第15話
兄が国王だった時、惺嵐が率先して他国を巡っていたのは星星を使った偵察も兼ねていたからだ。隣接している国々の動向に目を光らせておく必要があった。
国王になってからも惺嵐は政務の合間を縫って星星に憑依し、偵察を行っている。
一年ほど前、情勢を探る目的で姚黄国を偵察したのだが時期が悪かった。丁度狩りをしていた皇帝一派に襲われたのだ。
命からがら矢の襲撃から逃げられたが、翼の付け根を矢が掠めて怪我を負った。幸い毒矢ではなかったものの、翼を動かす度に痛みが襲う。
惺嵐は後宮の里院に逃げ込んだ。
ここなら皇帝のお付きの者が安易に足を踏み入れないし、皇帝も花園まで武器を持って追っては来るまい。
そして日が沈んだら、鷲である星星は夜目が利かなくなる。早く隠れおかなくては。
隠れられる茂みを見つけた惺嵐は羽を休め、明朝には飛び立つ計画でいた。けれど、怪我はマシになるどころか悪化していった。
どうにか飛び立てないかバサバサと翼を動かしていたら、茂みの向こう側から可愛らしい声がした。
『あなた、怪我してるの?』
ほっそりとした華奢な身体に、着ている着物は色褪せていて背格好に合っていない。それはそれはみすぼらしい少女だった。
けれどその少女から惺嵐は目が逸らせなかった。身につけている着物がどれだけ色褪せたボロだとしても、少女の纏う雰囲気は気高く、赤い瞳には強い光が宿っている。
もっとその瞳をよく見たい。吸い込まれるように頭をもたげると手が伸びてきた。
ハッとした惺嵐は嘴で牽制する。
いくら崇高に見える少女だとしても、向こうはこちらを珍しい鷲と認識しているに違いない。
『怖がらないで。私はあなたを傷つけないわ』
手を引っ込める少女はこちらを安心させるように優しく微笑んだ。
確かに敵意は感じない。それどころかこちらを心配そうに見つめてくるので、もしかしたら助けてくれるかもしれない。
悪化している怪我を放置すれば翼が壊死して飛べなくなり、魂命術の解除ができなくなってしまう。惺嵐は怪我が治るまでの間、少女の世話になった。
また、起居を共にするに連れて、少女の正体が明らかになった。彼女は莉珠という名の公主で周りから禍姫と呼ばれ、被虐的な扱いを受けている。
後見人の淑妃とその娘・瑛華からは執拗なまでに虐められ、生傷や痣が絶えなかった。
特に瑛華の方は質が悪く、わざわざ莉珠が暮らしている宮にやって来ては折檻をしていた。
どうして心優しい莉珠をここまで虐げるのか。惺嵐は腸が煮えくり返った。
あの女たちの両目を嘴で潰してやりたい。けれど自分が姿を現せば、珍しい身体の色にどんな反応をするかが容易に想像がつく。
惺嵐は物陰からただ指をくわえて見ていることしかできなかった。そうして嵐が去った後、莉珠は泣くどころか決まってこちらにやって来ては、恐ろしいものを見せてすまなかったと眉尻を下げて謝るのだ。
一番理不尽で辛い目に遭っているのに、いつもこちらに気を回してくる。
その姿はどれだけ踏まれても起き上がる野花のようだ。彼女は厳しい環境の中で力強く生きている。絶望せず、毅然としているその姿は美しいと思った。
惺嵐が莉珠に心惹かれるまで時間は掛からなかった。怪我が完治した頃、惺嵐の中ではある決意が固まっていた。
(必ずあなたをこの恐ろしい宮から救い出す。だから少しの間待っていてくれ)
惺嵐は心の中で固く誓い、安永城の後宮からを飛び立った。
当時を思い出していると、神妙な顔で翠月がポンと肩に手を置いてきた。
「星星を介して出会った赤眼の公主がまだ忘れられない?」
「……」
何か言おうとして惺嵐は口を開くが、結局何も思いつかなくて口を噤んだ。
(忘れられないに決まっている。だが今は、後宮にいる瑛華を調べる必要がある)
手のひらをぎゅっと握り締めた惺嵐は、方向をくるりと変えて窓際に移動する。
続いて指笛で星星を呼び出すと、やって来た彼の身体に触れて術を唱えた。すべての言葉を紡ぎ終えると惺嵐の目がほんの一瞬、黄金色に煌めく。
「一先ず星星を通して瑛華を探ろう。そうすれば、普段の様子がはっきりする」
「それは、名案だね」
いろいろ言いたいことはあるようだが、後宮に足を運ばないよりマシだと翠月は判断したのだろう。快くこちらを送り出してくれる。
星星に憑依した惺嵐は空へと舞い上がる。何度か旋回した後、後宮へと飛んで行った。
瑛華が暮らしている居室近くの枝に惺嵐は降り立つ。
(よく考えたら、時間帯的に瑛華は如意のところへ行っているかもしれないな)
いろいろと知りたくて先走ってしまったと、惺嵐は苦笑する。
時間を置いて出直そうと再び翼を広げていると、部屋の中にいる誰かがこちらに近づいてきた。
「あら星星、今日は二度も会いに来てくれるの?」
聞き覚えのある可愛らしい声。
窓が開けられ、姿を現した人物に惺嵐の心臓が大きく跳ねた。
黒髪に白い肌、華奢でほっそりとした身体の少女。瞳の色が赤から焦げ茶色に変わっているが間違いない。
惺嵐は息をするのも忘れて見入ってしまう。
(……莉珠公主、なのか?)
莉珠が微笑みを浮かべて手招きをする。
「またあなたを撫でさせて」
惺嵐が素直に窓枠へ移動すると、莉珠は優しく背を撫で始める。
これは夢なのだろうか。けれど、触れられる手は温かい。
(夢じゃない。彼女だ!)
蒼冥国に嫁いできたのは、瑛華本人でも女官でもなかった。
求めていた莉珠が目の前にいる。歓喜して心の奥底が震えている。
(莉珠公主、いや莉珠。会いたかった。ずっとあなたをあの恐ろしい鳥かごから救い出したかったんだ)
今すぐ人間の姿で会いに行き、莉珠を抱き締めたい衝動に駆られる。
けれど、惺嵐は現状を思い出して打ちひしがれた。
この数ヶ月、莉珠にたくさんの惨い仕打ちをしてきたのを惺嵐は思い出したのだ。
彼女から婚姻の証しである玉を奪い、さらには愛さないと宣言をしてずっと放置していた。
こんな男に今更言い寄られて、莉珠からすれば迷惑な話に決まっている。
(この先、俺は莉珠に一生を掛けてでも償わないといけない。俺は、彼女に好きになってもらえるのだろうか?)
歓喜に包まれたのも束の間、惺嵐の心は暗い奈落の底へと沈んでいった。