すべて暴露します
春の陽光が差し込む応接室で、リディア・フォン・アルトハイムは静かに紅茶を口に運んでいた。向かいに座る婚約者――いや、もう元婚約者と呼ぶべきか――のフェリックス・フォン・グランツは、居心地悪そうに視線を彷徨わせている。
その隣には、華やかなドレスに身を包んだ女性が座っていた。明るい栗色の髪を優雅に結い上げ、薔薇色の唇に完璧な笑みを浮かべている。アメリア・フォン・ローゼンベルク。社交界の花形として名高い伯爵令嬢だ。
リディアは淡い灰色の瞳を伏せ、カップをソーサーに静かに置いた。長い沈黙の後、フェリックスが咳払いをして口を開く。
「リディア、今日はお前に話があって来た」
「存じております」
リディアの声は穏やかで、感情の波一つ立たない。まるで湖面のように静かだった。
「単刀直入に言おう。私は……アメリアと結婚したい。だから、お前との婚約を解消させてもらいたい」
「承知いたしました」
あまりにも即答だったため、フェリックスは目を見開いた。彼は用意してきたであろう言葉を忘れたように、しばし口をパクパクと開閉させる。
「え……それだけか? 抗議も、説明を求めることもないのか?」
「必要でしょうか」
リディアは首を僅かに傾げた。その仕草さえも、どこか人形めいて無機質だった。
アメリアが勝ち誇ったような笑みを浮かべて、フェリックスの腕に自分の腕を絡める。
「まあ、リディア様。とても理解のある方なのですね。フェリックス様がおっしゃっていた通りだわ」
「アメリア……」
フェリックスは気まずそうに視線を逸らす。
「何とおっしゃっていたのですか?」
リディアが静かに問うと、アメリアは楽しそうに笑った。
「あら、フェリックス様は、リディア様のことを『地味で大人しすぎて、社交の場では役に立たない』とおっしゃっていましたわ。確かに、こうしてお会いしてみると……その、失礼ながら、とても地味でいらっしゃいますものね」
リディアは自分の服装を見下ろした。確かに、彼女が着ているのは装飾の少ない、シンプルな藍色のドレスだ。アメリアの華やかさとは対照的である。
「そうですね。私は派手な装いは好みませんから」
「それに、社交界でもあまりお見かけしませんし。舞踏会にもほとんど出席されないとか」
「ええ、人混みは得意ではありませんので」
リディアの表情は相変わらず穏やかなままだった。まるで自分の悪口を聞かされているという自覚がないかのようだ。
フェリックスは居たたまれなくなったのか、話を切り上げようとする。
「とにかく、話は済んだ。婚約解消の書類は後日送らせてもらう。それでは失礼する」
「お待ちください」
初めて、リディアが彼らを引き止めた。フェリックスとアメリアが振り返る。
「婚約指輪をお返しします」
リディアは左手の薬指から、小さなサファイアの指輪を外した。それをフェリックスに差し出す。
「これは……」
「お母様の形見だとおっしゃっていましたね。大切になさってください」
フェリックスは複雑な表情で指輪を受け取った。そして二人は足早に屋敷を後にした。
リディアは一人残された応接室で、窓の外を眺めていた。春の庭に咲く花々が、風に揺れている。
やがて、扉がノックされた。
「お嬢様、失礼いたします」
入ってきたのは、初老の執事だった。銀髪を丁寧に撫でつけ、深い青の燕尾服に身を包んでいる。侯爵家に三十年以上仕えるセバスチャンだ。
「セバスチャン」
「ご婚約が解消されたと伺いました」
「ええ、つい先ほど」
セバスチャンは主人の傍らに静かに立った。
「お嬢様は、よろしかったのですか?」
「構いませんわ。むしろ好都合です」
リディアは初めて、小さく笑った。その笑みには、何か深い意味が込められているようだった。
「では、例の件を?」
「ええ。もう動き始めています」
セバスチャンは深く一礼した。
「かしこまりました。お嬢様のご命令のままに」
それから三日後、王都の社交界は一つの噂で持ちきりになった。
グランツ侯爵家の嫡男フェリックスが、アルトハイム侯爵家の令嬢リディアとの婚約を解消し、ローゼンベルク伯爵家の令嬢アメリアと婚約したというのだ。
「まあ、可哀想に。リディア様、捨てられてしまったのね」
「でも仕方ないわ。だってあの方、社交界にもほとんど顔を出さないし」
「そうそう。舞踏会でもいつも隅にいらして、誰とも話さないんですもの」
「アメリア様は華やかで社交的だから、グランツ侯爵家の顔として相応しいわよね」
貴婦人たちの茶会では、そんな会話が交わされていた。
しかし、そうした表の社交界とは別の場所で、全く異なる反応が起きていた。
王宮の奥深く、一般の貴族は決して足を踏み入れることのない一室。そこで、王国情報局の幹部たちが緊急会議を開いていた。
「アルトハイム家の令嬢が婚約を解消されたと?」
「はい、閣下」
報告を受けた局長――白髪の老人――は深く眉をひそめた。
「グランツ家の愚か者め。自分が何を失ったか、わかっているのか」
「おそらく、わかっていないかと」
「当然だろうな。あの娘の正体を知る者は、この国にほとんどいない」
局長は深い溜息をついた。
実のところ、リディア・フォン・アルトハイムは、王国で最も優秀な情報員の一人だった。
アルトハイム侯爵家は、代々王室の諜報活動を担ってきた名門である。表向きは地味で目立たない一族とされているが、それこそが彼らの強みだった。目立たないからこそ、誰にも警戒されない。そして誰よりも多くの情報を集めることができる。
リディアは幼い頃から、その英才教育を受けてきた。人の表情や声色から嘘を見抜く術、会話から必要な情報だけを引き出す技術、そして何より、自分の存在を消し去る方法。
彼女が社交界にあまり顔を出さないのは、人付き合いが苦手だからではない。目立たず、しかし確実に情報網を構築するためだ。
そして今、彼女の情報網は、ある重大な事実を掴んでいた。
フェリックス・フォン・グランツとアメリア・フォン・ローゼンベルク。この二人が、王国に対する反逆を企てている可能性が高い、と。
リディアの私室で、彼女は山積みの報告書に目を通していた。
部屋は簡素だった。豪華な調度品も、華やかな装飾品もない。あるのは大きな書棚と執務机、そして地図と資料が散らばる作業台だけ。
「お嬢様、新しい報告が届いております」
セバスチャンが書類の束を持って入ってきた。実は彼もまた、アルトハイム家に仕える諜報員の一人である。
「ありがとう。内容は?」
「グランツ家が、密かに軍需物資を集めているとのことです。表向きは領地開発のためとしていますが、量が多すぎます」
「ローゼンベルク家は?」
「伯爵が最近、反王派の貴族たちと頻繁に会合を持っています。アメリア嬢もその場に同席していることが確認されています」
リディアは静かに頷いた。
「予想通りね。フェリックスが私との婚約を解消したのも、この計画の一部だったのでしょう」
「と、おっしゃいますと?」
「アルトハイム家は王室に忠実な一族として知られています。私と結婚していては、反逆の計画を進めにくい。だから、別の理由をつけて婚約を解消し、共謀者であるアメリアと結婚する。そういうことです」
「なるほど……卑劣な計画ですね」
「ええ。でも、彼らは一つだけ計算違いをしました」
リディアは書類を机に置き、窓の外を見た。
「私が、ただの地味で大人しい令嬢ではないということを」
その夜、リディアは黒いフードを深く被り、王宮へと向かった。
夜の王宮は静まり返っている。しかしリディアは迷うことなく、秘密の通路を通って情報局長の執務室へと辿り着いた。
「よく来た、リディア嬢」
局長は彼女を待っていたかのように、すぐに扉を開けた。
「報告があります」
リディアは持参した書類を机の上に広げた。それらは全て、フェリックスとアメリアの不審な動きを記録したものだった。
「グランツ家とローゼンベルク家が反逆を企てている証拠がここに」
局長は書類を一つ一つ丁寧に確認していく。その表情は次第に険しくなっていった。
「これは……想像以上に深刻だな」
「ええ。彼らは単独ではありません。少なくとも五つの貴族家が関与しています」
「五つも?」
「はい。そして彼らは、来月の国王陛下の巡幸を狙っているようです」
局長は立ち上がり、部屋の中を歩き回り始めた。
「巡幸を中止するべきか……いや、それでは彼らは別の機会を狙うだけだ」
「一つ、提案があります」
リディアは静かに言った。
「泳がせましょう。そして、決定的な証拠を掴んだところで一網打尽にする」
「危険だぞ。もし失敗すれば、陛下の命が」
「失敗しません」
リディアの灰色の瞳に、強い光が宿った。
「私が、全ての証拠を集めてみせます」
局長はしばらくリディアを見つめていたが、やがて深く頷いた。
「わかった。君に任せよう」
翌日から、リディアの動きは更に活発になった。
彼女は自ら変装し、街に出た。貧民街の酒場で情報を集め、商人に化けて貴族の屋敷に出入りし、時には使用人として潜入した。
その全てで、彼女は完璧に役を演じきった。誰も、あの地味な侯爵令嬢だとは気づかない。
そして一つ一つ、反逆者たちの証拠を積み上げていった。
ある日、リディアはメイドに変装してローゼンベルク伯爵邸に潜入した。
厨房で働きながら、彼女は注意深く周囲の会話に耳を傾けていた。
「今夜、書斎で重要な会合があるそうよ」
「またあの怖い貴族たちが来るのね」
「お嬢様も参加されるんですって」
リディアは内心で微笑んだ。これは好機だ。
その夜、リディアは屋敷の屋根裏に身を潜めた。そして、書斎の真上にある通気口から、会合の様子を盗み聞いた。
「計画は順調に進んでいる」
ローゼンベルク伯爵の声だ。
「武器の調達は?」
「グランツ侯爵が手配してくれている。来週には全て揃う」
フェリックスの声だった。
「アメリア、お前の役割は?」
「巡幸の警備隊に、私たちの仲間を送り込んであります。パパ。当日、彼らが内側から門を開けてくれますわ」
アメリアの甘い声が響く。しかしその内容は恐ろしいものだった。
「よし。では、当日の手順を確認しよう」
伯爵が地図を広げる音がした。
リディアは全ての会話を、記憶に刻み込んでいった。
会合が終わり、参加者たちが帰った後、リディアは書斎に忍び込んだ。
机の上には、先ほど使っていた地図がまだ広げられていた。巡幸のルートに、赤い印がいくつもつけられている。
リディアはその地図を素早く写し取った。そして、机の引き出しから、他の重要書類も見つけ出した。
全ての証拠を集め終えた時、突然、扉が開いた。
「誰だ!」
ローゼンベルク伯爵が立っていた。その手には、拳銃が握られている。
リディアは一瞬で判断した。ここで捕まるわけにはいかない。
彼女は窓に向かって走り、躊躇なく飛び降りた。下には馬車が停めてある。セバスチャンが待機していたのだ。
「お嬢様!」
セバスチャンが手を伸ばし、リディアを馬車に引き上げた。
「急いで!」
馬車は走り出す。後ろから、伯爵の怒号が聞こえた。
「追え! あのメイドを捕まえろ!」
しかし、リディアたちの馬車はあっという間に夜の闇に消えていった。
「危ないところでしたね、お嬢様」
セバスチャンが心配そうに言う。
「でも、全ての証拠を手に入れました」
リディアは懐から盗み出した書類を取り出した。
「これで、彼らを法廷に引きずり出せます」
翌日、リディアは再び王宮の情報局を訪れた。
「これが全ての証拠です」
彼女が提出した資料は、膨大な量だった。会話の記録、金銭の流れを示す帳簿、武器の調達リスト、共謀者の名簿、そして巡幸襲撃の詳細な計画書。
局長は一つ一つを確認し、深く息を吐いた。
「見事だ、リディア嬢。これだけ揃っていれば、言い逃れはできない」
「では、逮捕を?」
「ああ。今夜、一斉に動く」
その夜、王都は騒然となった。
王国近衛騎士団が、一斉に複数の貴族邸を急襲したのだ。グランツ侯爵邸、ローゼンベルク伯爵邸、そして他の共謀者たちの屋敷。
フェリックスは、アメリアと婚約を祝う晩餐会の最中に逮捕された。
「何だ、これは! 無礼だぞ!」
フェリックスは叫んだが、騎士団長は冷たく告げた。
「フェリックス・フォン・グランツ、アメリア・フォン・ローゼンベルク。君たちを国王陛下への反逆罪、およびテロ計画の容疑で逮捕する」
「ば、馬鹿な! 証拠はあるのか!」
「十分すぎるほどにな」
騎士団長は書類の束を見せた。それは、リディアが集めた証拠の一部だった。
アメリアは顔を真っ青にした。
「そんな……どうして、私たちの計画が……」
「情報が漏れているとでも思ったか? いや、最初から全て筒抜けだったのだ」
二人は手錠をかけられ、連行されていった。
翌日、王都中が大騒ぎになった。
グランツ侯爵家の嫡男と、ローゼンベルク伯爵家の令嬢が反逆罪で逮捕されたというニュースは、瞬く間に広まった。
「信じられない……あのフェリックス様が」
「アメリア様も? あんなに華やかで人気者だったのに」
「国王陛下の暗殺を企てていたなんて……」
社交界は衝撃に包まれた。
そして、もう一つの噂が流れ始めた。
「でも、誰がこの計画を暴いたのかしら?」
「聞いた話では、王国情報局の諜報員だとか」
「諜報員? そんな人、私たちの知り合いにいたかしら」
その答えは、意外な形で明かされることになった。
逮捕から一週間後、王宮で叙勲式が行われた。
国王陛下自ら、今回の事件で功績のあった者たちに勲章を授与する式典だ。
そこに、一人の女性が姿を現した。
淡い銀色のドレスに身を包み、普段は後ろで束ねている髪を優雅に結い上げている。しかしその顔は、見覚えのあるものだった。
「あれは……リディア・フォン・アルトハイム様?」
「まあ、本当だわ。でも、いつもと雰囲気が違う」
貴族たちがざわめく中、リディアは静々と玉座の前に進んだ。
国王が声を上げる。
「リディア・フォン・アルトハイム。そなたの功績を讃え、ここに王国最高勲章を授与する」
「恐れ多いことでございます、陛下」
リディアは深く一礼した。
「そなたの働きがなければ、余の命、そしてこの国の平和は失われていた。そなたは真の英雄である」
国王がリディアの胸に勲章を付ける。それは、王国で最も名誉ある徽章だった。
式典が終わった後、貴族たちはリディアを取り囲んだ。
「リディア様、あなたが反逆者たちを捕らえたのですか?」
「どうやって計画を知ったのですか?」
質問の嵐に、リディアは穏やかに微笑んだ。
「私は、ただ自分の務めを果たしただけです」
「でも、あなたは確か……フェリックス様の元婚約者では?」
一人の貴婦人が恐る恐る尋ねた。
「ええ、そうです」
「それなのに、彼を……」
「個人的な感情と、国への忠誠は別のものです」
リディアの声は静かだが、そこには揺るぎない信念が込められていた。
「フェリックス様は、私との婚約を解消する時、『地味で役に立たない』とおっしゃいました。確かに、社交の場で派手に振る舞うことは、私の得意分野ではありません」
彼女は周囲を見回した。
「けれど、目立たないからこそできることもあるのです。誰にも気づかれず、誰にも警戒されず、真実を見つけ出すこと。それが、私の役割でした」
貴族たちは息を呑んだ。
「リディア様は……諜報員だったのですか?」
「アルトハイム家は、代々王室の情報網を支えてきました。それは秘密にされていましたが、今回の功績により、陛下がこの事実を公表することを許可してくださいました」
ざわめきが広がった。あの地味で目立たない侯爵令嬢が、実は王国を陰から支える重要人物だったとは。
そこへ、一人の若い男性が近づいてきた。
彫りの深い顔立ち、鋭い青い瞳。近衛騎士団の制服を着ている。
「リディア嬢」
「ダリウス様」
リディアは彼に向かって微笑んだ。ダリウス・フォン・シュトラール。近衛騎士団長で、公爵家の嫡男である。
「今回は見事な働きでした。僕たち騎士団は、あなたの情報のおかげで動くことができた」
「私こそ、騎士団の迅速な行動に感謝しております」
二人は互いに敬意を持って接していた。実は、彼らは以前から情報局と騎士団の連携で何度も仕事を共にしていたのだ。
「ところで、リディア嬢」
ダリウスは声を低くした。
「これから、少しお時間をいただけますか? お話ししたいことがあるのですが」
「もちろんです」
二人は人混みを離れ、王宮の庭園へと向かった。
薔薇が咲き誇る庭園で、ダリウスは立ち止まった。
「リディア嬢、単刀直入に申し上げます」
彼は真剣な表情でリディアを見つめた。
「僕と、結婚していただけませんか」
リディアは驚いて目を見開いた。
「ダリウス様……」
「僕はずっと、あなたを尊敬していました。あなたの知性、勇気、そして何より、国を思う心。一緒に仕事をする中で、その思いは尊敬から愛情へと変わっていきました」
ダリウスは片膝をついた。
「あなたが婚約を解消されたと聞いた時、正直に言えば、僕は内心で喜んでしまった。これで、僕にも機会があるかもしれないと」
「ダリウス様、私は……」
「答えは急ぎません。でも、どうか考えてください。僕はあなたと共に、この国を守っていきたい。表と裏、光と影。僕たちは完璧な組み合わせだと思うのです」
リディアは彼を見つめた。その青い瞳には、偽りのない真摯な想いが込められていた。
「お答えします、ダリウス様」
リディアは微笑んだ。
「喜んで、あなたの妻になります」
ダリウスの顔がぱっと輝いた。
「本当ですか!」
「ええ。私もずっと、あなたを……」
彼女の言葉を遮るように、ダリウスは立ち上がってリディアを抱きしめた。
「ありがとう、リディア。必ず、あなたを幸せにします」
二人の婚約は、すぐに社交界に広まった。
「まあ、リディア様が近衛騎士団長と!」
「なんて素敵な組み合わせなのかしら」
「フェリックス様を失って可哀想だと思っていたけれど、むしろ良かったのかもしれないわね」
貴族たちの評価は、完全に反転していた。
一方、フェリックスとアメリアは、牢獄の中で全てを失っていた。
裁判で反逆罪が確定し、フェリックスは爵位を剥奪された。アメリアの父であるローゼンベルク伯爵も同様に、全ての地位を失った。
二人は遠い辺境の地へ追放されることになった。
護送される馬車の中で、フェリックスは呻いた。
「どうして……どうしてこんなことに……」
「全て、あの女のせいよ」
アメリアが憎々しげに吐き捨てた。
「リディアが、私たちを陥れたのよ」
「いや、違う」
フェリックスは首を振った。
「俺たちが、彼女を甘く見ていたんだ」
彼は自分の手を見つめた。
「リディアは、俺が思っていたような地味で無力な女性ではなかった。俺は……とんでもない相手を、手放してしまったんだ」
「今さら何を言っているの!」
「俺は、彼女の本当の価値を見抜けなかった。表面だけを見て、中身を理解しようとしなかった。それが、俺の最大の過ちだったんだ」
馬車は遠ざかっていく。王都から、栄華から、全てから。
数ヶ月後、リディアとダリウスの結婚式が盛大に執り行われた。
国王陛下も列席する、王国で最も格式高い式典となった。
純白のウェディングドレスに身を包んだリディアは、今日だけは派手に着飾っていた。しかし、その表情は相変わらず穏やかだった。
「誓いますか?」
神官の問いに、二人は声を揃えて答えた。
「誓います」
大聖堂に、祝福の鐘が鳴り響いた。
披露宴で、ダリウスはリディアの手を取った。
「妻よ」
「夫よ」
二人は微笑み合った。
セバスチャンが、祝福の言葉を述べるために前に出た。
「お嬢様……いえ、奥様。長年お仕えしてまいりましたが、今日ほど嬉しい日はございません」
「ありがとう、セバスチャン。あなたがいなければ、今日という日はありませんでした」
リディアの目に、僅かに涙が光った。
宴が終わり、二人きりになった時、ダリウスが尋ねた。
「リディア、一つ聞いてもいいかな」
「何でしょう?」
「フェリックスとの婚約解消の時、君はあまりにも冷静だったと聞いた。本当に、何も感じなかったのか?」
リディアは少し考えてから答えた。
「悲しくなかったと言えば嘘になります。でも、彼が私の本当の姿を見ようとしなかったことは、もっと前から分かっていました」
「そうか……」
「それに」
リディアはダリウスを見上げた。
「もし彼との婚約が続いていたら、あなたと出会えなかったかもしれません。そう考えると、全ては必然だったのかもしれませんね」
ダリウスは彼女を優しく抱きしめた。
「これからは、二人で王国を守っていこう。君は影から、僕は光の中から」
「ええ。約束します」
それから数年後、リディアとダリウスの名は、王国の歴史に深く刻まれることになった。
二人の連携により、数多くの陰謀が未然に防がれ、王国は長い平和を享受した。リディアは王国情報局の副局長にまで昇進し、ダリウスは近衛騎士団総長となった。
そして、彼らには二人の子供が生まれた。父の勇気と母の知恵を受け継ぐ、未来の守護者たちである。
フェリックスとアメリアのことは、やがて人々の記憶から薄れていった。辺境の地で細々と暮らす彼らの消息を気にする者は、もう誰もいなかった。
ある秋の日、リディアは書斎で古い報告書を整理していた。その中に、かつてフェリックスとの婚約解消を記録した文書を見つけた。
彼女はそれを手に取り、窓の外を眺めた。庭では、子供たちがダリウスと遊んでいる。笑い声が響いていた。
「あの時、私は何も失っていなかった」
リディアは静かに呟いた。
「むしろ、全てを得たのだ」
彼女は書類を引き出しに仕舞い込んだ。過去は過去。もう振り返る必要はない。
夕日が書斎を照らす中、リディアは新しい報告書に目を通し始めた。王国の平和を守るため、彼女の仕事は続く。
それは地味で、目立たない仕事かもしれない。しかし、誰よりも重要で、誰よりも誇り高い仕事だった。
リディア・フォン・シュトラール――かつてのアルトハイム侯爵令嬢は、今日も王国の影となって、国と家族を守り続けるのだった。




