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第1話 友達のお兄ちゃん

 隣の布団が、空だった。


「……京介?」


 夫の実家の客間で、沙耶は上体を起こした。枕元には二人分のスマートフォンが並んでいる。喉が渇いて目を覚ましたのだが、呼びかけても返事はなかった。


 トイレだろうか。


 廊下へ出ると、洗面所は暗かった。二階からかすかな声がする。階段を上がる途中で、それが真由の声だとわかった。


 夫の妹。そして、高校時代からの親友。


 少しだけ開いた扉へ、沙耶は何の警戒もせずに近づいた。


 その向こうにいた二人を見て、足が止まった。


 同じベッドに、京介と真由がいた。


 兄と妹が夜更けの雑談をしているのだと、思おうとした。けれど、二人の距離も、交わしている言葉も、その解釈を許してくれなかった。


 息を吸ったはずなのに、胸に空気が入ってこない。


 私は、すぐ下で寝ていたのに。


 壁についた手が滑った。声を出せばいい。名前を呼べばいい。それだけのことが、できなかった。


 真由。どうして。


 あなたにだけは、何でも話せたのに。


     *


 京介を好きになった日のことを、沙耶はずっと覚えていた。


 高校に入ったばかりの春だった。


 体育館には、床を蹴る靴の音が響いていた。隣で真由が手すりに頬杖をつき、コートを指さす。


「ほら、七番。あれ、うちのお兄ちゃん」


 ボールを受けた男子生徒が、相手の脇を抜けた。軽く跳んだと思ったら、ボールはリングの中へ落ちていた。


 歓声が上がる。


 沙耶は拍手をしかけ、そのまま彼を見ていた。


 七番の彼は、得点を喜ぶより先に、接触して床に尻もちをついた味方へ手を差し出していた。引き起こしながら何か言い、二人で笑う。


 その笑顔が、妙に胸に残った。


「……かっこいいね」


「え。お兄ちゃんが?」


 真由がこちらを向いたので、沙耶は慌ててコートを指さした。


「今のシュート。すごかったから」


「顔、赤いけど」


「体育館が暑いんだよ」


 窓からは、まだ冷たい春の風が入っていた。


 真由はそれ以上からかわず、にやにやしながら前へ向き直った。その横顔を見て、沙耶まで笑ってしまう。


 高校に入ってすぐ、席が近かった。それだけで話し始めた相手なのに、真由とは妙に気が合った。昼休みに購買へ行くときも、帰りに寄り道するときも、どちらからともなく隣を歩くようになっていた。


 翌週、初めて真由の家へ遊びに行った。


「沙耶ちゃんね。いらっしゃい」


 玄関で迎えてくれた母親の恵子は、娘によく似た目元をしていた。


「真由から、いつも聞いてるわよ」


「変なこと言ってないですよね?」


「言ってないってば」


 真由が沙耶の背中を押す。その拍子に廊下の奥から人が現れ、沙耶は思わず立ち止まった。


 体育館で見た七番の人だった。


 制服の上着を脱ぎ、片手に教科書を持っている。コートにいたときよりずっと近くて、何を言えばいいのかわからなくなる。


「真由の友達?」


「そう。沙耶」


「こんにちは」


 声が小さくなった。京介は聞き返さず、同じように挨拶をしてくれた。


「この前、試合見に来てたよね」


「覚えてるんですか?」


「二階にいたでしょ。真由の隣」


 見られていた。


 それがうれしいのに、うれしいと知られるのは恥ずかしい。沙耶が返事を探していると、真由が横からあっさり言った。


「沙耶、お兄ちゃんのこと、かっこいいって」


「真由!」


「言ってたじゃん」


 京介も少し困った顔をした。それでも、笑ってごまかすのではなく、沙耶を見てくれた。


「……ありがとう」


「シュートが、です」


 慌てて付け足すと、彼はうなずいた。


「そっか。次も入るように練習しないとな」


 からかわれなかったことに、ほっとした。


 真由の部屋へ上がってから、沙耶は鞄を下ろすより先に抗議した。


「なんで言うの」


「だって、本当のことでしょ」


「そうだけど。そういうのは、勝手に言わないで」


「はいはい。ごめん」


 真由が両手を合わせるので、怒った顔を続けられなかった。


 部屋の小さなテーブルには、雑誌が何冊も積まれていた。恵子が持ってきてくれたマグカップを挟み、二人でページをめくる。欲しい服の値段を見て同時に黙り込み、次のページの靴を見てまた笑った。


 夕方、鞄を持とうとした沙耶を真由が呼び止めた。


「これ、半分こしない?」


 差し出された袋には、小さな花の形の髪留めが二つ入っていた。ピンクと、水色。


「二個セットだったんだけどさ。どっちも好きで、決められなくて」


「いいの?」


「沙耶、ピンク似合いそう」


 言いながら、真由が沙耶の前髪に留めてくれた。指先が額をかすめて、少しくすぐったい。


 真由は自分に水色をつけ、鏡を二人の真ん中へ置いた。


「どう?」


「かわいい」


「私が?」


「髪留めが」


「そこは私って言ってよ」


 肩が触れるほど寄り合って、笑った。


 鏡の中の自分たちは、昨日より少し親しい二人に見えた。学校で出会ってまだ日が浅いのに、これから先もこうしている気がした。


「明日もつけてきてね」


「うん。真由もね」


 玄関で靴を履くと、奥から京介の声がした。


「気をつけて」


 沙耶は振り返って頭を下げた。彼のそばで、真由が大きく手を振っている。


 帰り道、何度も前髪に触れた。


 好きな人ができた。


 その気持ちを、最初に話せる友達もできた。


 春の夕暮れの中で、沙耶はそれを疑いようのない幸せだと思っていた。


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