01 FALL - 01 -
「え? 明日ロンドンに発つ?」
切れ長の目を大きく見開きながら、能代秀之は振り返った。
二人分のグラスを左手に持ち、右手の先には二ヶ月程存在を忘れていたアイリッシュ・ウイスキー。
「えらく急じゃねえか」
グラスとウイスキーをカウンターに置き、前髪をかき上げながら自分を驚かせてくれた人物を窺い見る。
秀之の視線の先には、ひとりの若い男。
日本人にしては白すぎる肌。
今までは日本で浮かないようにと黒く染められていた、柔らかな栗色の髪。
大きめの瞳は明るい茶色で、細い鼻梁と薄めの唇はどこか女性的だ。
白いシャツをルーズに着こなし、タイトなブラック・ジーンズを履いている。
「二週間も音沙汰なしで、ゆうべになってようやく電話してきたと思ったら、ロンドンに行くって? 一体どうしたってんだよ? アキ?」
秀之は方眉を上げ、探るようにアキ──清水暁人を見詰めた。
秀之とアキは共にロックバンド『ルアード ジャングル』のメンバー。
秀之がギタリスト、アキはヴォーカリストだ。
「ごめんなさい。ずっとジェイの所にいたんです」
「そうだろうと思ったよ。別にたいした用じゃなかったからいいんだけどさ。で、何でロンドンに行くんだ?」
冷えたグラスにロックアイス。
ウイスキーを六分目まで注ぎ、するりとマドラーを入れる。
ミネラルウォーターを添えてアキに渡す。
「今回のオフは長いし、ここ三年くらい父親に会ってなくて。それに祖母が会いたがっているみたいなんです」
アキの表情は硬く、どこか不自然だ。
「理由はそれだけ?」
「そうですよ。⋯⋯どうして?」
「おまえの顔がそう言ってる」
秀之はいつも皮肉な笑いを口元に浮かべ遠慮のない攻撃的な言葉を口にするが、その反面洞察力が鋭い。
二人が初めて会った時も、二度目に会った時も、秀之はアキの気持ちを見抜いた。
アキがどんなに自分の気持ちを隠そうとしても。
「嘘じゃありませんよ」
アキはどうしても本当の理由は言えなかった。
「⋯⋯そっか。それならいいけど」
小さな溜息をついて、秀之はウイスキーを口にした。
「俺、もう帰らないと」
二十二時を少し回った頃、アキが切り出した。
「そうだな。あんまり遅くなってもな」
秀之は壁に掛けられた、何の飾り気もない時計に目を移した。
アキにロンドン行きを告げられてから、すでに二時間半経過していた。
「準備はできてんのか?」
「ええ。帰省するだけですから」
「おまえ電車で来てるんだっけな。⋯⋯免許持ってないの? 遠征とかどうしてた?」
秀之は立ち上がりながら苦笑した。
「運転はジェイに任せてました」
「東京の東の端に住んでねえで、こっちに越してくりゃいいのに。他の奴等もこの辺に住んでるんだし」
秀之の住むマンションは東京の中心からやや西、神奈川寄りだ。
秀之は酔いが回って軽く頭痛のする頭を押さえながら立ち上がり、玄関へとアキを導いた。
「そう思わねえ? ここから五十分はかかるだろ。結構不便じゃねえ?」
秀之はただの思い付きで言い、アキを振り返る。
その目に映ったのは、まるで無理難題を押し付けられたように眉根に皺を寄せたアキの顔だった。
「⋯⋯どうかしたか? そんなにこっちに来るのが嫌か?」
「そんな事はないですよ。ただ、長い間住んでるから」
アキは慌てて取り繕う。
「じゃあ俺はこれで。お土産買ってきますよ」
「気を付けてな。十一月の末には戻ってこいよ」
秀之は訝しみながらも優しく言った。
「ええ。必ず」
アキはそう答えると真っ直ぐエレベーターホールに向かっていった。
その後ろ姿がエレベーターに吸い込まれるまで、秀之はドアの前で見送った。
──ロンドン行きの理由は、あれだけじゃないだろうな。京ちゃんもじき帰ってくるし。
エレベーターの表示が動きだすのを見届けると、秀之は溜息と共に部屋に入っていった。
東京の西から東へ。
途中路線を変えて人も疎らな電車に乗り、アキは座席に身を沈めた。
誰かに気付かれるのを避け、俯く。
『理由はそれだけ?』
秀之の言いたい事は、アキには充分にわかっている。
同時に、嘘を見抜かれているのもはっきりと感じていた。
アキは自分自身の話を、秀之はもとより他人にはあまりしない。
自分の弱みを他人に見せるのは、アキにとって何よりも我慢がならない事だからだ。
自分を見えない壁で隠し、取り澄ました顔で笑う。
アキには十年来の親友がいる。
十五歳で知り合い、ずっと同じパンクバンド『セデューサー』で活動していたギタリスト。
古臭い名前だからと頑なに本名で呼ばれる事を嫌い、自分をジェイと名乗り続けている。
ジェイはアキが唯一、心許せる存在だ。
彼以外にはアキは本心を見せずにいた。
⋯⋯ただひとつだけはジェイにも言えなかったが。
だが秀之は隠し通そうとすればする程、何もかも悟られてしまう。
アキはそんな気がした。
秀之はそんなアキに対して言葉を選び、やんわりと優しく接した。
アキはその心遣いが嬉しかった。
だが、それと同時に悲しかった。
それ程までに心配されながらも、アキは自分の苦しみを打ち明けられない。
『馬鹿馬鹿しい』
そう言われるのが怖いからだ。
秀之がそんな事を言うはずがない。そう思っても口に出せなかった。
アキにはただひとつ、どうにも消えない想いがある。
河原京也。
すべてがそこへ帰結する。
本編開始です。
ラフ画はロンドン行きを告げられた時の秀之。
家にいる時はこんな感じ。
下は髪色を地毛に戻したアキ。




