第12話
居室に篭もっていたからか、久しぶりに吸う外の空気は美味しく感じる。
息を弾ませながら通路を歩いていると、突然空から甲高い鳴き声が聞こえてきた。
「ピィー」
聞き覚えのある鳴き声に莉珠は上を仰ぐ。
一匹の鷲が悠然と空を飛んでいた。その姿はあまりにも雄々しく美しく、目を奪われる。
強い風が吹く。莉珠の被る紗の紅蓋頭が大きく揺れた。頭から落ちないように留め具をつけていたけれど、風が弄ぶうちに外れてしまう。
地面に落ちた紅蓋頭は明後日の方へ飛んでいく。部屋の外なのですぐに拾って被り直さなくてはいけない。
けれど、莉珠は鷲から目が離せないでいた。強い日差しに晒され、思わず目を細める。
太陽を背にして飛んでいるため逆光となり、鷲の黒い影しか見えない。けれど、目があっているような気がした。
気のせいかと思った矢先、鷲がこちらに向かって急降下してくる。
予期せぬ行動に玲瓏と瑩瑩は小さな悲鳴を上げた。
鷲は何度か翼を羽ばたかせて近くの木に留まる。
「わあっ!」
莉珠は思わず感嘆の声を上げた。
目の前にいる鷲は羽の一部が青く、一年ほど前に安永城で助けたあの子によく似ていた。
出会った当初は警戒心を露わにしていたが、莉珠の説得を受けて大人しくなり、最後は怪我の手当もさせてくれた。
怪我が完治するまでの一ヶ月、莉珠は時間が許す限り柳暗宮で介抱をした。雹雪や瑛華に折檻され、痣だらけで帰ってきた時は、その姿に癒やされたものだ。
時折、鷲は柳暗宮をひょこひょこと歩いては自生しているタンポポの葉やオオバコなどを嘴で銜えて持ってきてくれた。
それらは腫れに効く薬草である。どうして植物の効能を知っているのか不思議に思ったが、ありがたく使わせてもらった。
(あの物知りな鷲は怪我が完治した次の日に、飛んでいってしまったのよね)
無事に怪我が治ってくれて嬉しいと思う反面、寂しい気持ちにもなった。
ずっと寝食を共にしていたため、いつの間にか莉珠の心の支えになっていたのだ。
「……こんなところまで飛んでくるはずないわよね」
誰に言うでもなく莉珠は小さく呟いた。
安永城と天藍宮殿まではかなりの距離がある。いくら長距離を移動する鷲であっても、ここまでは辿り着けまい。
「王妃様、この子は陛下の鷲ですわ」
鷲を食い入るように眺めていたからか、瑩瑩が教えてくれる。
「陛下の鷲?」
顔を向けると彼女の手にはいつの間にか紅蓋頭が握られている。どうやら拾ってくれていたようだ。
莉珠は紅蓋頭を受け取って被り直す。つけるのを手伝ってくれた瑩瑩は、紅蓋頭を留め具でしっかりと固定してくれる。
「この鷲は幼い頃から陛下と一緒に過ごされていて、名前は星星と申しますわ」
「星星。それがあなたの名前なのね」
名前を呼ばれた星星は返事をした。
「ピィー」
「ふふ。よろしくね、星星」
惺嵐が可愛がっている鷲なら、それこそただの勘違いだ。野生ならともかく、飼われている鷲が長距離を移動するはずないから。
羽の一部が青いのはそういう種類の鷲なのかもしれない。
「あなたは綺麗な羽の色をしているわね」
莉珠はそっと手を伸ばし、星星の背中に触れた。ふわふわとした体毛は柔らかく、ずっと触っていたくなる。
うっとりとした表情で撫でていると、玲瓏が驚いた表情でこちらを見つめてきた。
「星星は普段から気性が荒く獰猛で、陛下以外に懐かないんですよ。なのに、王妃様にはとても懐いておられます」
「そうなの? たまたま機嫌がいいだけだと思うわ」
これは単なる偶然。あの鷲とここで再会するはずがない。
呆気に取られている玲瓏に、莉珠は苦笑するしかなかった。
星星を撫で終えた後、莉珠は再び後庭を散策する。
多種多様の牡丹が植わっているだけでなく、杏や柘榴の果樹も植わっていた。
杏や柘榴は収穫期になれば侍女たちの手によって収穫され、宮殿の食材として使用されるのだという。
晩秋なので杏の時期はとうに終わっていたが、代わりに柘榴がたわわに実っていた。何人かの侍女たちがせっせと柘榴を摘んでは、大きな籠へと入れている。
彼女らの様子を観察していたら、隣にいる玲瓏が口を開く。
「この時季になると柘榴は西市の果物屋でたくさん売られているんですよ」
王都には二つの大きな官営市場があり、それぞれ西市と東市と呼ばれている。
東市は役人の邸宅が多い区域なので、比較的値段の高い品が集まりやすい。その一方で西市は庶民的な店が建ち並び、いつ足を運んでも賑わっている。
莉珠は宮殿入りする前に、馬車で西市の前を通っていた。食料品だけでなく、染め物屋や薬屋、灯燭屋など様々な日用品を売る店もあったと記憶している。
(この国に嫁いだのに、私は国民生活について何も知らない。彼らはどんな生活をしているのかしら?)
座学も大事だが、人々の生の声を聞いた方がより身近に感じられる。
母は耳通力を私利私欲に使うなと言っていた。
今回は王妃として国民生活を知り、彼らの役に立つためなので決して私利私欲ではない。
莉珠は西市がある方角へ身体を向けた。
耳通力を使えば、莉珠は五里先の音までは聞きとれる。裏を返せば、それ以上先は聞き取れない。
(ここから西市までは大体二里だから、力を使えば会話を拾えるわ)
莉珠は早速、耳通力を使った。大凡の位置が分かれば、後は座標を定めればいいだけだ。
座標を定めて耳を澄ませると、西市から人々の声が聞こえてきた。内容は最近の景気についてや、旬の食材を売り込む店主の声。それを値切る客の声などでとても賑やかだ。
中には不安な声も幾つか混じっていて、主に北東部のウシハ族の侵攻についてだった。
北東地域は要塞の関所があり、国境警備隊の警備が強化されているようだがこの時期になると必ず襲ってくるらしい。
その人は北東地域から来た商人で、今年はどれくらいの被害が出るのか不安に思っているようだった。
莉珠は更にその声に耳を傾ける。やがて、話を聞いていくうちにあることに気づいた。
それは誰も惺嵐を悪く言わないことだ。
『陛下が防衛の強化をしてくださっているから、この冬は心配ないだろう』
『それもそうだな。税の負担も下げてくれたし、今年の冬は暮らしが楽になる』
『あとは寒さがもう少し和らいでくれたらなあ。まあ、それは天次第か』
惺嵐は国民からとても慕われていた。
耳通力がなければ、莉珠は彼の国王としての一面を垣間見えなかっただろう。そして世間を知らずに、後宮でぬくぬくと快適に暮らしていたままだった。
(学んだ気になっていただけで、私は何も分かっていなかった。それどころか国民に寄り添えてもいない)
莉珠は如意の姿が脳裏に浮かぶ。
自分を間者だと罵った如意。今なら何故彼女がそう言ったのかが理解できる。
(国民生活を考えようともせず、ただ贅沢を享受している人間に見えた。だから私を姚黄国の間者だと言ったんだわ)
彼女の目にそう映ってもおかしくないと思う。何故なら莉珠は瑛華のような高貴な女性に見えるよう、いつも派手に着飾っていたのだから。
瑛華や雹雪は贅沢な宝飾品や着物に身を包み、すべてを欲しいままにしていた。
だから高貴な女性とは煌びやかな品々に囲まれて化粧をし、美しくあるものだと莉珠は疑わなかった。
(身代わりの私はずっとお姉様みたいにならなきゃ、体裁を保たなきゃって思い込んでいた。でもその考えは間違っていたみたい)
視線を下に向けた莉珠は身につけている宝飾品や着物を眺める。首から提げている母の形見以外はどれも着こなせていない。
(陛下には身代わりだと見抜かれているんだから、今更お姉様のように取り繕う必要なんてなかったのに。私ったらどうして気づかなかったのかしら)
自分が滑稽で仕方がない。けれどそれに気づけたお陰で身体は何故かフッと軽くなった。
がんじがらめになっていた感覚はなくなり、自分の進むべき道が自ずと見えた気がする。
莉珠は耳通力を使うのをやめ、隣にいる玲瓏へ顔を向けた。
「玲瓏、如意に会いたいのだけれど、先触れを出してくれるかしら?」