魔笛
化物草紙 実話怪談短編集用に作っていた話です。
時間が経ったらそちらに加えます。
この間、長野の友人Iから聞いた話だ。
Iの知人に、学生時代ワンダーフォーゲル部に所属していたHさんという人がいる。これはそのHさんが大学生だった頃の話らしい。
当時、Hさんたちは夏合宿で北アルプスを縦走していた。
顧問の教員を含めて10人ほど。
今ほど装備も充実しておらず、地図とコンパスを頼りに何日も山を歩くような部活だったという。
その日も予定通り山小屋を出発し、次の幕営地へ向かっていた。
ところが午後になると天候が崩れ始めた。
ガスが出て、視界が悪くなる。
気づけば列の最後尾を歩いていた1年生が見当たらなくなっていた。
引き返したのか、道を間違えたのか。
誰にも分からない。
Hさんたちは数人ずつに分かれて周辺を捜索することにした。
もちろん本来なら危険な行為だ。
だが日没も迫っていた。暗くなる前になんとしてでも見つけなければならない。
Hさんたちは名前を呼びながら周辺を探した。
「おーい!」
返事はない。ガスはどんどん濃くなる。視界は20mもない。
そんな時だった。どこか遠くから音が聞こえた。
ピーーーッ。
笛だった。救助用ホイッスルのような高い音。Hさんは立ち止まった。また鳴る。
ピーーーッ。
「いたぞ!」
誰かが叫んだ。
1年生が笛を持っていたのだろう。
皆で音の方へ向かう。
しかし妙だった。
歩いても歩いても距離が縮まらない。
しばらくするとまた音が鳴る。
だが今度は別の場所から聞こえた気がした。
「こっちじゃないか?」
「いや、あっちだろ」
メンバーの意見が割れる。
その間にも日没のタイムリミットは迫っていた。
ピーーーッ。
再び音が鳴った。
すると今度は別の部員が言った。
「聞こえた!」
Hさんは頷いた。
「返事してますよ!」
返事?
Hさんには笛にしか聞こえなかった。
確かにその部員は人の返事だったと言う。
だが別の部員は首を振った。
「いや、石を叩く音だろ」
さらに別の部員は、
「女の人の声だった。別の遭難者じゃないか?」
と言った。
その場が静まり返る。
誰も冗談を言っている様子ではなかった。
ただ1つだけ共通していた。
何かの音が聞こえていること。
そして、その音が自分たちを誘うように少しずつ先へ移動していることだった。
気味が悪くなったHさんは捜索を打ち切ることを提案した。
これ以上追うべきではない気がしたという。
結局、その1年生は4時間後に救助隊によって発見された。
捜索していた方向とはまるで逆。
登山道脇の窪地で雨具を被り、じっと救助を待っていた。
怪我もなく無事だった。
その後、無事に人里まで下りてきたHさんたちは、山中で聞いた音の話を救助隊にしようとした。
しかし話をまとめようとしても、誰1人として同じものを聞いていない。
その時、1人だけ妙なことを言った者がいた。
「この話は絶対にしない方がいい」
なぜか理由を聞いても答えなかった。
しかし、Hさんは別の遭難者の可能性を考えると伝えずにはいられなかった。
だが救助隊はメンバー間での証言の矛盾から、まともに取り合ってもらえず、顧問からは緊急時にふざけるなと説教までされたらしい。
それから何年も経った。
卒業後、何度か同窓会が開かれたが、その話題は自然と避けられていたという。
そしてある年、酒の席で1人が思い出したように言った。
あの時、救助隊に話すべきじゃない、と言った男だった。
「あの時さ、音だけじゃなかったよな」
その瞬間、場が静まり返った。
誰も続きを聞かなかった。
否定もしなかった。
ただ黙っていた。
Hさんは首を傾げた。
自分は音しか聞いていない。何の話だろうと思った。
だが、その場にいた他のメンバーの反応は違った。
みんな、急に俯いてグラスを見つめている。
誰も「何が見えたんだ」と聞き返さない。
まるで、その場にいる全員がすでに答えを知っているようだった。
後になってHさんは思ったらしい。
あの日、聞こえた音が人によって違ったように、見えたものも人によって違ったのではないか。
そして、自分だけが何も見ていなかったのではないかと。
聞こうと思えば聞けた。
あの時、お前らは何を見たんだ、と。
だが結局、聞かなかった。
もし全員が違うものを見ていたら。
そして自分だけが見ていなかったのだとしたら。
その答えだけは、今でも聞いていないそうだ。




