第三話:言葉遊びの板と、指切りげんまんの約束
今日、教室は一人の生徒の死についての噂で持ちきりだった。僕はその人のことを知らないけれど、みんなの表情を見る限り、この学校にとってはそれなりに価値のある存在だったようだ。
もし彼を知っていたなら、僕も同じように嘆いただろう。残念なことに、人の命が時間に支配されている以上、僕たちは出会った人のほんの一部しか理解できない。残るのは永遠の記憶だけだ。だからこそ、あの「三番目のルール」が彼にとっても適用されることを願わずにはいられない。
僕自身の病状については、医学的な進歩のおかげで「脳の病気が完治する可能性がある」という段階まで来ている。けれど、それには手術が必要で、成功率はまだ不透明なままだ。今の僕には、その運命を左右する決断を下す勇気なんてなかった。
ポケットの中で通知音が震えた。僕はスマートフォンを取り出し、深刻な面持ちで画面を見つめた。どうしても避けられない、緊急の知らせが届いていたからだ。
*「遥斗、お父さんの消息が分かったわ。新しい人と結婚したみたい。 — 母 — 11:00」
*「お母さん、もう家には帰らないわ。一人で家を守ってね。あなたももう大人なんだから。 — 母 — now」
*「分かったよ、母さん。体には気をつけて。愛してるよ。 — 志波 遥斗 — now」
母は一週間前から家に帰っていない。あの日、訪ねてきた友人の話を聞いて、母がひどくショックを受けていたのを覚えている。
耳に届くべきではなかった真実。僕は少し震える右手でスマホを閉じ、左手でそれを抑えながら、再び授業に意識を向けた。いつかこんな日が来るとは分かっていたし、二人が幸せなら、子供である僕はただ最善を祈るだけだ。
休み時間になり、授業で焼かれた頭を冷やすために、僕は廊下を歩いた。瞳を刺すような光を浴びながら、より高い場所から世界を見下ろせる場所――屋上へと向かう。
日記帳を開き、「二番目の願い」を書こうとして、ふと手を止めた。今は学校にいる時間だ。ここで彼女を呼び出すのは軽率かもしれない。僕は苦笑いして、屋上の縁に立ち、幼い頃に聴いた歌を口ずさんだ。
「――お母さんの可愛い宝物、強く逞しく育ちなさい。あなたの涙が、幸せな笑い声に変わりますように」
「――大人になったら、夢を見つけなさい。遠い空に輝く星のように。いつかきっと、君が求めた妖精を見つけて、12の願いを叶えるんだ」
ありがとう、母さん。一度だって、失望してあなたを怒鳴りつけたいなんて思ったことはないよ。僕という存在はあなたから生まれた。あなたがいなければ、今の僕の幸せもなかったんだから。もし運命がまた僕たちを引き合わせてくれるなら、その時は迷わずあなたを抱きしめるよ。
次の願い事について、僕は幼い頃に遊んだ「あのゲーム」をしたいと思った。あの「妖精さん」と言葉遊びをしたい。彼女がこんな馬鹿げた願いを受け入れてくれるかは分からないけれど、あれは本当に楽しい遊びなんだ。
僕はスマホを取り出し、メッセージを打ち込んだ。
『今日の放課後、二番目の願いを叶えてほしい。 — 志波 遥斗 — now』
『校門の後ろで待ってるよ :0 — 志波 遥斗 — now』
スマホを閉じ、屋上の扉へと向かう。腕を振り、口角を上げ、スキップするように階段を降りる。胸の高鳴りを感じながら。それはきっと、今の僕にとって何よりの救いになるはずだから。
放課後のチャイムが鳴り響き、僕は教室を出た。校門へと向かう何百人もの生徒たちの流れを眺めながら、僕はわざと歩みを遅らせた。周囲を見渡し、誰かが待っているのではないかと無意識に探してしまう。
教室を出る前から震えていたスマートフォンの通知に、ようやく気づいた。ポケットから取り出し、画面を開く。
*「ごめん、今日は稽古がすごく忙しいの — 浅見 美咲 — 15:40」
*「分かった。じゃあ、僕はそのまま帰るよ — 志波 遥斗 — 15:41」
*「もしよかったら、少しだけ待ってて。剣道部の武道場に来て — 浅見 美咲 — 15:42」
*「知らない人のふりをするのを忘れないでね — 志波 遥斗 — 15:43」
*「了解。そこで待ってる — 志波 遥斗 — now」
僕はきびすを返し、校門とは逆の方向、武道場へと向かった。そこへ行くことが正しいのか、少し迷いがあった。不適切な噂が立つかもしれない。けれど、家に帰ったところで本を読んで寝るだけだ。それなら、彼女を待つ時間の方がずっと価値がある。
静まり返った廊下を通り抜け、「剣道部」と書かれた武道場の前に着いた。いつもは静かなはずのそこから、激しい掛け声が聞こえてくる。
「浅見、腰を落とせ! 隙を見せるな!」
「もっと速く! 本能で動け、先を読め!」
誰かと稽古をしているのだろうか。いつも一人で練習していると思っていたけれど、中には他の部員の姿もあるようだ。
「いいぞ浅見。やっぱりお前には才能がある」
「この後、時間あるか? 隣のカフェにでも行かないか」
『――いいえ、この後約束があるから』
合成音声が中から聞こえてきた。
『……それに、どうして急に誘ったりするの?』
「お前の剣筋に興味があるだけだよ。……それに、お前みたいな美人が誰を待ってるのか気になってな。……まあいい、今の誘いは忘れてくれ」
盗み聞きをしているようで、ひどく居心地が悪かった。ドアを開ける勇気はなかった。中に入れば、二人の邪魔をしてしまうような気がしたからだ。
僕はドアの横に腰を下ろし、彼女を待つことにした。次第に瞼が重くなり、視界がゆっくりと暗転していく。僕はそのまま、深い眠りに落ちてしまった。
肩を揺さぶる感触に、僕は目を覚ました。視界がぼやける中、剣道着を着た男子生徒が立っていた。困惑しながら周囲を見渡すと、その隣に彼女が立っているのが見えた。スマホを確認すると、一時間が経過していた。
「お前、志波だろ? 浅見のクラスの」彼は尋ねた。「どうしてここで待ってるんだ? もうみんな帰ったぞ」
僕は答えようとしたが、突如として脳を切り裂かれるような激痛が走った。頭がもぎ取られるのではないかと思うほどの痛み。僕は頭を強く抱え、唇を噛み締めて悲鳴をこらえた。
数瞬の後、その激痛はゆっくりと引いていった。肩に置かれた、温かく柔らかい手の感触とともに。汗の滲んだその手は、クラスメートの浅見であり、僕の願いを叶えてくれる「妖精さん」のものだった。
「おい志波、大丈夫か?」
「……大丈夫だよ。ちょっと勉強しすぎて疲れちゃっただけさ」
「そうか、ならいいけど。……浅見を待ってたのか?」
「……いや。ただ、先生に言われた課題について聞きたかっただけだよ」僕は取り繕うように笑った。「クラスの『陰キャ』な僕が、突然浅見さんの人生に現れるなんて変だよな。ははは、冗談だよ」
冗談だと言いながら、心の中では自分がひどく不釣り合いな存在だと感じていた。僕たちはただの友人じゃない。僕は、施しを乞う放浪者のようなものだ。
「……じゃあ、僕は先に行くよ。ありがとう」
武道場を離れながら、僕は自問自答した。願いを重ねるたびに、どうして僕の笑い声は消えていくのだろう。この件が始まってから、問題ばかりが増えていくような気がする。
歩いていると、スマホが震えた。
*「家で待ってて。今から行くから。場所を送って — 浅見 美咲 — now」
*「稽古、お疲れ様。 [位置情報送信] — 志波 遥斗 — now」
僕は静まり返った我が家へと向かった。狭い路地を抜け、桜並木の横を通り、長い階段を下りる。川のせせらぎと鳥の声が響く、静かな場所。
家に着くと、散らかった荷物を片付け始めた。部屋の隅にあった母の酒瓶をまとめ、彼女が来る前に必死に掃除をする。
ドアを叩く音がした。開けると、そこには汗をかき、微かに薔薇の香りを漂わせた彼女が立っていた。目は疲れ果てているけれど、口角は少しだけ上がっている。僕は彼女をリビングへと招き入れた。
台所でスナック菓子を皿に盛り、グラスにミルクを注いで彼女の前のテーブルに置く。彼女は椅子に座り、珍しそうに僕の家を見渡していた。
「……今は、一人暮らしなんだ」
「安心して、変なことはしないから。……そんなにカチコチにならないでよ、服屋のマネキンみたいだぞ。ははは!」
静まり返った部屋を明るくしようと、僕は努めて明るく笑った。
「座って食べてよ。大したものは出せないけど。僕はちょっと片付けの続きをしてくる」
掃除を続ける僕を、彼女は放っておけなかったのか、荷物運びを手伝おうとした。けれど、彼女が持ち上げようとした段ボールが、重みに耐えかねて中身をぶちまけてしまった。
彼女は動きを止めた。床に散らばったのは、僕が痛みを抑えるために飲んできた大量の薬の瓶だった。彼女は驚いたように口を手で覆い、壊れ物を扱うような、悲しげな瞳で僕を見つめた。
「――っ、言っただろ。座っててって。君には重すぎるんだよ、ははは」
「…………」
「……そんな目で見るなよ。これからゲームをするんだ。座ってて」
僕は苦笑いしながら薬を拾い集め、段ボールに戻した。彼女は椅子に戻り、小さな手でスマホを握りながら食事を口にしている。
『――あなたのご両親はどこ?』
「……。……今は市外で仕事してるんだ。忙しくてさ。……ちょっと待ってて、上の部屋からボードを持ってくるから」
階段を駆け上がり、昔あの男(父)と一緒に遊んだ文字盤の付いた古い木のボードを持ってきた。それをテーブルに置き、彼女の前に座る。彼女は興味深げにスマホを叩いた。
『――どうやって遊ぶの?』
僕は身振り手振りを交えてルールを説明した。
「このボードの上に手を置いて。……そして、どちらかが『ストップ』と言った時、指が指している言葉について正直に話さなきゃいけないんだ」
「例えば、『恐怖』という言葉に当たったら、自分が何を恐れているかを答える。……分かった?」
十回ほど説明を繰り返しただろうか。彼女が理解したのか、あるいは僕の長話をただ聞いていただけなのかは分からないけれど。要するに、目隠しをして、正直な気持ちをさらけ出すゲームだ。
『分かったわ。じゃあ、最初はジャンケンで決めましょう』
「いいよ。……最初はグー、ジャンケン、ポン!」
僕が出したのはチョキ。彼女が出したのはグー。
僕の負けだ。選ばれる言葉が、僕がいつも口にしているようなありふれた言葉であることを願うしかなかった。
第3章:二番目の願い、小指の誓いと消えゆく涙
僕はボードの上に手を伸ばし、静かに瞳を閉じた。彼女の温かな手が僕の手の甲に重なる。その熱は驚くほど優しく、心からの慈しみに満ちているように感じられた。彼女は僕の導き手となり、ゆっくりと、意図した言葉の方へと僕を導いていく。
やがて、彼女が僕の手を動かすのを止めた。それが「ストップ」の合図だった。
指し示された場所には、『美しい』 という文字が刻まれていた。
彼女はスマートフォンで問いかけてきた。
『――あなたがそれを見て、心が震えるほど「美しい」と感じるものは何?』
「……君が剣道に打ち込む姿だよ、浅見」
「誰かが剣を振るうたびに叫び声をあげる中で、君だけは一太刀ごとにその情熱を解き放っている。その姿が、僕には何よりも美しく見えるんだ」
僕がそう告げると、彼女の耳たぶがみるみるうちに赤く染まり、頬には火が灯ったような朱が差した。
「あはは! 冗談だよ」
「……でも、今の言葉に嘘はないよ。本当にそう思ってるんだ」
僕はクスクスと笑いながら、照れ隠しのように言葉を添えた。さて、次は彼女の番だ。
「……ねえ、僕が声で誘導するだけじゃダメかな?」
目隠しをしようとしていた彼女が再び目を開け、不満そうに僕を睨みつけた。そして、スマホを叩く。
『――私はもうあなたの手に触れたのよ。次はあなたの番。さもないと警察に通報するわよ?』
合成音声が冷たく響く。僕は観念して、おずおずと彼女の手を取った。女の子の手をこんな風に握るのは初めてで、僕の体は一瞬硬直してしまった。まるで、これまで失ってきた全ての時間を取り戻したいと願うような、不思議な感覚だった。
「……コホン。僕がエスコートするよ。……まあ、これはただの『手』だと思ってくれればいいから。ははは!」
僕が笑いながら彼女の指をボードの上で滑らせると、その動きはまるで埃を被った古いボードに色を塗っていくかのように鮮やかだった。指先がいくつかの言葉を通り過ぎ、そして僕は告げた。
「ストップ」
「ははは! 僕の天才的な頭脳で、狙い通りの言葉に誘導したよ」
彼女が手を引くと、そこには 『恐怖』 という二文字があった。
「よし、正直に答えてね。……今、そしてこれから先、君が一番恐れているものは何?」
僕は確信していた。彼女ならきっと、剣道ができなくなることや、プロになれないことを挙げるだろう。けれど、彼女が震える指でスマホに打ち込んだ答えは、僕の予想を遥かに超えていた。
彼女はテーブルの中央にスマホを差し出した。
『――今は、自分の生活から剣道が失われることが怖い。そして将来、プロの選手になれないかもしれないことが……』
音声が一度途切れる。しかし、続きがあった。
『――でも、それ以上に怖いのは、あなたのような人を失うこと。いつも笑っているあなたが、いなくなるのが怖いの。この瞬間を、どんな形でもいいから保存しておきたい……』
彼女は僕の袖を、ちぎれんばかりの力でギュッと掴んだ。
「……へへ、そんなこと言わないでよ。人はいつか、決まった時間に去っていくものなんだから」
僕は無理やり笑って答えた。すると突然、彼女が激しく僕の袖を引き、僕の肩を何度もポカポカと叩き始めた。まるで、お気に入りのぬいぐるみに八つ当たりする子供のような、愛らしくも必死な力だった。彼女の瞳からは、大粒の涙が溢れ出し、床にこぼれ落ちていく。
「……あはは、泣かないでよ。僕は大丈夫。お医者さんも解決策を見つけてくれたんだから」
「……それに、僕の願いはあと10個も残ってるんだよ?」
「……妖精さんを泣かせた罰として、願い事を一つ消しちゃうからね」
気づけば、僕は彼女の頭をそっと撫でていた。
「だから泣き止んで。君の足で、前を向いて進むんだ」
彼女は僕の肩を叩くのを止め、最後にもう一度スマホを打った。
『――もし嘘をついていたら、絶対に許さないんだから!』
『――約束しましょう』
『――私は大会で優勝する。だからあなたは、自分の恐怖に打ち勝つって』
彼女が小指を差し出す。
「……ああ。約束するよ」
僕たちの小指が絡み合い、誰にも見られることのない「誓い」が結ばれた。この屋根の下では、もう嘘も真実も、どちらでもよかった。
ゲームが終わり、彼女はテキパキと食器を片付け始めた。僕はボードを部屋のクローゼットに仕舞う。彼女は家の中を掃除し始め、僕が「適当でいいよ」と言っても、その頑固さは揺るがなかった。
一ヶ月前、偶然の出会いから始まったこの関係。
帰り支度を済ませた彼女がドアを出る時、僕は玄関に立ち、手を振ってこう告げた。
「またね。…………妖精さん」
ここまでお付き合いいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。
遥斗と美咲の「指切り」が皆さんの心に届いていれば嬉しいです。
二人の物語はまだまだ続きます。これからも応援よろしくお願いします!




