03 IGNITE - 01 -
アキが十四歳まで暮らしていたチェルシーは、イギリスの首都ロンドン中心部から南西に位置する。
北にはケンジントン、そしてハイドパークが広がっている。
チェルシー中心部を東西に走るキングス通りには、商業施設が並んでいる。
アキの父はキングス通りの小さな店舗でアジア雑貨店を、アキの母は下北沢で英国雑貨店を営んでいる。
それ故アキは、ほぼ父方の祖母に育てられたようなものだった。
キングス通りとテムズ川のちょうど真ん中あたりに祖母の生家はある。
アキにとっては他のどの場所より落ち着く、温かい記憶が詰まった家だ。
十四歳の終わりに、アキは両親から自分のルーツを体験させるという名目で日本に渡る事になった。
自身の中にその血が流れていて年に一度は必ず訪れていたとはいえ、アキにとっては全くの異国であった。
その頃、母の兄の家庭が崩壊した。
伯母は家を出て従兄妹の京也と麻美、二人が家に取り残された状態になった。
アキの母は二人を、特に麻美を不憫に思い週に二回京也の家に通った。
不在がちではあったが多大な愛情を注いでくれた父と、温かな愛で包んでくれた祖母。
二人と別れ、慣れない土地で暮らすアキには大きな戸惑いであった。
慣れない環境。母親の愛情の希薄さ。
アキは自分を異邦人だと感じた。
それは十一年経った今でも変わらない。
アキにとって一番心安らぐ場所は、今もなおこのチェルシーの住宅街だった。
まばゆい光の中、京也が振り返り微笑む。
とても華やかだ。
アキは目を覆う。
──やめてくれ。もう見たくない。
息苦しさと共に目覚める。
──嫌な夢。
アキはロンドンに着いてすぐに体調を崩した。
猛暑の日本から十五度も気温差のあるロンドンに来てしまったのだから。
今も昼過ぎからうたた寝をしていたところだ。
もう一週間ばかり、こうして自分の部屋からロンドンの薄曇りの空を見るでなしに見ている。
だが、この日は幾分体調が良いようだった。起き上がり身支度する。
いくら心地よい自分の部屋でも、さすがにこのまま幾日もこうしているのは苦痛だった。
何のために東京から出て来たのかわからない。
アキはジャケットを羽織り、二階にある自室から階下へ足を運んだ。
リビングのお気に入りの椅子で寛いでいるはずの、祖母ベラの元へ向かう。
ポプリのやわらかい香りがアキの鼻をくすぐった。
「グラニー、ちょっと出てくるよ」
「あら、アキト。今日はだいぶ顔色がいいようね。良かった事」
ベラは読みかけの本を傍らに置く。
真っ白の髪をバレッタで纏め、チャーミングな笑みを少しふくよかな顔に浮かべた。
「グラニーのお陰だよ。すっかり良くなった。ありがとう」
アキはベラの頬にキスをする。
「いいのよ。アキトにはずっと会えなかったからね。このくらいの看病ではまだまだ足りないわ」
ベラはアキがジャケットを羽織っている姿に目を止め、
「出かけるの? じき日が暮れるわ。まだ本調子ではないんじゃない?」
心配そうな瞳をアキに向けた。
「大丈夫。もうすっかりいいんだ。退屈すぎて気が滅入っちゃうよ。⋯⋯もちろん、グラニーの側にいられるのは嬉しいことだけどね」
アキはベラの足元に跪き、ベラの膝に顔をうずめた。
「そうね、もう幼い子供じゃないのだものね。でもね、無理をしては駄目よ」
「解ってる。大好きだよ、グラニー。行ってくるね」
アキは立ち上がり、もう一度ベラにキスをしてから家を出た。
何という温かさだろう。
十一年も無縁だった温かさ。
アキは幸福に身を震わせた。
アキはレインロー公園を抜け、テムズ川に向かった。チェルシーブリッジを渡り、バターシーパークへ。
今にも雨が落ちてきそうな空は低く、公園内の木々は黒く染まり始めている。
──こんな時間に出てきたのはまずかったか。少しも気が晴れない。
アキは踵を返し、再びチェルシーブリッジへ足を向けた。
日本でなければどこでも良かった。
あのままいれば、落ち着く事など出来なかった。
街を歩けば二か月後に発売される京也のソロアルバムのポスターが、否応なしにアキの目に入る。
目を逸らしても、それでもなお京也の瞳がアキを追う。
メンバーに会えばじきに帰国する京也の話題が持ち上がる。
耳を塞ぎ、その場を飛び出す事も出来ない。ただ虚ろに彼らの話を聞く以外なかった。
惨めさに心が引き攣れた。
次回から死生観に関するセンシティブな表現が含まれます。
あらかじめ冒頭にてお断りさせていただきますが、ご了承いただけますようお願い申し上げます。




