心が壊れてからじゃ、遅いんだ
ある月曜の朝。
総合人材サービス会社のチームミーティング中、課長の**市原雅信(いちはら・まさのぶ/47歳)**が口を開いた。
「それじゃあ来月の新規プロジェクト、リーダーは坂下くんで」
そう告げられた瞬間、社員の**白石みなも(しらいし・みなも/28歳)**は明らかに表情を曇らせた。
彼女は昨年度の社内MVPを獲得し、前回の案件でも最高評価を得ていた。
今回も当然、任されると思っていたのだ。
ミーティング後、白石は静かに尋ねた。
「……私に任せていただけなかった理由、お伺いしても?」
市原は一拍置き、声を低くした。
「……正直に言うけどさ。君、以前“適応障害”で通院してたって話、部内でも共有されてるんだよね」
「責任重い案件だからさ、何かあったら困るだろ? だから今回は、無難に……って話さ。悪く取らないでくれよ?」
白石は黙って頷いた。
しかし、その夜――善光寺の元に通報メールが届いた。
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「精神疾患の既往を理由に、仕事から外されました。
体調はすでに安定しており、産業医からも業務に支障なしと診断を受けています。
それでも“いつ悪化するかわからないから”という理由で、プロジェクトから外されました。
私は“病気経験者”というレッテルで、何をどこまで否定されるんでしょうか」
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善光寺は静かにロングコートを羽織り、出動した。
翌朝、《フェアスタッフ》の会議室。
いつものように資料を準備していた市原の前に、黒の影が立ちはだかる。
「ハラスメント対策特殊部隊の善光寺だ。“精神疾患があるから重責は任せられない”って、誰が決めた?」
市原は戸惑いながら応じた。
「いや、私は会社とチームの安全を考えて……。彼女を責めてるわけじゃなく、配慮として――」
善光寺は冷たく切り返す。
「“配慮”を装った“排除”だな。それを一方的に“善意”と呼ぶ資格、お前にあると思うか?」
「まずは法律を読んでこい」
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■【障害者差別解消法 第7条】
「事業者は、障害を理由とする差別的取り扱いをしてはならない」
■【労働施策総合推進法(旧:パワハラ防止法)第30条の2】
「労働者の心身の健康状態を理由に、不当な差別・取扱いを行ってはならない」
■【判例:うつ病歴による昇進拒否事件(東京地裁平成29年)】
「過去の精神疾患を理由に一律に昇進を否定することは不当差別に該当する」
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善光寺は机を叩いた。
「お前がやったのは、“安心を守る”じゃない。“偏見で決めつけて除外した”だけだ」
「医師の診断で業務に問題ないとされているのに、それを信じず、主観で外した。
それが“安全配慮義務”の履行か? それとも、“個人的な先入観”の押しつけか?」
市原は目を伏せた。
「……でも、チームでの信頼関係って、どうしてもそういう情報があると――」
「それを作るのが管理職の仕事だろ。
“偏見を正す側”が、“偏見を拡げる側”に回ってどうする」
「誰もが、心を病む可能性がある。
その経験をした人間が、回復して、また仕事に向き合っている。
それを“リスク”と見なすような組織に、未来はねぇよ」
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社内調査の結果、以下の事実が判明した。
•市原が、白石の精神疾患歴を無断で部内共有していたこと(個人情報保護違反)
•産業医が「業務上支障なし」と診断していたにもかかわらず、独断で降格的処遇を行っていたこと
•他の社員にも「メンタル弱い奴に重要案件は任せられない」と発言していたこと
これらを受け、会社は以下を即日実施。
•市原雅信:懲戒処分(降格)・個人情報保護研修の受講命令
•白石みなも:プロジェクトリーダーとして正式任命、名誉回復の社内周知
•全管理職を対象とした精神疾患差別に関する法令研修と、情報管理指針の改訂
後日、白石はプロジェクト初日の朝に、善光寺からの社内便を受け取る。
「“弱さ”を経験した人間こそ、強さを持てる。
それを知らない奴に、真のリーダーは務まらない」
――善光寺 善
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夜。善光寺は屋上で空を見上げながら呟いた。
「“心が折れたことがある奴は、責任ある仕事に向かない”
そう思い込んでる奴が、この社会の歯車を詰まらせてる」
「俺は、その歪みを一つずつ正す。
どんな痛みも、働く資格を奪う理由にはならない」
夜風が、深く吹き抜けていった。