第2話:出会いと願い
あの時から四日が過ぎた今も、あの出来事が頭の中で何度も繰り返されている。まるで彼女が、動くはずのなかった僕の運命の歯車を狂わせてしまったかのように。
僕は今、普通の生徒たちが「天文部」と呼ぶ、屋上の宇宙研究所にいた。望遠鏡の中の埃を眺め、それを「月」だと言い張るような場所だ。隣には「星好きの友人」がいる。同じ部の仲間だが、僕は彼ほど天体に狂っているわけじゃない。ただ、星のように遠い夢を見たいだけの、しがない人間だ。
「志波、昨夜の流れ星見たか?」
「……見たよ」僕は淡々と答えた。
「流れ星を見て願い事をすれば、どんな願いも叶うって言われてるだろ。お前、信じるか?」
「……ぷっ、ははは! またそんな子供じみたことを。そんなのを信じるくらいなら、あの時わざわざ妖精なんて召喚しなかったよ」
「はぁ? お前、本当に妖精に会ったのか? ラノベみたいに?」
「ああ。今の僕にとっては、彼女は本物の妖精だよ」
「そんな奴がいるなんて初耳だぞ」
「お前には関係ないだろ」
あの妖精は、今夜――土曜日に、僕の最初の願いを叶えてくれると約束してくれた。あの日以来、教室での空気は少しぎこちないけれど、それでも僕は、この全てが彼女にとって本当に相応しいことなのか、まだ戸惑っていた。
部活を終え、廊下を歩いていると、「剣道部」の看板の前で足が止まった。鋭く、乾いた空気を切り裂く音が聞こえる。気合の声はない。ただ、空気が震える音だけが響いている。
そこにいたのは**浅見 美咲**だった。木刀を手に、基本の素振りを繰り返す彼女。剣道部の連中は彼女を**『無音の剣士』**と呼ぶ。今の僕には、その称号こそが彼女に相応しいものに思えた。
僕は目を離すことができなかった。彼女の強い覚悟は、あの古い倉庫のトロフィーと同じ輝きを放っている。それに比べて僕はどうだ。自分の人生にこれほど一生懸命になれる自信なんて、どこにもない。
彼女は僕に気づくと、木刀を止めて歩み寄ってきた。そして、誰もいない休憩場所を指差し、僕を促した。
この神聖な場所には、努力の証である汗の匂いが漂っている。隅には**主を失った哀れな木刀たち**が転がり、屋根の隙間には手入れの行き届かない埃が積もっていた。けれど、その古びた建物の埃っぽさも、彼女から漂う薔薇のような香りには勝てなかった。その香りに、一人の男子高校生として、僕はただ圧倒されるしかなかった。
僕は促されるままに座った。彼女はバッグからスマートフォンを取り出す。何かを打ち込む彼女の口角が、一瞬だけ上がった。
『――次、覗き見したら、ターゲットはあなたの首よ ( °益° )』
「……い、いや、別に覗いてたわけじゃ……教室に戻ろうとしてただけだ」
彼女は画面を引き戻し、また何かを打ち込んで見せてきた。
『今夜のことを忘れないで。さもないと、どうなるか分かってるわね? ୧(๑•̀ᗝ•́)૭』
僕は思わず吹き出してしまった。
「ははは! いつからそんなに表情豊かになったんだよ。おかしくてたまらないよ、あははは!」
僕は畳を叩きながら爆笑した。彼女は「ふざけないで、この馬鹿」とでも言いたげに、不機嫌そうに口角を下げた。
「そのロボットみたいな音声はどうした? それとも、今の僕は君にとって特別だってことかな?」
『馬鹿なことを言わないで。……あと、私のメッセージをちゃんと見なさいよ、このバカ』
僕はスマホを取り出した。未読のメッセージが溜まっている。
*「これ、私の番号。――浅見 美咲(二日前)」
*「もう死んだの? 返信しなさいよ、この…… (. . )(昨日)」
*「いいわよ、この不良。今日中に読まないなら、願い事は却下するから(今日 09:00)」
「ごめん、本当に。最近、あまりスマホを見る余裕がなくて……」
『私、すごく怒ってるんだから。ふん ( ̄ヘ ̄)』
プイッと顔を背けるその仕草は、まるでお団子を買ってもらえなかった子供のようで、僕はまた笑いを堪えられなかった。
「お詫びと言っちゃなんだけど……今夜、屋台にでも行かないか?」
僕が誘うと、彼女は再び入力を始めた。その口元が、わずかに緩んでいる。
『志波、あなたにお金なんてあるの? (╥﹏╥)』
「ははは、安心しろよ。ただ、あんまり高いものは頼むなよな!」
笑いすぎたせいか、頭に鋭い痛みが走った。今日の「笑いのノルマ」を使い切ってしまったのかもしれない。
「じゃあ、先に行くよ。また後で」
彼女は返事をしない。ただ、教室へ向かう僕の背中をじっと見つめていた。その口角が、ほんの少しだけ上がったように見えた。
女の子との「秘密のデート」。どうか、この最初の願いが無事に叶いますように。今夜、星たちが僕たちの行く道を照らしてくれますように。
そして、彼女に心からの感謝を。もうすぐ、僕の笑い声がこの世界から消えてしまうとしても。
今、僕がいる場所は「家」と呼ばれている。けれど、そこは決して心地よい場所ではない。五年前、一人の男が出て行ってから、この場所から「温もり」という言葉は消えてしまった。
家にいるのは、あの日から壊れてしまった一人の女性――僕の母親だ。彼女は毎日、ソファで酒の瓶を抱えている。五年前に去ったあの男が、いつかこのドアを開けて戻ってくるのを待ち続けているのだろう。
育ててくれた親に悪態をつくのは気が引けるけれど、今の彼女はただの抜け殻だ。それでも、僕にとっては唯一の母親であり、愛すべき人。母の世話に追われ、どこにも行けない日もある。彼女には、昔のような笑顔に戻ってほしいと切に願っている。
僕は自分の部屋で本を読み、今日という一日を日記に書き留める。僕にとって毎日は「黄金」のように価値があるものだ。最近、僕の病状に関する医療の進歩があったという知らせを聞いたけれど、それが僕にどれだけの時間を与えてくれるのかは分からない。
読書を止め、スマートフォンを開く。今夜は、僕の「最初の願い」の日だ。暗い部屋の中で、手元の画面だけが僕を照らしていた。
*「遅れないで。あ、お財布忘れないでね(笑) — 浅見 美咲 — 19:41」
*「急にいなくなったりしないで。じゃないと怒るから ( °益° ) — 浅見 美咲 — 19:58」
*「僕みたいな男とのデートがそんなに楽しみなの? — 志波 遥斗 — now」
*「あとで顔面ボコボコにしてやる 凸(`△´+) — 浅見 美咲 — now」
彼女の意外な可愛さに、僕は思わず笑みをこぼした。可笑しくてたまらず、胸を叩きながら笑い声をあげた。その瞬間、胸の奥に妙な感覚が走ったけれど、今の僕にはそんなことどうでもよかった。僕はスマホを切り、待ち合わせ場所へと急いだ。
桜の花びらが舞い落ちる公園を通り抜けると、そこに彼女がいた。
学校での姿とは違う、私服に身を包んだ彼女はとても凛としていて、そして儚げだった。桜の木を背に、細くしなやかな指でスマホを操作している。
近づいて、彼女の目の前で足を止めた。近くで見ると、彼女の髪には淡いピンク色のリボンが結ばれていて、それが夜の闇に美しく映えていた。
彼女が顔を上げ、僕と目が合う。スマホを打つ手が止まり、彼女は目を細めて僕をジロリと見つめた。そして、画面を突きつけてきた。
『――遅すぎ。女の子より準備に時間をかけるなんて (눈_눈)』
「……ごめん、ちょっと家で用事があってさ。……っていうか、今日の浅見、すごく綺麗だ」
思わず本音が漏れた。彼女はまたスマホを打ち始めたが、その頬が赤らんでいるのが分かった。僕の言葉が、彼女にとってそれほど刺激的だったなんて。
彼女は顔を半分隠しながら、スマホを見せてきた。
『……バカ。そんなこと、二度と言わないで (. . )』
彼女はスマホを引き込み、ぷいっと顔を背けた。
「ごめんって。……それじゃあ、少し歩こうか?」
彼女は僕の方を向き、画面ではなく、小さくコクンと頷いて見せた。
僕たちは公園を歩き始めた。一歩分、彼女が前を歩く。まるで親鳥の後をついていく雛鳥のような気分だ。彼女の手は宙を舞うように揺れ、その足取りはまるで小さな跳ねるステップのようだった。
夜の空気は冷たく、山から吹き下ろす風は肌を刺すようだったけれど、なぜか僕の体の中には暖房がついているかのような温かさが広がっていた。僕は夜空を見上げ、金沢の星々に手を伸ばした。一筋の星を指先でなぞりながら、誰にも聞こえない声で呟く。
「――星が一つ、消えかかっている」
その囁きは、夜風にかき消されていった。
街外れの屋台に着くと、中には誰もいなかった。彼女はおでんとラーメンを、僕も同じものと、体を温めるための温かいお茶を注文した。
「本当にいいの? 僕みたいな、もうすぐいなくなるかもしれな――」
言いかけた言葉は、彼女の手によって遮られた。唇に触れる彼女の手は驚くほど柔らかく、微かに漂う花の香りに、僕の心臓は跳ねた。彼女は手を離し、スマホを操作した。
『馬鹿なことを言うのはやめて。帰りたくなるから』
『今夜を楽しんで。私も、楽しみたいから』
無機質な合成音声が響く。それなのに、僕の体は熱くなり、彼女の視線を直視できなくなった。たったこれだけのことで、僕はこんなにも無力になってしまうのか。
「……怖くないの? 僕と一緒にいて。ほら、彼氏とかに悪いだろ?」
ずっと頭の片隅にあった問いを口にした。僕たちはただのクラスメートだ。僕の「わがまま」のために彼女の時間を奪うのは、申し訳ない気がしていた。
『いるわけないでしょ。喋れない女の子と一緒にいたいなんて男、どこにもいないわ』
『……あなたは、私を蔑まなかった最初の男の子よ』
「ははは! まあ僕、イケメンだし? 惚れちゃったんだろ?」
冗談めかして笑いながら彼女の目を見つめた。その瞳は、夜空の月よりも深く、澄んでいた。彼女は一瞬、呆気に取られたように固まった。
『……自信過剰ね』
『私みたいな女の子でも、あなたみたいな男に近づくには十回は考え直すわよ』
「手厳しいなぁ。病弱な男子高校生にそんなこと言うなんて」僕は茶化した。「でも安心しろよ。僕が一生、君の声になってあげるから。あはは!」
『……あなたに出会えて、良かった』
「ああ、僕もだよ。……そういえば、剣道の稽古、すごく頑張ってるんだって?」
クラスの奴らから聞いた。彼女が誰よりも激しく稽古に打ち込んでいること。
「それが君の夢なんだろう? 羨ましいよ。僕もそれくらい必死に夢を見てみたい」
『そんなふうに言わないで。あなたの「12の願い」だって、立派な夢じゃない』
『人はそれぞれ、自分の夢を持っているものよ。……自分を卑下しないで』
「卑下なんてしてないさ。ただ、僕は夜空の星みたいに遠くへ行きたいだけ。遠いけれど、静かな夜空を彩る。そんな存在になりたいんだ」
彼女は黙り込み、もう音声機能は使わなかった。代わりに、彼女はスマホの画面を僕に見せた。それは、僕の「願い事ノート」と同じくらい大切なもの――剣道の大会の申込書だった。
かつて学校の倉庫で見たあのトロフィー。彼女は今、あの大舞台に立とうとしている。その瞳は、僕の応援を求めているかのように輝いていた。
「……すげぇ、本気なんだな。頑張れよ! 応援してる。観客席の誰よりも大きな声で叫んでやるからさ! ははは!」
『ありがとう。精一杯頑張るわ。……あなたも、ね (๑˃ᴗ˂๑)』
画面に表示された文字と、彼女の小さな微笑み。その温かさは、長い間僕の胸に残り続けた。
注文した料理が運ばれてきた。僕たちは食事を楽しみながら、いつまでも話し続けた。屋台の中の温かな空気は、外の冷たい夜風をすっかり忘れさせてくれた。
食事代を払い終えた後、僕と「彼女」はすぐに帰路につくことはしなかった。お互いのことをもっと理解したいという、言葉にできない想いがあったからかもしれない。
僕たちは屋台から離れ、いつもとは違う夜の静寂を楽しみながら歩き出した。学校の外で会うのはこれが初めてで、しばらくの間、二人の間に流れるのは小さな足音だけだった。
僕は彼女の後ろ姿を見つめていた。夜空に浮かぶ月の光が彼女の艶やかな髪に反射して、とても美しい。それに比べて僕はどうだ。言葉にするのも難しいほどの重い荷物を背負っている。そんな自分とのコントラストが、少しだけ胸を刺した。
調理器具を売っている店の前で、僕はふと足を止めた。彼女も不思議そうに立ち止まり、僕に歩み寄る。僕は冗談のつもりで、店主に声をかけた。
「おじさん。脳みそを刺しても痛くない包丁、ありますか?」
「できれば、よく切れるやつを。いくらですか?」
彼女は僕の手を掴むと、僕の背中を何度も叩いた。そして、少し怒ったような、殺意すら感じる目で僕を睨みつけ、スマートフォンを操作した。
『――死にたいなら包丁なんて使わないで。私が蹴り殺してあげるから ( °益° )』
合成音声が響く。続いて画面を見せてきた。
『二度と変なことを言ったら、あんたの脳みそを団子にしてやるわよ』
僕は頭を押さえながら、お腹を抱えて爆笑した。笑いすぎたせいで少し頭が痛むけれど、腹筋がちぎれそうなほど笑わずにはいられなかった。
「ははは! 冗談だよ、君の反応が見たかっただけ。面白いな」
「それに、そんなに急いで死ぬわけないだろ? 願い事はまだあと11個も残ってるんだからさ、お師匠さん。ははは!」
『……笑ってなさいよ。そのうちあんたの2番目の願いを、体と一緒に土の中に埋めてあげるから』
戸惑う店主は、口を半開きにして僕たちを見つめていた。まるで僕たちにとって「死」が冬の虫(雪虫)か何かのように軽いものに見えたのだろう。僕たちは店主を見て少しクスクスと笑い、その場を離れた。
歩きながら、僕たちは言葉を交わした。横目で見る彼女の瞳には、今の時間を楽しんでいるような輝きがあった。彼女がこうして誰かと笑い合うのは、もしかしたら初めてなのかもしれない。
「……不思議だよな。僕たちの出会いは選択なのか、それとも運命なのか」
「君と知り合ってまだ数日しか経っていないのに、残り少ない僕の時間が君という女の子で埋まっていく。驚きだよ」
僕はふと、心の奥にある問いを口にした。
「……僕が死んだら、君は悲しんでくれるかな? 僕の願いを全部叶えること、嫌じゃない?」
彼女は僕のそばに寄り、スマホを打ち始めた。
『嫌じゃないわよ。むしろ、さっさと早めてあげたいくらいだわ。ははは』
無機質な合成音声の笑い声に、一瞬だけ背筋が凍るような感覚がした。
「……すごいな。君からそんな言葉が聞けるなんて、嬉しいよ」
出会いがあれば、必ず別れがある。けれど、今回だけは、もう少しだけ長く、この時間を引き止めていたい。誰かに守られるべき病人としてではなく、ただの一人の人間としての自由を、僕は今感じている。
僕たちは、今夜最初に出会った公園のベンチに座った。街灯が静かに照らし、桜の木からは葉がハラハラと舞い落ちている。
「……ねぇ、本で読んだことない?」
「誰かが死んで、その12の願いが叶ったら、手伝った人の心の中で死んだ魂が星になって生き続けるっていう話」
「でも、やっぱり変だよな。魂が人の心で星になるなんて」
彼女は驚くほど速い手つきでスマホを打った。
『聞いたことあるわ。……私は、信じてるわよ ( ^ω^ )』
「……そっか。面白いね。でも、一つ伝えておきたいことがあるんだ」
僕は真剣な表情で彼女を見つめた。
「第一に、この願い事の内容は、僕と君だけの秘密にすること」
「第二に、これは全て学校の外でのことだ。君の勉強や生活を邪魔したくないから」
「第三に、全部終わったら……これはただの御伽噺だったと思ってほしい。君が承諾した以上、僕のルールに従ってもらうよ」
僕がこの三つのルールを作ったのには理由がある。これ以上深く関わることは、彼女を苦しめることになるから。学校内での日常を守るため、そして最後に、願いを叶え終えた彼女が「願い主」の影に囚われないようにするため。
これは運命ではなく、僕が選んだ「距離」だ。刻一刻と迫る自分の体調を考えれば、これが最善の選択なのだ。
『……分かったわ』
彼女のスマホが短く答えた。
「じゃあ、またね、妖精さん。最初の願い、ありがとう」
僕はクスクスと笑いながら、自分の家へと歩き出した。
振り返る勇気はなかった。僕は拳を強く握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「――あと、11個か」
夜風が僕の言葉をさらい、一歩一歩が不確かな足取りとなっていく。まるで言葉だけを頼りに高い山を登っているかのような、そんな心細さと、不思議な高揚感が混ざり合っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
これまでは話を分割して投稿してきましたが、今後は1話をフルチャプター(一気見)形式で投稿することにしました。そのため、第3話以降の更新には少しお時間をいただくかもしれませんが、より読み応えのある話をお届けできるよう、これまで以上に精一杯頑張ります。
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それでは、次のお話でお会いしましょう。お楽しみください!




