第54話 さくらと咲良は楓の山で。
天狗岩の左側に下り始める。
すると、不意に咲良が手を離した。
「キャッ」
ザザザという地滑りのような音がして、咲良は、一瞬で霧に飲まれていった。
わたしと先生は、すぐに咲良を追いかける。
ここで見失ったら、一生会えない気がした。
足場は悪かったが、下りれないほどではなかった。眼鏡が外れてどこかにいってしまったが、そんなことは言っていられない。
目を凝らしながら斜面を下りると、数分で咲良に追いつくことができた。
だが。
再会した咲良の膝は、曲がってはいけない方向に曲がっていた。
「いたい、痛いよ……」
咲良の膝からは、骨が突き出していて。
真っ赤な薔薇のような鮮血が溢れ出ていた。
血の色は鮮明なのに。
あたりは、ベールのような濃霧に包まれていた。
先生は、ザックからロープと包帯を取り出すと、咲良の太腿に巻きながら、言った。
「きっと、他のグループが、わたしたちを探してくれているはず。ここで、しばらく待ちましょう」
ついさっき滑り下りた斜面は、砂利になっていて、とてもじゃないが咲良を連れて上れそうになかった。だから、わたしも待機が正解だと思った。
だけれど、何時間待っても助けは来なかった。
夜になると、風が強くなって、どんどん体感温度が下がっていく。身体にあたる空気が氷のように冷たい。
すると、先生は、ザックから大きなアルミシートを取り出し、わたしと咲良にかけてくれた。
「これ、先生のだよ? 先生は?」
先生は微笑んだ。
「いいの。わたしは大人で2人より強いから。それに我儘ボディで皮下脂肪もたっぷり……。それよりも、一枚しかなくてゴメンね。保温効果が下がらないように、身体に巻き込むように掛けなさい」
それでも手と足がかじかむ。
きっと、いまは氷点下だ。
どこからか聞こえる獣の遠吠え。
どんどん気力と体力が削られていくのが分かった。
すると、先生はクッキーを渡してくれた。
わたしと咲良で、2枚ずつ。
「先生はさっき食べたから。これしか残ってなくてごめんね」
先生は優しく声をかけてくれる。
わたし、本当は分かってたんだ。このクッキーは食べ残しじゃないって。
でも、怖くて。
先生に言われたままに、それを時間をかけて、少しずつ食べた。
風が止んで、空が漆黒になった。
わたしは上を向いた。
咲良も先生も上を向いていた。
3人で夜空を見上げた。
いつのまにか。
霧は晴れていて。
そこに見えたのは満点の星だった。
気づくと咲良は眠っていた。
先生は、わたしの肩を抱きしめると言った。
先生の三つ編みの先が、わたしの鼻にあたってくすぐったい。
「つばきさん。あなたは夜が明けたら、助けを呼びに下山なさい。わたしは、咲良さんと一緒に助けを待つから」
「でも……」
先生は首を横に振ると、わたしの頭を撫でた。
太陽が出て明るくなると、咲良はあまり話さなくなった。みんなのザックの衣類を集めたのだけれど、咲良の身体が冷えていくのを止められそうになかった。
先生は、やはり、咲良と残るようだ。
咲良を抱きしめていた先生は、わたしを呼ぶと眼鏡を渡してくれた。
「これは、わたしのラッキーアイテムなの。昔、本屋さんでバイトしててね。好きだった後輩くんにもらったんだ。これがあれば絶対に大丈夫だから」
わたしはそれを受け取った。
赤いフレームの使い込んだメガネ。
先生は、最後に、わたしを抱きしめると、肩の後ろの辺りをポンポンと叩いてくれた。
「……はい。大切にします。必ずお返ししますんで。だから先生も。ぜったいぜったい。頑張ってください」
わたしは2人に手を振ると、斜面を駆け上がった。昨日、何度も滑り落ちた斜面だったが、霧がないからか、3度目で登ることができた。
先生、咲良。
まってて。必ず戻るから。
わたしはまた霧が出てきた歩道を、ロープに沿って下りていった。
それから、数時間後。
わたしは、救助隊に助けられた。
「友達と先生が取り残されているんです!! すぐに助けに行ってください!!」
だけれど、その直後に雪が降ってきて、その日の捜索は見送りになった。ヘリでの救助も検討してくれたのだが、麓も荒天だったらしく、ヘリは飛ばせないとのことだった。
次の早朝、わたしも捜索に参加させてもらい、現地の案内をした。
天狗岩が見えてきた。
滑落したのは、きっと、このあたりだ。
「目印のあの岩。あれを見て左に下りたんです」
わたしの言葉を聞くと、ベテランの隊員さんは、ため息をついて首を振った。わたしは、気になったけれど、ロープ伝いに斜面を下りていく。
すると、2人がいた。
先生は咲良に覆い被さるように。
咲良は眠るように、そこにいた。
2人には雪が積り。
時間が止まっているようだった。
2人は冷たくなっていた。
2人が目覚めることは、もう永遠にない。
それからというもの、学校には連日、マスコミが押しかけ、校長や理事長は、釈明に必死だった。
わたしには、もはや、学校の言い分などどうでもよかった。聞いた話では……、伝統行事に固執して、安全配慮が不十分だったらしい。
後から知ったのだが、わたしが見つけた岩。
あれは、偽天狗岩といって、本物と見間違えて道に迷う登山者が後をたたないため、注意喚起されている岩らしかった。
だから、救助隊員さんは首を振ったのか。
……わたしがあの岩を見つけたから。
あんなことが起きた。
わたしは、自分だけ助かって。
2人を見殺しにした。
わたしは、自分には生きる資格がないと思った。
それから、外が怖くなって。
外に出れなくなった。
毎日、同じことしかできなくなって。
それ以外のことをすると、手が震えてしまう。
そのまま、高校は中退になり。
どれだけ時間が経っても、わたしは、立ち直ることができなかった。
事故の翌年、咲良と先生の家族が学校を相手どって裁判を起こした。そんなことで、咲良も先生も生き返ることはないけれど、せめて、裁判の行方を見届けようと思った。
だから、わたしは先生のメガネをかけて傍聴にいった。
すると、帰り道。
原告側の弁護士さんに声をかけられた。
随分と若い弁護士さんだった。
「その眼鏡。先輩……、持っていてくれたんだ。君は、か……、先生の教え子さん? 彼女は、いい先生だった? よければ少しだけ話させてもらえないかな」
どうやら、この眼鏡は、この弁護士さんが先生にプレゼントしたものらしい。弁護士さんが教えてくれた高校時代の先生は、引っ込み思案で、少しだけわたしに似ていた。
わたしがメガネを返そうとすると、弁護士さんに断られた。
「これは君がもっていて。僕の知ってる先輩なら、きっと君のことを応援していると思う」
でも、わたし。
高校も中退だし。前なんて向けないよ。
すると、弁護士さんは頭を掻いた。
「俺ね、大学いってないんだ。高校だって、辞めちゃってさ。通信でギリギリ卒業。でもね。あるとき、君の先生に励まされたんだよ。『君ならできる』って。だから、きっと先生も同じことを言うと思う。君ならできる。頑張って」
弁護士さん。目が泣いていた。
涙は出てないのに泣いていた。
もしかして、弁護士さんは先生のことを……。
この日、わたしは教師になると決めた。
必死に勉強して、高認(大検)をとって。
大学も卒業して。
とある中学校の教員になった。
「先生、わたし、担任を持てるようになったんだよ。それがね、クラスに、ちょっと変わった子がいてね。楽しい問題ばかり起こすの。これから、その子の三者面談なんだ」
教室のドアがノックされた。
廊下の向こうから、女の子の声が聞こえる。
「パパさま! 先生は別嬪じゃからのー。好きにならないようにな?」
わたしは、先生にもらった眼鏡をかける。
ね、先生。
わたし、少しは。
……先生の夢を引き継げたかな?