第一章 喜劇は繰り返す(3)
この艶桜学院の校舎は三階建ての建物をカタカナの『コ』の字に組み合わせたような形をしていて、オレたちの教室は二階に位置している。
職員室や生徒指導室、保健室その他も二階にあるので移動時間としてはたいしたことないんだけど、オレにとってその時間は悠久のものに感じられた。
誰だ、光陰矢の如しなんて言ったやつ。
少なくとも矢を回収しにいく弓道部員よりは遅い。
「そんなに緊張しなくてもいいですよ、星見くん」
「は…はい……」
オレの様子が気になったのか、真木名先生が慈悲深いお言葉をかけてくださった。
しかしこれから恐怖の時間が待ち受けているかもしれないこちらとしては、そんな許可は出すだけ無駄というやつだ。
オレは凝りに凝り固まった筋肉をほぐすこともままならない状態で無言の真木名先生についていく。
「「…………」」
うわ〜、めっちゃ気まずい。
先生も一応先生なんだからなんか話題でも提供してくれないかな。
言葉どころか足音すら立てないんだけどこのひと。
実は地面から三ミリくらい浮いてるんじゃね?
とか、オレが失礼なことを考え始めたとき、無言を貫くオレたちに声をかけるひとが現れた。
「…あらあらあら? そこを行くのは、もしかして星見ルイくんですか?」
「え…?」
オレは聞き覚えのない声に名指しを受け、少し戸惑いながらも声の出所をたどる。
そうすると、保健室の前に白衣を着た天使が佇んでいた。
「あ、やっぱり星見くんですね…」
その天使の背丈はオレより少し低いくらい。
眼鏡をかけたその顔は童顔ではあるものの、そのあか抜けた印象からは天使が成人を迎えた大人であろうことが伺える。
整った美貌を形成するのは、少したれ気味の慈愛に満ちた碧眼、すっと通る鼻筋、柔和な微笑を絶やさないほんのりと桃色に色づく形のよい唇。
そしてキメ細かく、透き通る美白の肌、ゆるくウェーブのかかった重量感を感じさせない金髪のロングヘアである。
さらには、というか一番に読者諸兄へ報告すべき身体的特徴はそのボディーにあった。
華奢に見えて適度に肉付きのよいその体格において、男子諸君の視線を暴力的に捕らえて離さない物体はオレの眼前で誘うように上下に揺れる。
オレが至高のふくらみに視線を強奪されていると、天使がどんなに荒んだ心も一瞬で癒すような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「…よかったぁ、元気そうで。ここに運ばれてきたときはびっくりしたんですよ?」
「えっ…と、あの…」
「…これは天川先生。おはようございます」
天川先生と呼ばれた天使はその豊満なわがままボディーを真木名先生へと向け、律儀に一礼した。
オレの視線がどこにあったかは報告するまでもないだろう。
「あ、おはようございます、真木名先生。ごめんなさい、お急ぎでしたか?」
「いえ、おかまいなく。どうやらウチの生徒がまだ挨拶に行っていなかったようで失礼しました」
真木名先生はそう言って、少し不機嫌そうな眼差しでオレを見た。
「こちら、養護教諭の天川ふわり先生です。星見くんは覚えていないのでしょうが、一週間前の件では大変お世話になっていますよ」
「そ、そうだったんですか!? あ、オレ、一の三の星見ルイです! 挨拶が遅れてすみません、その節はお世話になりました!」
「いえいえ。わたしも仕事ですからいいんですよぉ。それより、その後の調子はどうですか?」
「はいッ! 全然元気です!」
「…それはよかったです。今後も、なにかあったら保健室まで来てくださいね」
「ぜ、ぜひ!」
まさかこんな天使に会えるとは思っておらず鼻の下を伸ばしまくるオレのテンションは、天井をたたきまくって上の階のひとに不快感を与えるくらいには高まっていた。
しかしどうやらオレが不快にしたのは上階のひとだけではなかったようで、隣の真木名先生もなにやらピリピリとしたまま職員室へとまた歩き出す。
「あ、ちょっと先生! 待ってくださいよ!」
「星見くん、早く来てください。ワタシは忙しいんです」
さっきと言ってること違うじゃん!
「ワタシはおかまいなく、とは言いましたがヒマだとは言っていません」
「しかも心を読まれた!?」
「では、天川先生。これで失礼します」
「はい、また後ほど」
ホントにちょっと失礼していた真木名先生にも笑顔で応える天川先生。
外見も内面も天使のようなひとと過ごしたひとときは、ここ最近悪魔に振り回されっぱなしだったオレにとって、まさに天国のような時間だった。
そして、山があれば谷、地獄の時間が訪れる。
「…さて、ここに星見くんを呼んだ理由ですが……キミにはわかりますか?」
「ぃえ……見当もつきません……」
教室を出たときより明らかに険悪なオーラをまとっておられる真木名先生は、さながら罪人を前にした閻魔のようだった。
オレは身に覚えのない罪におびえながら、判決のときを待つ。
ただでさえ小さい先生が椅子に座っているというのに、威圧感は尋常じゃない
「自覚がないというのは、一番始末に負えないのですよ、星見くん」
「はい…すみません…」
「………今週の初め、何があったか覚えていますか?」
「え? …え〜っと……。……あ〜……?」
「…キミの記憶力はかなり悲惨ですね」
真木名先生はさらっと残酷なことを言いつつ、いつまでも答えの出せないオレに代わってくれた。
「学力診断テストですよ。高校に入学したばかりのキミたちのレディネスを把握する、重要なテストです」
「レディ…?」
「問題はキミの点数ですよ、星見くん」
…なんだか真木名先生の対応がすごいなげやりな気がする。
オレの不満をよそに、先生はデスクの引き出しから数枚のプリントを取り出し、オレに見えるように広げた。
どうやら答案用紙であるらしいそれには、赤ペンで書かれた二桁の数字がでかでかと記されている。
ちなみに、十の位を四捨五入するとすべて仲良くゼロになる数値だ。
「各教科の先生方からいただいたものです。まぁ、見てわかる通りすべて欠点ですね」
「こりゃひどい」
オレは思わず顔をおおった。
まさしく目も当てられない成績である。
いったい誰がこんな破廉恥な点数をマークしたというのか。
「これはワタシのクラスにおける各教科の最低得点であると同時に、あるひとりの生徒の成績でもあります」
「ほぅ、めずらしいこともあるもんですね」
「他人事のようにしゃべっていますが、これはあなたの成績ですよ、星見くん」
「いやぁ、バレましたか」
「…………」
「…………」
「………これ以上ふざけていると…」
「すみませんでしたぁッ!!」
オレはその場で瞬時に土下座をし、なんとかことなきを得たところで、あらためて先生に問うた。
「それで…オレはこれからどうしたらいいんでしょうか…?」
「そうですね…。まずは反省することです。なぜこんな悲惨な成績を記録してしまったのか、自らの生活を省み、勉学に励む環境を整えなさい」
「ははー…」
オレは土下座をしたまま、従順な生徒を演じつつ先生の言葉に相づちをうつ。
あとは先生の気が済むまで説教に付き合えば解放されるはずだ。
…我ながらイヤな生徒である。
「どうも星見くんは集中力の続かないところがあるように思います。妹さんはあんなにしっかりされているのですよ、もう少し兄としての矜持を持ってはどうですか?」
「ははー…」
「…。以前、キミのご両親にお会いしたことがあります。お二方とも立派なひとでした。キミもその気になれば、平均以上の成績を残すなど造作もないことだとワタシは思うのですが」
「ははー…」
「………。しかし、心得ばかりを説いてもキミにはあまり効果はないでしょう。なので、もっと実のあることをします」
「ははー…」
そろそろ説教が終わりそうな気配を察し、オレは顔を上げる。
「…というわけで、星見くんは今日から毎日、放課後に補習を行います」
「はは……えええぇぇぇぇえぇぇぇッッッ??!」
あれ?!
いつの間にそんな流れになってたんだ?!
ちゃんと話聞いてればよかった!
「異論は受け付けません。キミが放課後に何も予定を入れていないことは知っています。今日から毎日、ワタシの監視下のもとでみっちり勉強してもらいますよ」
「そんな!! 先生、それだけはカンベンしてください! お願いします!」
「……。まぁ、この処置がイヤだと言うのなら仕方ありませんね…。妹さんにこの成績をお見せして…」
「ごめんなさい! どうか補習を受けさせてください! お願いします!」
こんな成績がバレたら軽いラマダーンみたいなことされちゃうよオレ!
最近やっとごはんにありつけるようになったのに!
オレは職員室の床に何度も頭をこすりつけ、周りの先生方から白い目で見られながらも真木名先生との放課後補習の約束をとりつけたのだった。