辞める事に罪はない
静まり返った会議室に、乾いた笑い声が響いた。
「は? 転職? このタイミングで? おもしれぇ奴だな」
口にしたのは、営業部部長・根岸修一(50)。
彼の前に座っていたのは、部下の河合光(32)。
誠意を込めて提出した退職願の返答が、それだった。
「“チームを裏切って逃げる”って、どんな気分だ? 円満退職できると思うなよ」
その日から、河合への嫌がらせが始まった。
担当案件からは外され、業務データへのアクセスも遮断。
「残業ゼロ推奨」の名目で仕事がゼロになり、社内チャットのアカウントは削除、
最終出勤日には自席すら消えていた。
「辞める奴に情報なんか渡す必要ねぇよ」
「去り際だけ立派ぶってんじゃねえ」
同僚たちは見て見ぬふり。
まるで“最初からいなかった人間”のように扱われた。
その夜、善光寺の元に一本の通報が届いた。
「退職を伝えた瞬間から、無視・嘲笑・排除が始まりました。
最後の出勤日には、机も名前も消えていました。
気持ちよく送り出してほしいとは言いません。
ただ、“人として最低限の敬意”だけは、欲しかった。
あんな仕打ち、誰にも味わわせたくありません。
あれが“引き止め”だというなら、これはもう暴力です」
善光寺は静かにファイルを閉じ、ジャケットを羽織った。
「“辞める人間に人権なし”ってか……。
どっちが裏切ってるんだか、教えてやるよ」
⸻
翌朝。
善光寺は《セキュアリンク株式会社》のオフィスへ乗り込んだ。
「ハラスメント対策特殊部隊・本部長の善光寺です。
“退職意思を示した社員が無視され、排除された”という通報を受けました。状況を確認させてもらいます」
ざわつく社員たちの前に、根岸が苛立った表情で現れる。
「我々は社内規則に則って対応しました。何の権限があってこんな――」
善光寺は淡々と語る。
「机を撤去し、チャットを削除し、引き継ぎも拒否。
“社内規則”にそんな内容、書いてありますか?」
「辞めるって言った人間にそこまで気を使う必要が?
“裏切り者”を手厚く扱うなんて、組織が壊れるでしょ」
その言葉に、善光寺の目が鋭く光った。
「お前は“組織”を語ってるが、実際は“支配”してるだけだ。
辞職の自由は、民法第627条に明記された労働者の当然の権利。
“辞意を表明した者への嫌がらせ”は、**退職ハラスメント(リテンション・ハラスメント)**と呼ばれるれっきとした加害行為だ」
「さらに、厚生労働省が令和5年に出した“職場におけるハラスメントの防止対策指針”にも、
“退職者への社会的排除・嘲笑・情報遮断は、精神的苦痛を与える行為としてパワハラに該当する”と明記されている」
根岸はなおも言い訳を口にする。
「私は、士気を守りたかっただけです。“称賛されて辞める奴”がいたら、他の社員にも悪影響が――」
「“辞めたくなる会社”にしてるのは、誰だ?
出て行かれたくないなら、去りたくない環境を作るのが“上司”の仕事だろうが」
善光寺は一歩踏み出し、声を低く落とす。
「お前のやったことは“報復”だ。
会社を私物化し、“裏切り者狩り”をしてるのは、むしろお前のほうだ」
⸻
社内調査により、根岸の過去の言動が次々と明らかになる。
・退職者の引き継ぎ禁止
・社内チャットからの即削除
・送別会の禁止
・「裏タグ」と呼ばれる、退職者を嘲笑するグループチャットの存在
証拠として提出されたログには、河合の名前とともにこう記されていた。
「裏切り者リスト:No.14 河合光」
この一文が、社内全体に衝撃を与えた。
⸻
《セキュアリンク》は即日、以下の措置を発表。
•根岸修一および関与した管理職3名を懲戒解雇
•社内における退職者対応ポリシーの明文化・研修の義務化
•**「退職者の尊厳を守る指針」**の策定
•河合光への正式な謝罪と、最終出勤日の再設定、功績の全社員共有
再設定されたその日、プロジェクトルームのスクリーンには、河合の成果が映し出され、拍手が送られた。
その後ろで、善光寺がひとことだけ、言った。
「“去り際”でその会社の本質がわかる。
辞めた人に冷たい会社は、今いる人にも冷たい。
“出ていく人間に敬意を持てるか”――それが、お前らの“器”の試金石だ」
⸻
河合は、拍手のなかで静かに頭を下げ、背筋を伸ばして会社を去った。
もう、胸を張って。
その夜。
善光寺は缶コーヒーを片手に、夜風に吹かれながらつぶやいた。
「“後ろ指をさされて辞める”時代は、もう終わりにしようぜ。
これからは、“送り出すことに誇りを持てる会社”が、残るんだよ」
街のネオンが、静かに夜に溶けていった。