第26話
浅い息を繰り返していくうちに胸の痛みが少しだけ和らぐ。
莉珠は胸を押さえながら淑妃について考えた。
(淑妃様の怨嗟の対象はいつも私だった)
どうして徹底的に憎まれるのか理解できなかったけれど、惺嵐と正式な夫婦となった今なら分かる気がする。
愛する人の心が別の誰かに向く。それほど悲しくて悔しくて、辛い気持ちはこの世に存在しない。
(好きな人には、自分の方を向いていてもらいたいものね)
その好意が別の誰かに奪われるのを想像しただけで身が引き裂かれるような気持ちになった。けれど、それに囚われて身動きが取れなくなるのは違う気がする。
何故なら後宮とは、世継ぎが誕生しなければ、いつまでも若くて美しい花が送り続けられるからだ。
憎しみを募らせてどれだけその芽を摘んだところで、新しい花はやって来る。
(私が死んだところで淑妃様の怨嗟に終わりは来ない。次の被害者を出さないためにも私で終止符を打たないと)
蹲っていた莉珠はゆっくりと起き上がる。
邪針が心臓に達して蝕んでいるのなら、残された時間は限られている。
何とかして雹雪の暴走を止めなければ。
「……陛下に私もあなたが好きって伝えたかったのに」
好きだなんて、もうすぐ死ぬ自分が口にしてはならない言葉だ。
口にしたら最後、残された惺嵐を自分という呪縛で縛ることになってしまう。
それなら伝えないまま死んだ方が彼のためになるだろう。
(その代わり、陛下が愛する国を淑妃様から絶対に守るわ)
莉珠が決意を固めていると、居室に如意がやって来る。
「莉珠様、今はお時間ありますか? 特産品研究で余った樹蜜石を使っていろいろ作って来たの。良かったら食べ……って、どうしたの? 顔色がすごく悪いわ!」
如意は血の気の引いている莉珠のもとに駆け寄った。
「少し体調が優れないだけ。休めば大丈夫よ」
「樹蜜石を混ぜた生姜湯は滋養強壮にいいから飲んで」
如意は手にしていたお盆を机の上に置き、生姜湯が入った茶杯を莉珠の前に差し出した。
胸の痛みで食欲なんて湧かないけれど、折角の厚意を無碍にはできない。
莉珠は如意から受け取った生姜湯を飲んだ。
舌の上に樹蜜石の甘さが広がる。トロリとしているので樹蜜石がたっぷりと入っているのが分かるし、すり下ろされた生姜の香りが良い仕事をしている。
飲み終えた頃には、胸の痛みが軽くなった気がした。
「美味しい。如意のお陰で楽になった気がするわ」
「そう? ならこの飴玉もあげるわ。同じ材料を煮詰めただけだけど身体に良いわよ」
如意は紙に包んだ飴玉三つを莉珠の手のひらの上に載せる。莉珠は如意にお礼を言って懐にしまった。
また胸が痛くなったら飴玉を舐めよう。
気休めかもしれないが、今の莉珠には大事なお守りだ。
「失礼します、王妃様」
「どうしたの?」
次に現れたのは玲瓏だった。
「先ほど、姚黄国より使者が到着しました」
「姚黄国から使者が来ているの?」
莉珠は目を白黒させた。使者の訪問があるなんて初耳である。
同感だと言うように玲瓏も頷いた。
「はい。姚黄国の皇帝が遣わしたとのことで。こちらも突然の訪問で驚いています。話を聞いておりますと、今回お越しになったのは、被災地に支援物資を送ったお礼だそうです。それと、皇帝は王妃様の様子が気掛かりでどうお過ごしか確かめたいようですよ」
莉珠は訝しむ。
目の上のたんこぶがなくなったと喜んでいた父が心配しているなんてあり得ない話だ。
そんな話は嘘に決まっているし、裏があるのでは?という疑念が湧いてしまう。
莉珠は口もとに手を当てて考え込んだ。
経緯を知らない玲瓏は、莉珠が気も漫ろになっていると判断したのだろう。こちらを落ち着かせようと優しく微笑んでくれる。
「現在、陛下が使者と面会しております。その後で王妃様も面会していただきますのでご安心ください」
「え、ええ。ありがとう」
一先ず使者に会わないことには、父の企みが分からない。内容を探るためにも、莉珠は使者と会うと決めた。
呼び出しがあったのは、それから数時間後のことだった。
莉珠は玲瓏と共に使者のいる貴賓室へと足を運ぶ。それは天藍宮殿の一番隅にあり、移動に時間が掛かった。
「王妃様がお越しになりました」
扉の両脇に控えていた侍衛が中にいる使者に声を掛ける。
扉が開かれ、莉珠は貴賓室に足を踏み入れた。既に使者は膝をつき、顔を伏せて待機している。
「積もる話もおありでしょう。私は外で待っておりますね」
気を利かせてくれた玲瓏はそのまま下がり、扉を閉める。
正直、使者と二人きりにされて心細いところはある。とはいえ、こちらの方が父の思惑が何なのか聞き出しやすい。
(まずは長旅で疲れているだろう使者を労らないと)
莉珠は椅子に座って声を掛ける。
「顔を上げて。姚黄国から遠路遥々よく来てくれましたね。……っ!!」
使者が顔を上げた瞬間、思わず顔色を失う莉珠。
目の前にいるのは雹雪の腹心・王荘だった。しかも、つけ髭までつけて宦官だとバレないよう徹底している。
「お久しぶりですなあ、禍姫。いや、今は蒼冥国の王妃様でしたね」
王荘はつけ髭を撫でながら薄ら笑いをし、こちらを品定めするようなねっとりとした視線を送ってくる。
莉珠は王荘を一目見ただけで恐怖に駆られ、萎縮してしまう。
(何故、王荘がお父様の使者としてここに来たの?)
「どうして私がここにいるのか、不思議で堪らない様子ですね? ですが禍姫は既に我が主から話を聞いているはずです」
王荘が誰による差金なのか莉珠はすぐに思い当たった。
「あなたの訪問はお父様ではなく、淑妃様なのね?」
王荘はニヤリとしながら指先を合わせる。
「ご明察。淑妃様はお心の深いお方ですから。あなたがちゃんと死んだかを確認するためにこの私を寄越したのです」
雹雪の行動に抜かりはない。彼女は王荘に莉珠が確実に死んだのかの確認に加えて、蒼冥国に何かを仕掛ける計画を立てているはずだ。
莉珠は眦を決して王荘に立ち向かう。
「あなたがここに来たのは、私の死を見届けるだけじゃないはずよ。たとえ死ぬ身だとしても、あなたや淑妃様の計画を止めてみせるわ」
すると、王荘は鼻を鳴らした。
「はっ、威勢がいいのも今のうちですぞ。冥土の土産に教えて差し上げましょう。淑妃様はただの道術使いではございません。彼女は道術の中で異端視され、禁じられている術を操る――邪術使いです」
聞き慣れない言葉に莉珠は八の字を寄せる。
「邪術とは、相手を不幸にすることに特化した禁断の術です。どうして淑妃様が淑妃という身分でありながら、後宮を取り仕切っているのか。もちろん皇帝の寵愛もありますが、それはこれまで淑妃様が邪術で邪魔者を排除してきたからです。例外は、淑妃様が手に掛ける前に死んだ蕎嬪だけです」
その話が正しければ、貴妃の素純が病に倒れているのも、息子の憂炎が不治の病に罹っているのも邪術が原因だ。
恐らく、素純の二人の息子は雹雪によって殺されたに違いない。立て続けに三人死ぬと怪しまれるので、憂炎はわざと生かしているのだろう。
また、すべての不幸の元凶が莉珠の赤眼だとして、莉珠本人と周りに信じ込ませた。
父から愛されなかったのも、女官たちから蔑まれていたのも、雹雪の暗躍によるもの。
(周りから疎まれ、後ろ盾のない私を淑妃様が助けてくれたと思ってた。でも、そうじゃなかった。あの方は自分の思い通りになるように、ずっと私を利用していたんだわ)
憤りを覚えた莉珠は震える拳を握り締める。
「すべてを知っている身としては、随分と楽しませていただきました。禍姫が哀れで無様で滑稽で、笑いを堪えるのに必死でした。でもそれは淑妃様が狡猾だからで、禍姫が間抜けという訳ではありません」
王荘は立ち上がると手を後ろで組んでこちらに近寄ってくる。続いて、自身の顔を近づけて莉珠の耳元で囁いた。
「もう淑妃様からお聞きになっておられるでしょうが、彼女の計画は最終段階。あなたを更なる絶望へ突き落とすための贈り物を用意しております」
贈り物――つまりそれは、雹雪が蒼冥国に危害を加えるという宣言に等しい。
莉珠は王荘を押しのけて勢いよく椅子から立ち上がった。
「一体何をするつもりなの?」
莉珠が眉を吊り上げて問い詰める一方で、王荘はせせら笑う。
「淑妃様が作った猛毒を、手土産として蒼冥王にも差し上げただけです。この目でしかと見届けました」
「なんですってっ……」
「猛毒なので一日と持ちません。まあ、今頃は悶え苦しんでいるでしょうな」
目の前が真っ暗になった莉珠は、膝から崩れ落ちるようにして椅子に座り込んだ。
惺嵐が死ぬ。自分と同じように毒で死んでしまう。想像しただけで胸が酷い痛みに襲われた。これは、邪針の毒で侵された痛みの比ではない。
莉珠の瞳は絶望一色になる。
「いやよ……そんなのいやああ!!」
頭を抱えて莉珠は叫ぶ。
外にいた侍衛が異変を察知して中に流れ込んでくる。
逃げようともしない王荘はあっさり捕らえられた。
その顔は目的を達成して満足げである。
「王妃様、お怪我などはありませんか?」
侍衛が頭を抱える莉珠に声を掛ける。
「陛下が、陛下がっ……」
息が上手くできなくて、何度も浅い呼吸を繰り返す。
貴賓室は天藍宮殿の一番端に位置する。惺嵐がいるであろう執務室よりも離れているため、普段の聴力では聞き取れない。
(耳通力を使う? 使って陛下の声が聞こえなかったらどうするの?)
堂々巡りに陥って結論が出せない。
もし惺嵐の声が聞こえなかったら?
周りの混乱する声だけだったら?
(どうしよう。怖くて使えないわ!)
耳通力がこれほど恐ろしいと感じるのは初めてだった。




