第8話
惺嵐は宣言通り次の日もまたその次の日も、莉珠が過ごす後宮には現れなかった。
初夜を終えずに朝を迎えてしまった話は、後宮の侍女たちに知られてしまっている。
何故なら然るべき日の翌朝、彼女らは惺嵐が居室から出てくるのを扉の前で今か今かと待っていたからだ。
太陽が空高い位置に来ているというのに、いつまで経っても部屋から出て来ない。痺れを切らした侍女の一人が扉を開けて乗り込めば、そこには寝台で紅蓋頭をつけたまま熟睡している莉珠しかおらず、着衣の乱れはなかった。
状況を察した彼女たちは翌日からは大勢で来なくなった。
「初夜以降、陛下のお渡りがまったくないわね」
「姚黄国の美姫らしいけど、私から見ればただの痩せっぽちの鶏ガラ王妃だわ。陛下の触指が伸びないのも無理ないわよ」
「身体も小さいからなんだか子供みたい」
「……それ、全部聞こえてるから」
莉珠は侍女たちの陰口に対して苦々しい声で呟いた。もちろん、莉珠はその場にいない。
音の聞こえる範囲が人一倍広いため、別の部屋で話している彼女たちの声が普通に聞こえていた。
現在の莉珠は、居室の寝台で横になっていて、顔半分まで布団を被っている。
嫁いでからずっとこんな調子が続けば、侮られるのも無理はない。とはいえ、ここの侍女たちは安永城の女官たちのような侮蔑的な態度は取ってこない。陰口だけで済んでいるのが救いだ。
それに、莉珠付きの侍女として仕えてくれている瑩瑩はよくできた少女だった。
「おはようございます。王妃様、昨夜はとても冷え込みましたがよく眠れましたか?」
決まった時間にやって来る瑩瑩は、持ってきていた盆を机の上に置く。
彼女は高官の娘で歳は十八。栗色の髪をふんわりと結いあげ、右の側頭部に小花の飾りをつけている。鼻筋はスッと伸びていて目は緑色をしており、全体的に柔和な印象を受ける。
「ええ。瑩瑩が火鉢と綿の布団を用意してくれたからぐっすり眠れたわ。ありがとう」
莉珠は笑みを浮かべて瑩瑩を労う。因みに今の莉珠は紅蓋頭をつけていない。
本来であれば仕来り上、夫の惺嵐に紅蓋頭を外してもらうまでずっとつけておかなくてはいけない。
しかし当の惺嵐に外す気がなく、このままでは生活がしにくいことから、惺嵐が後宮に来る先触れがない場合や莉珠が後宮内にいる間はつけるのを免除された。
莉珠が微笑み掛けると、瑩瑩は面映ゆい顔をする。
「本日のお召し物をご準備しました。王妃様がお似合いになるものを選びましたよ」
そう言って瑩瑩は着物を見せてくれた。
孔雀のような藍色と柿色の生地に小鳥や草花の柄が入った夾纈染めの衫襦。それから裾へいくほど淡い水色の裙だ。もちろん宝飾品も用意されている。
宝飾品は瑛華の嫁入り道具として用意された品々だ。安永城にいた頃に瑛華の宝飾品の手入れをしていたが、それよりも格段に豪華だった。
(お姉様が私に渡すのが惜しいと言っていたのがよく分かるわ。これらを身につけるなんて私には分不相応だもの)
だが、身代わりとなっている今はそうも言っていられない。
瑛華のように生まれ持った美しさも、身につけるべき教養も莉珠にはない。
だからせめて、外見だけでも彼女に寄せて高貴な女性らしくしなくては。鶏ガラみたいな身体だって、美しく着飾ればマシになるはずだ。
「瑩瑩が考えてくれる組み合わせはどれも洗練されていて素敵ね」
「お褒めいただき光栄ですわ。早速お着替えをいたしましょう」
促された莉珠は寝台から下り、机の上に用意されていた洗面で目と顔を洗う。引き出しにしまっていた巾着袋を出し、中に入っていた菱甘石を一つ入れる。そして、水が白灰色になるまで手で混ぜた。
目を洗うのは既に莉珠の中で日課となっている。
(陛下には身代わりだと見抜かれてしまったけれど、これは続けないとね)
赤眼には災いを呼ぶ力があるというのは、安永城の後宮内だけの話となっている。けれど、どこかで外に漏れ伝わっている可能性もあるため、慎重に行動する必要がある。
(それに何の前触れもなく目の色が赤に変わったら、薄気味悪がられるに決まっているわ)
莉珠は白灰色になった水で目を洗った。その後、瑩瑩に着替えを手伝ってもらう。
しゅるりと帯紐を緩めて夜着を脱がせてもらい、用意してもらった衫襦と裙に着替えた。
続いて座卓の前に移動して化粧が施される。
座卓には雹雪から渡された八稜鏡が置かれている。言いつけ通り、莉珠はこの鏡で毎日身支度を調えていた。
(目の色は大丈夫そう)
八稜鏡で瞳の色を確認して、莉珠はこっそり安堵の息を漏らす。
最後に花鈿が額に貼られたら、化粧の完成だ。
「では次に宝飾品をつけますね」
盆にずらりと並んでいる宝飾品の中で、瑩瑩は首飾りへと手を伸ばす。そこで莉珠は遠慮がちに口を開いた。
「ねえ瑩瑩、せっかく首飾りを用意してくれたのにこんなことを言うのは申し訳ないのだけれど。この佩玉をつけていては駄目かしら?」
莉珠は座卓の上に置いていた、母の形見である佩玉を指差す。
「昨日も一昨日もつけられていたので、今日は別の品を提案しようと思っていました。ですが、承知いたしましたわ」
流石は王妃付きの侍女。戸惑う素振りは一切見せない。
とはいえ、瑩瑩はどこか腑に落ちない顔をしていた。
莉珠は視線を瑩瑩から佩玉へ移し、指の腹で触れながら言う。
「この佩玉は母の形見なの。だから肌身離さずつけておきたいのよ」
莉珠にとってこの佩玉は母との繋がりを感じられる唯一の品。首から提げていれば、彼女が側で見守ってくれているような気がした。
異国で右も左も分からないまま生活をする中で、佩玉は莉珠の心の拠り所となっている。
莉珠の話から瑩瑩は納得したように頷いた。
「分かりました。それではこの佩玉と合うように残りの装飾品を選びますね」
佩玉の色味にあわせて、瑩瑩は腕輪や耳飾り、簪、歩揺などを選び直してくれる。
選び終えたところで、瑩瑩があっと声を上げた。
「申し訳ございません、王妃様。髪結いをするのに櫛を忘れてきてしまったようです。すぐに持って参りますのでお待ちくださいませ」
平謝りに謝る瑩瑩が一旦下がる。
大人しく莉珠が待っていると、程なくして扉が開かれた。
(あら?)




