第20話
馬車の屋根からドスンという物音が聞こえてくる。白い虎がこちらに飛び移ったらしい。
不穏な展開に莉珠の身体は縮み上がる。
ここで襲われたら逃げ場はない。命を落とすだけだ。
馬車の中なので状況把握ができない。さらに恐怖を煽られる。
外からは馬と御者の悲鳴が聞こえてきた。途端に馬車が速度を上げ、激しく揺れて傾く。
(あっ……!)
身構えた時には遅かった。横倒しになった馬車から放り出される形で、莉珠は外に飛び出す。
「陛下たちをお守りしろ!」
翠月の指揮を執る声と加勢する武人たちの声が背後から聞こえてくる。
衝撃で目の前が真っ白になっていた莉珠は、彼らの声を聞いて現実へと意識を引き戻す。馬車から放り出されて身体に衝撃が走ったものの、痛みはまったく感じなかった。
それよりも近くで白檀の香りがする。徐々に視界がはっきりしてくると、莉珠は自分の置かれた状況に息を呑んだ。
「……っ、痛むところや怪我はないか?」
「陛下!?」
莉珠は目を見張った。
何故なら、惺嵐が自分を抱き締めて地面の衝撃を緩和してくれていたからだ。
惺嵐は莉珠に怪我や打撲がないかを隈なく確認してから離れる。
やがて、虎から莉珠を庇うようにして前に立った。帯刀していなかったので戦うための武器は手元にない。
「あれはこの地方に生息する雪虎だ。体格は普通の虎の二倍で獰猛。攻撃性が高い。危ないから俺の後ろにいろ」
惺嵐の背中からは、全力で守るという意思がひしひしと伝わってくる。
莉珠はまたもや面食らった。
(お姉様の身代わりと分かっていながら、どうして私を守ってくれるの?)
初夜で愛するつもりはないと言ったのに。
散々こちらを無視して、ずっと放置してきたのに。
惺嵐が愛しているのは瑛華だ。この状況で莉珠が命を落としたとしても誰も文句は言わない。寧ろ彼にとって莉珠と死別できる絶好の機会のはずだ。
呆然と立ち尽くしていると、馬車の馬を仕留めた虎が次はこちらに狙いを定めて襲い掛かってくる。
――このままでは自分のせいで惺嵐が殺される。
本能的に悟った莉珠は惺嵐を力いっぱい突き飛ばす。
(陛下は国民から慕われている。ここで死んでいい方じゃないわ)
突然横から莉珠に突き飛ばされた惺嵐は目を見張る。けれど、瞬時に莉珠の手首を掴み、そのまま自分の方へと引き寄せてくる。
この時の莉珠は気づいていなかった。惺嵐の隣に、大きな穴があることに。
「きゃああああっ!!」
莉珠は惺嵐と共に穴の奥底へと落ちていく。
最後に見た景色は、灰色の雲から舞い降りる白い雪だった。
しっとりと水気を含んだ空気を肌に感じる。それからさらさらと水が流れる心地よい音も聞こえてくる。
莉珠はうっすらと目を開けた。
(ここ、どこかしら?)
紗とはいえ、薄暗いと紅蓋頭越しの景色はよく見えない。
莉珠は少し捲って辺りを観察した。目の前には、ゴツゴツとした岩肌が見える。どうやら洞窟で眠っていたらしい。そしてすぐ近くには天井から降り注ぐ滝があり、小さな泉ができていた。
(どうして洞窟の中に? 私は陛下と宝珠山へ向かったはずなのに……)
少し遅れて思考が覚醒する。気を失う前に起きた出来事が一気に駆け巡った。
「そうだ、雪虎に襲われて穴に落ちたんだわ」
すべてを思い出した莉珠は周りを確認した。果たして惺嵐は無事だろうか。
「起きたのか?」
後方から静かな声が聞こえて振り返る。
少し離れた場所で惺嵐が岩肌に背を預けて座っていた。
莉珠は惺嵐のもとに駆け寄る。
「陛下、お怪我はありませんか?」
「幸いにも積もっていた落ち葉が緩衝材になって怪我はしなかった。だが、それなりに高さがあるから上には登れそうにない」
惺嵐は落ちて来た方向を指で示してくれた。
そこは光と雪が降り注ぎ、地面には落ち葉が何層にも重なっている。落ち葉が緩衝材として役立ったのは確かなようだ。
莉珠が落ち葉を眺めていたら、惺嵐が顔を覗き込むようにしてこちらを見つめてくる。
「どこか痛むところはないか?」
莉珠はぎゅっと下唇を噛み締めた。
宝珠山へ向かっている時も、雪虎に襲撃された時もそうだったが、惺嵐は莉珠を気遣ってくれている。
やはり莉珠には惺嵐が理解できない。どうして態度を改めるのだろう。
とにかく、無難な返しをしておかなければ。
「私は平気です。ですが、私が足手纏いになったせいで陛下にはご迷惑をお掛けしました。大変申し訳ございません」
莉珠は右腰に手を添えて頭を下げる。
すると惺嵐が立ち上がり、莉珠の両肩を掴んできた。
「謝るな。此度の件は俺の不甲斐なさにも原因がある。すまなかった。それから……」
惺嵐は一度言葉を切り、小さく息を引く。
「俺の前では取り繕わなくていい。いや、取り繕わないでくれ。何でも思ったことを打ち明けて欲しい」
「なっ……」
莉珠は呆れて返す言葉もなかった。酷い顔をしているのが自分でもよく分かる。
嫁いでから散々放置されてきた身としては、腹立たしくて仕方がない。
瑛華や雹雪の時には感じなかった怒りが沸々と腹底から湧いてくる。これまでどんなに負の感情がさざ波のように襲ってこようと自制できたはずなのに。
今回ばかりは抑えられなかった。
莉珠は肩に乗る惺嵐の手を振り払う。
「どうしてそんなことを仰るの? 私は今まで陛下から一方的に距離を取られてきました。愛するつもりはないと言われてそれも受け入れ、せめて王妃として相応しくなるべく日々努力してきました。それなのにこの期に及んで自分の前では取り繕うな? そんなの虫のいい話だと思いませんか?」
一度話し始めたら、これまで我慢してきた感情が堰を切ったように押し寄せてくる。
止めたくても止まらなかった。
「ご存知の通り、私は陛下が愛してやまない美姫の瑛華ではありません。異母妹の莉珠です。私は欺いた罪を償っていこうと、身代わり以外のことでは誠実でいたつもりです」
「おまえが瑛華でないのも知っている。だがそれを知ったのはついさ……」
「陛下は初夜の段階で見抜いておられましたよね。言わせて頂きますが、もともとは陛下が悪いのではありませんか。お姉様が嫁に欲しかったのであれば、最初から瑛華公主と指名すれば良かった。そうすれば、私も陛下もこんな不幸な結婚にはならなかった!!」
肩で息をしながら莉珠は溜め込んでいた鬱憤すべてを惺嵐にぶつけた。




