八冊目『流跡』
「府雨の読書日記」八冊目『流跡』
『流跡』
著 朝吹真理子
川が上流から下流へ流れるのは、誕生から死までのメタファーなのか。
あるいは、川は、例えば道路のように、何かを運び渡す媒介なのだろうか。
みたいな話を大学の文芸サークルで、読書会の担当になった時に取り上げました。
別のサークルの先輩が、朝吹真理子なら『流跡』が面白いよとおっしゃって、読んでみたらやはり面白かった。
僕の読解が構造主義的だと仏文の先輩から言われた。その時は内田樹の呪縛? から解き放たれていなかったので、分析的な読解になってしまった。それはそれで楽しかったですけど。
夜の鴨川の泥のように深い黒の水面と、橋につけられたランプが、想像する『流跡』の川面に重なって、あんなふうに川が生きているようにぬめぬめとしているなんて、東京の街で生きて、川なんか一度も見たことがないくらいの僕には、特別に感じられた。
おでんをつまみながら、鴨川デルタで仏文の先輩と物理の先輩と一緒にお酒を飲んでいた時、物理の先輩に聞きました。
「波は同じように波打ってるけど、一つとして同じ波はないんですか?」
「一つとしてないよ」
夜の街に、群をなして走るタクシーが、僕には川渡しに見えた。その話をしたら、先輩には「深読みじゃない?」と言われたけど。
もし「一番好きな文芸作品は?」と聞かれたら、いくらか逡巡した後に『流跡』と答えるかもしれない。
あの泥のように暗い渋谷、腐った人の脂のにおいのする新宿、……渋谷は明るい? いえいえ、そんなことありません。渋谷はとても暗いんです。
何人もの人がタクシーの車窓から、大切な思い出とか屈辱とか、ライフポイントとかを道路に落としていって、道路にはその石油のような思念が滞留し続けている。
地に塗れた記憶が、川には堆積している。
流跡の情景は、紺やら藍やらの色。墨絵のようでもあるのに色がついている。太陽の日差しや、水面が反射する光の色を細かく差しているように見える。そしてそれは、決して水色とかではない。当たり前か。