わたしがなくなるまで
0:はじめに わたしがなくなるまで とは
この話は実話がベースです。
概念というか思想に近いです。
短くまとめますと
「今、あなたが感知している世界は全てあなたであり、
全てがあなただと気づいた時にはあなたは全体に溶けて無くなっている」そういう話です。
わたしがなくなるまで
<もくじ>
1:兆し・霊感
2:破壊完了
3:全肯定
4:感謝
5:全部自分
6:全部他人 わたしがなくなるまで
1:兆し・霊感
霊やオバケなど信じていなかった。
たとえ霊がいるとしても生身の人間の方が絶対に強いと思っていた。
そんな考えがあったので夜中に森のなかをバイクで走るのも怖くなかったし、
肝試しなんかも平気だった。
18歳の頃、京都市内の病院で夜間事務のバイトをすることになった。
深夜に来る救急患者のカルテを用意したり、医師の往診のために車を運転するようなバイトです。
病院に泊まり込むので待機時間が長かったが給料はよかった。
夜9時になると病院内の見回りや戸締りをするのだがこれも夜間バイトの仕事だった。
ある日、いつものように見回りをしてると廊下の向こうから老人患者が歩いてくる。
ご老人とは目が合っている、、しかし その時なぜか背筋がゾワゾワし始めた。
「これはおかしい、何かヤバイ」と感じた。
身体が危険信号を発している。
「何かヤバイ」いわゆる第6感とかいうやつだろうか。
とにかく、すごく怖い。
ここから逃げたい衝動に駆られるが勤務中で見回り中だ。
僕はゾクゾクする背中、、身体をなんとか抑え込み、老人が過ぎ去るのを待つ。
ご老人は僕の目の前を過ぎ去っていった。
「あれ?・・・・今のなんだったんだろうか、、、?」
これと似た経験を思い返せば阪神大震災の地震が来る直前に感じた時と似ている。
あの時も地震が来る少し前に「これは何かヤバイ!!」と恐怖を感じた。
近いものがある。
僕は病院でのできごとを仲の良い大学の友人に話した、、
どうやら彼は霊が視えるタイプの人間らしく意気投合してしまった。
第六感について興味をもった出来事だった。
その後、病院のバイトは続けるわけだが、またしても決定的に怖い出来事がおこる。
それはまたも見回りをしていたときだ。
病院の駐車場のあたりでまたあの嫌な感じがする。
今度は誰がいるわけでもないが突然、感情のようなものが身体の中に入ってくる。
子供の悲鳴、叫び、悲しみ感情・・?、、、詳しくはわからないが、、
そんな「激情」が身体に流れ込んでくる。
怖い 怖い 怖い これは何だ?
ただただ怖い。
霊とか視えるわけでもない、、ただ、、死んだ人の感情、思念のようなものが身体に入ってくる。
感じるというより、、、勝手に入ってくる、流れ込んでくるのだ。
頭がおかしくなりそうだ。
僕は走って逃げ出した、、、病院の敷地から出て最寄りのコンビニに避難した。
「きつい な、なんだったのだ?あれは・・・」
明らかに霊というのだろうか、他者の強烈な激情が入ってくるような感覚。
憑りつかれるような感覚と言えばいいのだろうか、、、
僕は今度こそ自分の体質を理解した。
どうやらほんとうに霊感があるらしい。
怖すぎる。こんな体質はいやだ。
そもそもその当時は意識していなかったが、
僕は音楽を聴いたり絵画を観たりするときは
感情みたいなのが身体に流れこんでくる。
他の人がどうなのかわからないが、感度のようなものが違うのだろうか。
他の人の感覚はわからないが自分はそういう感覚だ。
人の強い思念というか、実体はないのに人の思念が入ってくる感覚だ。
病院で霊のようなものを感じる体験をしてしまい、興味を飛び越えて少しづつ悩んでいくのであった。
その後、徐々に金縛りに頻繁に合うようになったりして電気を消して寝れなくなってしまう。
それとなぜか電化製品もよく壊れる。
そして、、決定的なできごとが起こる。
例の「視える友人」と車で大阪に遊びに行った帰り道、僕が運転する車で狭い路地に迷い込んだ。
その路地の右手に小さい公園があった。
友人が突然「おい!!ここ進むな!」と言ってきた。
どうやら公園にヤバイものが視えたらしく友人は引き返せというが、、、
狭い道なので僕は車で進んでしまった。
公園に人はいないし何も見えなかったが、、、
しかし公園を通り過ぎた直後に車の後部座席に人の気配を感じる。
「う、、、うわ、、、、しまった!」と心の中で思ったが車を走らせつづけた。
私も友人もこれは何かヤバイぞ と思いながら何事もなかったかのように平静を装う。
私は後ろは見ずに車を運転をしながら後部座席にいる存在に強い言葉、攻撃的な言葉を心のなかで唱えた。
「降りろ」「消えろ」とか「どこかへいけ!!」とかそんな言葉を念じた瞬間だ。
霊が怒って僕の中に入ってきたのだ。
「え?ええ?入ってきた!?やばい!やばい!!やばい!!!」
僕はブレーキを踏んで車を停めた。
友人の方を見るが、、、友人は他人を見る目で私を見ている。
二人とも思わず車から降りる。
僕は友人に助けを求めるが友人は「近づくな!」の一言。
酷いようだが、自分でもわかる。
僕はおかしい・・・
明らかに霊に憑りつかれた。
どうしよう・・・
僕は気持ち悪くなって下を向いた。
少し落ち着こうとした。
きっと霊を怒らせたのだ。
そして心から謝ろうと素直に謝った。
「ごめんなさい」「ひどいことを言ってごめん」と心の中で謝った。
すると、、霊はなんと僕の中に入っていった。
え?入っていくのか、、、出ていかないのか!
漫画とかだと成仏してくれそうなものなのに僕の中に入っていったのだ・・・。
ええ??
だが、僕も気持ちが少し落ち着いた。
そして明らかにヤバイ状況は収まった。
友人が僕を見る目もいつも通りに戻っていたのだ。
その後に友人に聞いたのだが、公園では子供の霊が何人かいたらしい。
友人はすぐにヤバイと思って行くのを止めたのに車を走らせたので乗り込んできたという。
ちなみに僕には霊はまったく見えません。
感じるだけです。
その後、だんだんと霊障(霊による障害)は酷くなっていった。
具体的には、何か良くないものを感じやすくなった。
負の思念をもった霊がいる場所には近づけない。
近づけないというかある境界を越えるとここはヤバイと感じるのだ。
感じるというが、その警告のようなゾワゾワする感覚は強烈で近づくのは無理だ。
もう、近づけない。
金縛り、不眠、電化製品の故障はしょっちゅうである。
僕はだんだんと精神的にまいってきた。
大学2回生で中退してフリーターになり1人暮らしを始めたころだった。
バンド活動とバイトをやって自立をしようと決意したころだった。
1人暮らしで選んだ場所もなぜか京都では有名な心霊スポット近くだったらしく
視える友人からは、なんであんなとこに住むのだと言われたりもした。
たしかになんとなく良い環境ではないとは思った。
そう。
だんだんと徐々に蝕まれていったように思う。
ある夜中に衝動的だが山奥に呼ばれているような気がして死にたくなることがあった。
自殺したくなるという衝動。
なんだ?この暗い感情は。
少しづつ引き込まれていくような感覚。
ダメだ、、、これはまともではない。
20歳のころの僕は。
心の奥底では人並みの生活を求めていたように思う。
普通に彼女とか作って
普通に楽しく大学生活エンジョイして
なんやかんや音楽活動しながらいずれ仕事もするのかな?なんて
しかしこれは、、この状況はなんだろうか?
霊感があって困って、共感できる人や相談できる人もほとんどいなくて。
毎日死にたくなる。
自殺への衝動すらある。
僕は精神的にちょっとヤバいんじゃないだろうかと思い始めた。
ヤバイ時というのは自分ではわかりにくい。
しかし、まずこの部屋に住むのはヤバイと感じた。
夜のバイトも良くないと思った。
逃げ場がなくて気が狂いそうだった。
悩んだ末に、、、僕は自立するのを一旦諦め親に頭を下げて実家に帰らせてもらうことにした。
バイトして自立するという目標は崩れさった。
2:破壊完了
実家に帰ってからも僕は霊障に悩む。
夜が怖い。
霊に悩む自分が嫌だ。
眠れない。
精神が不安定
霊感がいやだ。
あの感覚は怖すぎる。
電気を消して寝れない。
頻繁に金縛りに合う。
屋根を伝って誰か(霊)が部屋に入ってくる。
金縛りが解けたと思ったら、それは夢の中で実際には金縛りは解けていない。
僕は生活を改善するために深夜の病院バイトを辞めて昼間のバイトをすることにした。
夜の世界の活動時間を減らそうと思った。
霊感体質は諦めた。
自立も諦めた。
普通の人になるのも諦めた。
諦めの境地だ。
しかし諦めてしまうと、頑張るのをやめると不思議とラクになった。
なにか「がんばらなければならない」から解放されたのだ。
いったん全て諦めてリセットする。
いったん壊してしまう。
僕はこれを「破壊完了」と名付けた。
自分のなかの「こうあるべき」をすべて捨て諦めたりして破壊してしまうのだ。
落ちるとこまで落ちてしまえばもう落ちれない。
自分の中のでこだわりとか常識や普通を壊してしまう。
僕は霊感で困っていてそれを受け入れる。
破壊を完了させる必要があった。
執着はたくさんあった。
・普通に充実した生活を送りたい
・お金がほしい
・なるべく働きたくない
・彼女がほしい
・音楽で成功したい
・音楽で有名になりたい
・バイクがほしい
・モテたい
なんて・・・あぁなんて 俗欲なんだと思うが本音だった。
しかし、、、諦めた
実家に帰り、昼間の生活をメインにする。
少しづつだけど霊障はマシになってきた気がする。
生活に少しづつ余裕が出て、心にも少し余裕が出ると
僕はこの霊現象のようなものを解決できないかと考えるようになった。
頼れる人はいなかったので図書館で調べてみる(ネットとか発達していない時代ですw)
そして一冊の気功の本を見つける。
気功?
これはもしかしたら霊媒体質が改善できるかもしれないと思った。
3:全肯定
普通の人間になる。
人並みの人生のようなものは諦めた。
金縛りにもあう、なぜか怖くて行けない場所もある、
いきなり霊を感じることもある。
<ここで少し霊について説明>
僕の場合は「感じる」タイプなので霊が見えたことはほぼない。
いきなり身体が感じておかしくなるのだ。
一番ひどいのが上記の大阪で憑りつかれた状態で完全に霊に入られた時だ。
憑りつかれるというのは自分の身体に別の存在が入るので、、ほんとうにヤバイです。
最悪は身体を乗っ取られるというのはあり得ると思います。
それで大学の友人は「見える」タイプで霊がかなり見えているらしい。
友人は京都の鴨川の河原には落ち武者がたくさんいると言っていました。
ただ僕のように感じるわけではないようで霊感があると言っても人それぞれ感覚が違うようです。
ちょうどそのころ通っていた美容師の人で「聞こえる」タイプもいたので霊感と言っても人それぞれなのだと思う。
あと霊障と言っているのは霊現象で何かしらの障害を受けることを言ってます。
それと、これ本当に多いのだけど「霊感」があるという話をすると霊能者と思われることが多い。
霊能者とは何かしら「能力」がある人を指すのであって霊感があるだけの人は「能力」ではない。
どちらかというと病気に近いと思っています。
肌が弱いとかそういうのと一緒ですね。
なので霊感があるというのは僕のなかでは不幸なことで病気持ちと同じである。
けっして能力があるとかではない。
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昼間のバイトをはじめてから生活が少しはまともになった。
余裕が出てきたので自分のこの霊感体質を改善したいと思い、
図書館で気になる気功の本を見つける。
そしてその本を書いていた東京の気功の団体に入会してみた。
気功の会は体験会も開いていた。
大阪でも開催されていたので思い切って行ってみた。
スピリチュアルの世界というか気功の会には色々な人がいた。
オーラ色が視える人、背後霊が視える人、思念体?情報体とお話しができる人。
変な人ばかりだったけど世の中には人とは違う感覚を持つ人がいるので励みになった。
なぜ気功の会に来たのかと聞かれたので僕は霊感が強くて困っているので改善したいと話した。
僕みたいな理由で来ている人はあまりいなかった。
改善を目的に気功の会に入会してみた。
気功の会ではグッズによる改善と気を使ってイメージすることで気の巡りや
バリアなどを張ったりしていた。
僕は霊体質を改善したかったので、負のエネルギーを身体から抜く方法と
バリアを張るイメージをよく使っていた。
気功は効果があるかと聞かれれば、、、「ある」。
ただし劇的ではなく、スポーツのようなものと一緒で鍛錬が必要ではないだろうか。
スポーツで例えるとふだん走って鍛えていると少しは試合が楽になる。そんな感じだろうか。
気功の会に入会して2年ぐらいが経過した。
僕の霊障はだいぶマシになっていた。
そのころには目に見えない世界、霊とか神様や
この世の森羅万象の仕組みに興味を持つようになった。
根本的な体質は変わっていないのだが。
色々なスピリチュアルの本を読んだりもした。
あるスピリチュアル団体で古代中国の「周易」系の占いを教えている人に興味を持った。
そこでその占いのことや色々な話を知るうちに僕は「全肯定」という思考を知る。
<自己を肯定、全肯定を知る>
良いことも、悪いことも、とりあえず全てを、すべて全部肯定する。
この全肯定というのは特別に強調されていた教えではないが僕にとってはなぜかかなり重要な思想だった。
「全肯定」とは 文字通り全てを肯定する行為だ。
現在の悩みや病気、対人関係、自分の環境、運命ですら全部を肯定する。
全肯定をする
僕は霊障が酷くて諦めて実家に帰る決断をしたり
いろいろと諦めたことを思い出した。
あの時は「破壊」をしたが、破壊というのは諦めなので自分の現状を受け入れる行為だ。
次は周りの環境すべてを全部受け入れる「肯定」だ。
今のしんどい状況も肯定、霊も肯定。
いやもう世界そのものを「全肯定」できるようになれば
それはすごいことだなと直感したのだ。
全てを肯定する
全肯定をしてみる
おおげさではなく、全肯定ができると悩みがなくなった。
正確に言えば悩みは常にあるのだが、それすらひとまずも肯定だ。
悩んでいる自分を肯定
あいつを嫌いな自分も肯定
嫌いなあいつも肯定
嫌いな人間だっているし、自分の愚かな一面もまぁ嫌いだが、それすらも、、、肯定。
駄目な自分も肯定だ。
もちろんダメな自分の周りにいる同じようなダメ人も肯定だ。
とにかく受け入れるという思想だ。
この思想のおかげで悩みがほとんどなくなっていった。
もしかしたら執着を手放していたから、人と同じというのを諦めたからすんなりと
できたのかもしれないが僕には「全肯定」思想がしっくりときた。
気づけば僕は気の世界が中心で生きるようになっていたのかもしれない。
気功をやったからかもしれないが
気功の世界は、世界は「気」でつながり 気は実はわかるのだ。
世界を自分や他者を肯定するという行為は「他者」にはわかる。
わかってしまうのだ。
バレるのだ。
肯定するエネルギーは循環してまわっていくように感じるのだ。
全肯定で生きることにした。
4:感謝
時はすぎて全肯定が染みついた僕はサラリーマンになっていた。
振り返るとかつて諦めていた「普通」っぽいものを手にしていた。
全てを諦めたあと、なんだかんだで仕事について彼女ができて
結婚もして子供にも恵まれた。
今も霊感はあるがほとんど霊障のような現象もない。
ただ森羅万象を探求する興味はあって、趣味みたいになっていた。
簡単に言うとスピリチュアルや占い好きのおっさんになっていた。
普通に生活ができることがありがたい。
霊障を経験して思うのは普通に暮らせることはありがたいことなのだ。
そんななかで感謝する習慣を持つと良いという著者を見つけて
毎日感謝の日記をつけることにした。
感謝の日記とは感謝していることを箇条書きするだけである。
例えばこんな感じである
1/6
今日も仕事ができることに感謝
仕事が楽しくなってきた!いいね!感謝
○○さんからお米をいただく。感謝!
今日も健康です。感謝
こんな感じです。
シンプルだよね。
それだけである。
感謝している事を箇条書きしていると「感謝」が増幅するのだ。
感謝が増幅すると「あぁあれよかったな」と思い返すので幸せがさらに増していきます。
と、同時に増幅するので感謝している「事柄」をますます引き寄せやすくなる。
感謝を増幅して書き続けて気づく。、
自分が「感謝」していることは、自分が価値を感じていることだった。
自分が何に感謝しているか対象がわかるので自分の価値観を知る行為でもある。
例えば、僕は「今日も仕事ができることに感謝」とほぼ毎日書いているが
これは仕事ができることが喜びであって仕事自体が自分の中で大事だということに気づける。
仕事が嫌いな人は感謝の項目に書かないだろう。
感謝とは自分の価値観がわかる行為なのだ。
人間というのは案外自分の価値観がわからないことが多いのではないだろうか。
例えば、お金持ちになりたいと思っていたが、
心の奥底では友人と一緒に事業を起こしたり
何か取り組むことが夢そのものだったとかそういうのだ。
「感謝」によって自分が価値を感じていることが知れるのも感謝日記の良い所だ。
感謝している事が益々増幅していく
これは誰もがやってみるとよいことだと思う。
5:全部自分
全肯定をして感謝する生活。
これが通常になった。
そしてスピリチュアル本を読んだり実体験など経て「あること」が頭が離れない。
その「あること」とは、、、、
それは、もしかしたら「全部は自分なのではないか?」ということだ。
どういうことだ?
となるかもしれないが
もうそのままの意味で「全部は自分」なのである。
は?頭がイカレてやがんのか?って思いましたか?
ちょっと丁寧に説明しますと認知している全体でいうところの「自分」はトンデモなくでかい存在であり、
神とか高次元の存在とか言われてるのも全部自分ではないかと思うのです。
つまり認識してる「宇宙」そのものが自分なのです。
もし宇宙が完全で、すべてが調和して、何の欠けも矛盾もなければ
そこには変化も、時間も、出来事も、主体も生まれません。
なぜなら「完全なもの」は「次の状態」が存在しないから。
つまり、完璧さは「静止」であり、静止は「無」と同義になる。
これは仏教で言う「空」にも通じます。
要は「完全なものは存在の外側にあり、存在するためには“不完全”でなければならない」
つまり不完全な私です。
そういう情報を知ったというのもありますが「宇宙は自分である」ということ。
これね、けっこう色々な人が言っています。
なるほどね~~と僕もそう思うんですね。
例えば、今日食べたご飯がありますよね。
自分が食べて自分を作っているエネルギーになる一部なるので、
今日食べた「ごはん」は大きくとらえると自分ってなるわけです。
そうなると周りの空気とかももちろん自分。
空間もまぁ自分です。
そんでそんで拡大解釈していくと人間は1人では生きれない。
なので周りの人は自分を気づかせてくれる存在です。
自分という存在を認識するための存在です。
周りにいる友達も自分、苦手なあいつも自分、霊も自分、
なのでひろーーーく、広く解釈すれば全部がひっくるめて自分です。
というか、知覚しているものは全部、すべて自分です。
全部が自分であればなんでこんなにも不自由なんだという声も出てきそうですが
これも広くとらえるとあえてこの不自由を望んでいるようにも思います。
繰り返しますが
もし私(宇宙)が完全で、すべてが調和して、何の欠けも矛盾もなければ
そこには変化も、時間も、出来事も、主体も生まれません。
なぜなら「完全なもの」には「次の状態」が存在しないから。
つまり、完璧さは「静止」であり、静止は「無」と同義になる。
これは仏教で言う「空」にも通じます。
要は「完全なものは存在の外側にあり、存在するためには“不完全”でなければならない」
つまり、今存在している不完全な自分です。
全部自分なので本体は大きな高次元体とか神とか呼ばれる存在なハズです。
この神様は何でもできてしまう「完全体」なので「完全」は欲求すら必要がないんです。
何でもできれば完璧なので何も要らないし、何になる必要もないので形すら不要です。
なのでこの不自由な分離体(人間)状態を作ったのだと思います。
むしろ存在するためには不自由がないと形ができません。
そこで分離や不完全の登場です。
ただ、もともとは一つの完全体なのです。
もともと すべて、、大きくとらえると宇宙でひとつなので僕たちは繋がっています。
いや、繋がってしまっています。
もう一度言います。
そもそも繋がってしまっています。
これで、、、、これでようやく僕が霊に入られたのも納得がいきます。
霊も私だった。
おおもとでつながっているので、、、つまりは境界などないので入れる。
存在の根源が同じです。
繋がっているので気功は、気の世界は相手に効く。
嘘もバレますし、気がわかる。
というか、自分が認識しているあなたも私
ここで ちょっと整理します。
・霊感体質に気づく 霊障で悩む
↓
・個の諦め 執着の手放し 破壊を完了
↓
・気功習得 全肯定 世界を肯定
↓
・感謝 感謝が増幅する世界へ
↓
・どうやら全部が自分のようだ(広い意味で)
全部を肯定して、感謝していくと、、、、
やはり「全部自分」だとわけのわからない確信が芽生える。
全部が自分、自分がここに存在しているのは紛れもなく他者のおかげだが、
広く、広義でとらえれば他者を含めて自分が成り立っているのでやはり全部は自分なのだ。
いやぁ、、、それにしても全部が自分だったとは・・・・
6:全部他人 わたしがなくなるまで
全部が自分!
「全部が私!」という思想は長いこと頭のなかにこびりつて、、、ある意味で怖くもなった。
自分が大きすぎるというか、全部自分ってことは自作自演ですかねー?w
え?マジ?
ほんとに?みたいな感じです。
<インドにカレーがない話>
で、ある時いきなりインドのカレーの話しを思い出しました。
ウソかほんとかわかりませんがインドにはカレーが存在しないらしいです。
なぜかというとそれは、、、インドでは食べ物全てがカレーだからだそうです。
つまり「カレー」という概念がないそうです。
食べ物は全てカレー。
すなわちカレーはない。
<毎日が休みになった話>
また、別の話でですが昔勤めていた会社の繁忙期に休みなしで働いていたことがあります。
月火水木金土日と毎日働いていたのですが、毎日働くとあることがわかりました。
休みがないのです(笑)
当たり前ですが、毎日働くと休みがありません。
毎日毎日毎日働くと「休み」という概念が消失していきます。
つまり、、反転すると毎日働くともうそれが当たり前になって、
ある意味毎日が休みになるのです。
どういうことかと言うと「休み」の日はないので会社で働いているのが通常です。
ある意味で毎日が休みみたいなものになったということです。
会社=いつもいる場所 落ち着く場所?
この話を後輩にしたらイカレてると言われましたが、まぁそれだけ全部を埋めると反転するという例です。
・・・・・・・・
ここで「全部自分」に話を戻します。
ということはです。
という事はですよ、、、
「全部自分」ということは、、、、全部自分なので、、、自分しかいない。
言い換えれば、、、反転して自分などいない。
全部自分ということは、、、全部が自分で世界の隅々まで自分の知覚領域であれば、、、
全部自分なので自分はいないのだ。
反転する。
そうか、、、!
つまり「全部他人」だ。
全部他人ということに気づいたのでした。
こうして自分「わたし」はなくなっていったのでした。
わたしがなくなるまでの話でした。
完 わたしがなくなるまで
<あとがき>
わりと重要なあとがきです。
あとがきなんてなくても良いかと思うのですが
わりと重要っぽいので記しておきます。
全部が自分が一気に反転してわたしがなくなった、著者です。
わたしの個性が無くなったわけでもなくまぁごくフツーに暮らしていますよ。
そんで、全部自分で全部他者の状態になってから起こる事を記します。
なんとなくですが、自他の境目が溶け合う感覚はあります。
スピでいうところの「自他一体」というのでしょうか。
意識領域の変化ですが、目の前の人は他人ですが、他人ではなく自分であるという感覚。
もちろん、自分だから遠慮なく接するとかそういうことではなく、境界線がない。
イメージの実現化が早い気がします。
これは意識のなかで外側と思っているものに「分離感」が無くなるので
実現化が早いのではないでしょうか。
つまり、領域が広いというか全ての領域が
自分の領域なのでイメージが湧く = 現象化していくという感じです。
実はイメージが浮かぶのもなんかちょっと変な感じで
イメージさせられたように感じる時もありますので自我がやや減少しているのかもしれません。
「欲がよくわからない」
ダジャレですが、欲はあるんですね。
お腹減ったとか寒いとか性欲とか物欲とか まぁ人間の欲ですよね。
それでどんどん欲を満たすのですが、
例えば豪華な食事をしたいとか、すごい車に乗りたいとか、ものすごく稼ぎたいとか
思っていた気がしますが、、、
ほんとうに叶えたいかというとそうでもないみたいです。
「我欲」もちろんありますが、欲がわからなくもあります。
よくわからんってやつですw
あとがきでした。




