんじゃなく、誇り高い『王女』ジルに戻ってほしいと、思ってたんじゃないのか?」
「あ、貴方に何の関係があるんですか!!」
「あるよ。オレはアイツを友達だと思ってる。それより、話を逸らすなよ。おまえは人界でのジルをどう思ってたんだ」
「…貴方のせいです!! 貴方がジル様を堕落させなければ、ジル様はきっと今だって!!」
「…………」
苦し紛れにそう叫んだナハトは、自分が何を言ったのかを悟ってハッとした。
オレは静かに、ナハトが放った言葉を反芻する。
「…今のジルは堕落した。そう思ってるんだな」
「…違います………私は、ジル様は、ジル…様に……」
ナハトは混乱しているようで、ポツポツと口に出される言葉も意味をなしてはいない。
「何をもって、ジルが堕落したなんて思うんだ。おまえが理想とするジルから、アイツが離れていってるからか?」
「私は! ………ジル様を……ジル様が…」
「…………」
もはや会話にすらなっていなかった。
「…はっきり言うぞ。おまえはジルに理想を押しつけてるだけだ。ジルのことなんざ考えちゃいない」
「…………ジル様………。……貴方が…」
「…誇り高い『ジル様』を補助することで、間接的に自分の評価を高めたかったんじゃないのか。だから、今のジルが受け入れられないんだろ」
「……ちがう…………貴方が……………貴方が………ッ!」
「…もっと、ありのままのジルを見てやれよ。……ジルはおまえ…」
「…お前がァッッッ!!!!」
空間を揺らすような叫びを上げたナハトがオレの胸ぐらをつかむ。
そのまま机を蹴散らしながら猛烈な勢いでオレを教室の壁に叩きつけた。
「…ッ!!!」
強烈な衝撃に、オレの呼吸が止まる。
目の前には、その赤い瞳に燃え盛る怒りを宿した少女が、オレの胸ぐらをつかんだまま立っていた。
オレを壁に叩きつけるだけでは気が済まなかったようで、人間とは一線を画する膂力でオレを殴りつける。
「お前がッ!! ジル様を、たぶらかしたんだ! 下賎な、卑しい、クズの、人間風情が! 私の、私だけの、ジル様を、お前が、お前が! 奪ったんだッ!!」
壁を揺らす轟音に混じって、オレの体が悲鳴を上げるのが聞こえた。肉の裂ける音、血管の破れる音、骨のきしむ音、砕ける音…。
「返せ! 返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せかえせかえせカエセカエセカエセ!!!」
まるでバトル漫画みたいに、オレの体が壁に埋まってゆく。
「お前さえいなければ、ジル様は、私は! …お前なんか…………死んでしまえッ!!」
ナハトの怨念が結集したかのような一撃でとうとう壁が崩壊し、オレは隣の教室へと投げ出される。
血まみれになって転がりながら、オレは大魔導士とジルのやりとりを思い出していた。
「…な、にが…危害を加えられなくなる、だ…。適当なこと、言いやがっ……て…」
オレの体はすでにボロボロで、グチをこぼせたのが奇跡と言っていいくらい、五体が言うことを聞かなかった。
半死半生の状態で床に転がるオレに、ゆっくりと赤髪の悪魔が近づいてきた。
「………まだ死んでいないんですね。…そのしぶとさだけは評価します…」
どうやら多少は落ち着きを取り戻してくれたようだ。
でも状況はたいして変わっていない。
「あと、認めたくはありませんが、分析力についても評価しておきましょう。貴方が言うように、私はジル様に自分の理想を押しつけていたのかもしれませんね」
「…わかってくれて……なにより」
辛うじて言葉を振り絞る。
《大魔王の英魂》が自然治癒力を高めてくれているようで、さっきよりは楽になった。
…痛覚が機能しなくなっただけかも知れないが。
「ですが、それは貴方も同じことでしょう? 貴方だって、貴方の勝手な価値観でジル様を惑わしている」
「………そう、かもな…」
そういや、人界での生活について、詳しく聞いてみたことはなかったかも…。
「ですから、どちらが正しいとも、間違っているとも言えないはずです」
「……じゃ、どうすんのさ……」
オレが訊ねると、ナハトは妖しく笑ってみせた。
…イヤな予感しかしないな。
「決まっているでしょう。魔界の掟は弱肉強食。強いほうの意見が通ります」
ナハトはオレの足首をつかまえ、楽々とオレを持ち上げる。
オレを逆さまにつり上げたまま、ナハトは不敵にこう続けた。
「そして貴方はここで死んでしまいます。これでジル様が思い悩むこともありません。一件落着というものです。……もし何か言い遺すことがあれば、聞いてあげますよ?」
「……………そうだな、今度はスパッツじゃなくてカワイイ下着をつけてきてくれ」
「……さようなら」
ナハトが不快に顔を歪め、オレを投げ飛ばそうと足首を持つ手に力を込める。
…今度はホントに死ぬかもしれないな。
オレがなぜか他人事のようにそう思ったとき、教室の外が神々しい光に包まれた。